山砲兵第51連隊

(通称号:討4237)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
弘前 昭和13年 第21師団 ハノイ

昭和13年9月、徐州にて編成完結。
同地区の治安警備にあたる。
昭和16年末、北部仏印に転進。
途中、第3大隊は永野支隊に配属され、バターン作戦等に参加。
昭和17年末、第3大隊はフィリピンから原所属に復帰。
昭和18年、仏印北部重点正面を担当。
昭和19年5月、第4大隊を編成。
大陸打通作戦が南寧まで進捗したことに呼応して、一宮支隊に1個大隊を配属。
12月、第21師団と連絡打通でき、帰隊。
昭和20年3月、明号作戦が発動され、各大隊を歩兵連隊に配属して仏印軍の武装解除に任ずる。
その後、連隊主力はハノイ西南方のホアビン地区に陣地を構築中、終戦を迎えた。


砲魂の碑



「砲魂」の碑
(長野県松本市・長野県護国神社

佛印派遣討4237部隊第4中隊



(平成20年10月25日)

復員満40年ヲ記念シテ之ヲ建ツ

昭和61年5月30日
長野県出身者の会
会長 大嶋一義
    ホカ一同

(碑文より)


北部仏印

第21師団司令部はハノイに設置された。
そして北部仏印の防備を強化するために、歩兵第83連隊と山砲兵第51連隊の主力をハノイより北部に配置した。
南部仏印には、サイゴンを中心に、歩兵第82連隊基幹の部隊を配置した。
防備の重点は、なんといっても北部仏印であり、とくに国境の町、ランソンとラオカイとが超重点であった。

ハノイの街は、街の中央にプチ・ラックという小湖があり、西南の郊外にはグラン・ラックというやや大きな湖があった。
平坦な地である。
仏印の政治、文化の中心地で、仏印総督府もあればハノイ大学もあった。
日本からは仏印大使府をここに置き、別に陸軍は強力な仏印側との交渉のために、長機関(機関長は長勇少将。のち沖縄の第32軍参謀長で自決)を置いていた。

仏領印度支那(当時)に移駐した第21師団の主力は、北部仏印の国境の警備を強化するとともに昼夜を挙げて、教育訓練に精進していた。
南方はさすがに暑い。
体力を消耗すること夥しい。
第一線部隊は、昼食後2時間を午睡させて、体力の維持ないしは増強を図っていた。

(参考:池田二郎著 『新品将校奮戦記』 共栄書房 1981年) 

(平成23年1月28日追記)




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