真田幸村像 平成20年10月29日

真田幸村 さなだ・ゆきむら (真田信繁 さなだ・のぶしげ

永禄10年(1567年)(永禄13年の説あり)〜慶長20年5月7日(1615年6月3日)

長野県上田市・JR上田駅前でお会いしました。


父は真田昌幸。
名は信繁。
天正13年(1585年)、父に従い豊臣秀吉に仕える。
秀吉の小田原攻めで戦功をあげる。
文禄元年(1592年)の朝鮮出兵では、肥前名護屋まで出陣。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦では、父と共に信濃国上田城に籠城して、中山道を進軍する徳川秀忠軍を迎え撃ち、大いに戦功をあげた。
戦後、東軍に属した兄・信之の助命嘆願により紀伊国高野山九度山に蟄居。
大坂冬の陣が起きると豊臣秀頼に応じ、大坂城南天王寺口外堀の外に“真田丸”と呼ばれる出城を築き奮戦する。
翌年の夏の陣にも参陣し、一時は徳川方の本陣まで迫るが討死した。


真田幸村公像



真田幸村公像
(長野県長野市・JR上田駅前)





(平成20年10月29日)

眞田幸村(本名信繁)

上田城主安房守昌幸二男
豊臣秀吉近侍従五位下左衛門佐任官
関ヶ原合戦は西軍につき籠城東軍を撃破
戦後紀州高野山に配流
大阪の陣起こるや秀頼の招きで入城
冬の陣は城外出丸で奮戦
夏の陣は家康の本陣突入
5月7日戦死
49歳

(碑文より)

真田幸村

真田氏は上田の北、現在の上田市真田町に本拠をもつ領主でしたが、戦国時代末の幸隆のときに信濃に進出してきた武田信玄に仕えて頭角を現しました。
武田氏の家臣として、真田氏は幸隆・昌幸の2代で真田の地から峠を越えた上野国(群馬県)の吾妻郡や沼田(利根郡)にかけて勢力を築いたのです。
そして、天正10年(1582)の武田・織田両氏の相次ぐ滅亡による混乱の中で真田昌幸は、周辺の上杉・北条・徳川という強豪のはざまにあって目覚ましい働きをみせ、その勢力をさらに拡大します。
天正11年(1583年)には上田城築城にとりかかり、上田盆地を中心とする小県郡一帯をもその支配下におさめました。
こうして成立した真田領は石高は10万石足らずですが、上信の2国にまたがり、上田沼田間だけでも約100kmもあるという広大なものでした。
真田氏としては、昌幸の次男であった幸村が有名です。
幸村は慶長5年(1600)の上田城籠城戦(関ヶ原合戦の一環)後、天下を取った徳川家康によって父・昌幸とともに高野山に流されました。
そして、その山麓の九度山で長く暮らした後、豊臣秀頼に招かれ、大阪冬・夏の両陣に於いて、徳川勢を相手に大活躍しました。
幸村はここで討死しましたが、「真田、日本一の兵つわもの」と言わせた程の武勇は、その後永く後世に語り継がれることとなりました。

(説明板 「歴史いきづくロマンのまち信州上田」より)

真田幸村像 平成20年10月29日

長野県上田市・上田市観光会館でお会いしました。

真田幸村像



真田幸村像
(長野県上田市・上田市観光会館)





(平成20年10月29日)
上田市観光会館



上田市観光会館
(長野県上田市大手2−8−4)





(平成20年10月29日)

真田幸村



真田左衛門佐幸村(信繁)

(長野県上田市・上田城)





(平成20年10月29日)




左:真田幸昌(大助)
中央:真田昌幸





(平成20年10月29日)

真田信繁(幸村) (1867〜1615)

真田昌幸の二男として生まれる。
幸村という名前で親しまれているが、これは俗称で、本名は信繁である。
天正13年(1585)上田城が徳川の大軍に攻められた時、父昌幸・兄信之と共に戦った。
また、慶長5年の関ヶ原の戦いには、父昌幸と共に西軍に属し、徳川秀忠軍を上田城で撃破した。
後紀伊高野山麓の九度山に配流されたが、慶長19年(1614)の大坂冬の陣および翌年の大坂夏の陣には、配所を抜け出して大坂城に入り、徳川軍を危機に陥れるほどの大活躍をした。
しかし、この戦いで幸村は長男大助と共に戦死した。
「真田日本一之兵つわもの、いにしえよりの物語二も無之由」とたたえられ、悲劇の英雄として語り継がれている。

(説明板より)

真田幸村象 平成20年6月16日

大阪府大阪市天王寺区玉造本町・三光神社でお会いしました。

真田幸村之像



眞田幸村之像

(大阪市天王寺区玉造本町14−90・三光神社)





(平成20年6月16日)

碑文

真田幸村は信州上田に生れ、長じて父昌幸と共に関ヶ原合戦に於ては西軍につき、大阪冬之陣・夏之陣では豊臣方に従って絶妙の作戦指導のもとに縦横無盡の活躍を致し、武運拙く大阪安居天神の森に没したが知将としての誉れは、その武勇と共に永く後世に名をとどめている事は衆知の通りである。
大阪真田山ライオンズクラブは幸村の故郷である上田ライオンズ・クラブとの間に姉妹提携をもち此の度はC・N15周年を迎えるに当って其の記念の為に真田幸村の銅像を建立した次第である。
尚台座の真田石は、真田家の菩提寺である信州の長谷寺ちょうこくじより取り出したるものを上田ライオンズ・クラブの好意に依り遠路遥々提供を受けたものである。

昭和62年6月10日
大阪真田山ライオンズクラブ
建立

真田の抜穴跡



史蹟 真田の抜穴跡

(大阪市天王寺区玉造本町14−90・三光神社)





(平成20年6月16日)
真田の抜穴内部



真田の抜穴内部
(大阪市天王寺区玉造本町14−90・三光神社)





(平成20年6月16日)
三光神社



三光神社
さんこうじんじゃ
(大阪市天王寺区玉造本町14−90)





(平成20年6月16日)

【戦死】

大坂夏の陣で、徳川家康の本陣を狙って何度か突撃を繰返した幸村を最後に安居やすい天神の近くで討ち取ったのは、松平忠直(家康の二男・結城秀康の子)の家臣・西尾仁左衛門にしおにざえもんであった。

(参考:『歴史街道 2011年9月号』 PHP研究所発行)

(平成26年4月19日 追記)


墓碑

墓碑
(長野県長野市松代町・長国寺・松代藩主真田家墓所)

右:真田幸村
  慶長二十年五月七日 大光院殿月山傳心大居士

左:真田大助


(平成20年10月27日) 
真田家墓所



真田家墓所
(長野県長野市松代町・長国寺)





(平成20年10月27日)
真田家墓所



真田家墓所
(長野県長野市松代町・長国寺)





(平成20年10月27日)

史跡
松代藩主真田家墓所
国指定文化財
昭和62年12月25日指定

松代藩主真田家は元和8年(1622)、上田から松代に移封され、菩提寺長国寺も移された。
松代初代藩主信之のぶゆき始め歴代の霊屋たまやが長国寺伽藍がらんの裏(東)に建てられ、その東南の一郭に歴代の墓地が設けられた。
霊屋はもと5棟あったが、現在は信之霊屋(重要文化財)と4代信弘霊屋(県宝)の2棟が残るだけである。
3代幸道霊屋は本堂裏に移建、開山堂(県宝)になっている。
墓地は白土塀に囲まれ、歴代10代の藩主やその子女の墓碑がある。
墓碑は宝篋印塔ほうきょういんとうが21、地蔵型塔2基等で、ほかに12基の献灯がある。
信之の墓にだけ、石の鳥居がある。
ほかに真田家中興の祖で信之の祖父に当たる幸隆、伯父信綱、父昌幸、弟幸村、その子大助らの供養塔や碑がある。
信之の母、妻、歴代藩主婦人などの墓は別の寺にある。
霊屋と墓所が一体として残っていて、江戸時代の大名家墓所を知る上で貴重であるのでこの墓所をはじめとして、境内一帯が国の史跡に指定された。

平成12年3月1日
長野市教育委員会
長国寺

(説明板より)

長国寺



長國寺
(長野県長野市松代町松代1015−1)





(平成20年10月27日)

長國寺は、天文16年(1547)、真田幸隆公(1513〜1574)が真田郷の松尾城内に真田山長谷寺を建立し、伝為晃運禅師(1573歿)を開山第一世に招請して、真田家の菩提寺となった。
永禄7年(1564)松尾城外に移され、本格的な禅刹として諸施設が整ったが、元和8年(1622)、上田藩主だった真田信之公(1566〜1658)の松代移封によって現在地に移転し、寺号も長國寺と改められた。
現在、曹洞宗の専門道場として認可されている。

(リーフレットより)




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