佐野政言 さの・まさこと

宝暦6年(1757年)〜天明4年4月3日(1784年5月21日)


善左衛門。
天明4年(1784年)3月24日、江戸城中で若年寄・田沼意知おきともに斬りつけ、死亡させたため切腹させられた。
動機は家来筋の田沼家が佐野家の系図・旗を奪ったとか、賄賂に係わる怨恨というが、門閥譜代らによる政治的な暗殺との風評もあった。
折からの江戸廻米による米価安定と田沼政権への嫌悪から『世直し大明神』と世に騒がれた。


説明板



佐野善左衛門宅跡
(東京都千代田区三番町・大妻女子大学前)





(平成18年7月14日)

佐野善左衛門宅跡

標識の後ろ側、大妻学院の辺りには、元禄11年(1698)から旗本佐野家の屋敷がありました。
佐野家は、禄高500石で、代々、江戸城の警備を勤めていました。
天明4年(1784)3月24日、ときの当主佐野善左衛門政言は、江戸城中之間において、老中田沼意次の子で若年寄の田沼山城守意知に斬りつけました。
田沼意知は傷がもとで4月2日に死去し、佐野政言も翌日切腹を命じられ、御家断絶となりました。
しかし、世間の人々からは「世直し大明神」とあがめられました。
また、佐野家の屋敷には桜の名木があり、番町の名物として知られていました。

平成16年3月
千代田区教育委員会

(説明板より)



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