平成21年11月6日

佐野常民 さの・つねたみ

文政5年12月28日(1823年2月8日)〜明治35年(1902年)12月7日

岩手県盛岡市・日赤岩手乳児院でお会いしました。


幕末期の佐賀藩士、明治期の藩閥政治家。
蒸気船など佐賀藩の西欧技術導入に貢献。
維新後、兵部省を経て工部省で累進。
元老院議官・大蔵卿・元老院副議長を経て明治21年(1888年)枢密顧問官となる。
第一次松方内閣の末期に農商務相を務めたのち枢密顧問官に復す。
西南戦争中に博愛社(のち日本赤十字社)をおこす。
竜池会(のち日本美術協会)による美術工芸の奨励でも知られる。
伯爵。


初代社長佐野常民氏像



『初代社長佐野常民氏』像
(岩手県盛岡市・日赤岩手乳児院)





(平成21年11月6日)

碑文

明治10年元老院議官佐野常民は 西南の役を契機に 日本赤十字社の前身である博愛社を創立し 敵味方の区別なく傷病者を救護するという 人道博愛の赤十字精神を日本におしひろめ初代社長に推され 日本赤十字社今日の隆盛をみちびいた

日赤岩手乳児院



日赤岩手乳児院
(岩手県盛岡市中央通1−4−7)





(平成21年11月6日)

【精錬方の活躍と蒸気船の建造】

佐賀藩では弘化元年(1844年)に「火術方かじゅつかた」、嘉永4年(1851年)に「蘭学寮らんがくりょう」が設けられ、鉄製大砲の鋳造や西洋科学の研究が進められる一方、嘉永5年(1852年)には「精錬方せいれんがた」が置かれて、西洋の科学・化学の研究や実験が行われていきました。
精錬方の中心となったのは佐野常民でしたが、大坂、京都、江戸に遊学して広く学んだ彼は、京都にいた4人の人物を佐賀に招きました。
すぐれた器械工作によって「からくり儀右衛門」と呼ばれ、のちには「日本のエジソン」ともいわれた久留米出身の田中久重父子、そして語学に詳しい蘭学者の石黒寛次いしぐろかんじと、理化学者の中村奇輔なかむらきすけです。
儀右衛門たちは、火薬、金属、ガラス、陶磁器、製薬、製紙、写真、電信など、あらゆる西洋の新技術を研究しました。
特に注目されるのは蒸気機関の研究です。
安政2年(1855年)、佐賀の精錬方は日本で初めて、極めて精巧な蒸気機関車と蒸気船の模型を完成させました。

【海軍創設と軍備強化】

ペリーの来航によって、改めて西洋諸国に対する海防・国防の重要性に気付いた幕府は、安政2年(1855年)に長崎に「海軍伝習所」を作り、洋式船の造船の技術や、航海、砲術、測量、天文、地理などの研究や訓練を始めました。
伝習生は計130人、このうち幕府からは勝海舟榎本武揚など、計40人が参加しました。
しかし、佐賀藩からは、本島藤太夫もとじまとうだゆう、佐野常民、中牟田倉之助なかむたくらのすけ、小出千之助こいでせんのすけ、石丸安世いしまるやすよ、石黒寛次など、幕府を凌ぐ48人の優秀な藩士が送られたのです。
伝習所は安政6年(1859年)に閉鎖されましたが、佐賀藩士はそのまま残って訓練を続けました。
また伝習所の閉鎖にあたって、幕府はオランダ国王から寄贈された帆船「観光丸(スンビン号)」を3年間、佐賀藩に預けることにしました。
安政5年(1858年)、佐野常民は鍋島直正に、佐賀藩に海軍をつくるべきであることを進言しました。
これによって、同年、三重津みえつ(現在の川副町、佐野常民記念館の付近)に「船手稽古所ふなてけいこしょ」が設けられ、長崎の海軍伝習所え学んでいた藩士を呼び戻し、海軍の訓練と研究が続けられました。
佐賀藩はオランダから買い入れた蒸気船の「飛雲丸ひうんまる」「電流丸でんりゅうまる」と、自ら建造した帆船の「晨風丸しんぷうまる」を持っており、更にイギリスから元治元年(1864年)に「甲子丸かっしまる」、慶応2年(1866年)に「皐月丸さつきまる」を買い入れましたが、これらの陣容は幕府に匹敵する海軍力でした。

(参考:福岡博著 『佐賀の幕末維新 八賢伝』 出門堂 2005年発行)

(平成23年6月30日追記)




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