2.バコロドの戦跡巡り

(「ロザリオ・ハイツ」・「双葉台」(推定)・ギンバラオン・~セブ島)


平成26年(2014年)1月25日(第2日目)

朝食をとるためホテル内のレストランへ・・・
昨晩のガイドさんの話では朝食はバイキングとのことだったのだが、どうも様子がおかしい・・・
と・・・先にテーブルについていた“コウノさん”が「ああ!来た!重兵衛さんは英語が出来るから重兵衛さんにお願いしよう」と言う。
「はぁ?なんですか?私は英語は苦手なんですけど・・・」(苦笑)
“コウノさん”とは以前、台湾の澎湖島のツアーでご一緒だったことがある。
で・・・私のこのホームページをご覧になっているので、私のことを本名ではなく「重兵衛さん」といつも呼ぶのである。(笑)

話によるとメニューの中から選ぶのだそうで・・・
同じテーブルの“ヨシダ夫妻”が英語が出来ないというので、ウェイターと“得意の英語”(?)で会話をしながら注文をする。
サラダ、スープ、スパゲッティ、クラブサンドイッチ・・・???
何のことやらわからぬまま、適当にメニューを指さして注文したら・・・
ゲゲゲッ!
とんでもないことになってしまった!(大笑)

朝食

後からやって来たツアー仲間に「いやぁ~豪華な朝食ですねぇ~」とからかわれた・・・
「だから、私は英語が苦手なんですって言ったでしょ!」(涙)
なんでこんなことになっちゃったんだろ?(大汗)

メニューの裏を見たら・・・「コンチネンタル・ブレックファースト」などのセットメニューが書かれていた・・・(唖然)
あれれ・・・メニューをよく見ていなかった・・・
これを頼めば良かったんだよなぁ~・・・(涙)
ありゃ・・・「アラカルト」を頼んじゃったらしい・・・

私が宿泊したルクソールプレイス・ホテル

出発まで時間があったので、ホテルのすぐ脇にある「セブンイレブン」へミネラルウォーターを買いに行く。
ツアーの場合は飲み物1本を常にカバンに入れて移動すべきである。
なにせ、のどが渇いても自由に買いに行くというわけにはいかないからねぇ~
出発前には必ず準備しておくべし・・・である。

ホテルの脇のセブンイレブン

最初に向かったのは「ロザリオ・ハイツ」と呼ばれる場所・・・住宅街である。
ここにバコロド地区全体の戦没者の慰霊碑が建立されているので、ここをお参りする。

慰霊碑のある場所の前の道
バコロドの慰霊碑

(碑文)
第二次世界大戦中、
このネグロス島に於て
戦歿された日本軍人軍
属、在留邦人並に戦争
の犠牲となられたフィ
リピン人等の霊を祀り
世界永遠の平和と繁栄
を記念して茲に慰霊塔
を建立する

昭和55年10月
ネグロス島 陸海軍戦友会
        遺族会
        在留邦人会

ネグロス島慰霊碑建設委員
委員名 部隊名 氏名
総務委員 独立歩兵第354大隊 石塚一夫
独立歩兵第355大隊 間中義雄
第2航測聯隊 大谷 守
建設委員 挺身第3聯隊 加藤 亨
海軍第235設営隊 新谷重男
海軍第235設営隊 本多祐啓
海軍第235設営隊 三ッ林誠一
飛行第200戦隊 荒木重与
渉外委員 独立歩兵第172大隊 澁川栄一
会計委員 第102師団輜重隊 斎藤 忠
会計委員 第53飛行場中隊 加藤亨宥

(銘板より)


慰霊塔の向うに山が見える・・・
多分、米軍が来た時には、あの山に逃げ込んで戦ったのだろう。
サトウキビ畑

ここネグロス島の特産物はサトウキビである。
平地には延々とサトウキビ畑が広がる。
これでは米軍との戦闘は不利だよなぁ~・・・山に行くしかないよなぁと思う。

時刻は午前9時半。
本日の昼食を食べる予定のレストランでトイレ休憩・・・
このレストランの前にあるバス停らしき場所に、昔の写真のパネルが展示されていた。
おお!こりゃ、いい勉強になる!(喜)
皆さんがトイレに行っている間に道を渡り、古写真を鑑賞する。(笑)

バス停?

このバス停の柵には、米軍が滑走路を整備した時に使った丸い穴の開いた鉄板が、そのまま流用されていた。
日本軍は、ただ土を平らにならして土ぼこりを上げながら離着陸をしていたので雨が降れば滑走路はドロドロとなり、離着陸に支障をきたしていた。
しかし、米軍は鉄板を敷いていたんだから航空基地の運用は容易だっただろう。
鉄のある国と無い国との差は大きい・・・・

バス停の柵(米軍の滑走路用鉄板)

トイレ休憩後、日本軍が後退していった「マンダラガン山」に向う。
当時、日本軍が名付けた「山陽道」を走る。

と・・・ドライバーが「ジャパニーズ・ピルボックス!」と言い出した。
誰も意味がわからない・・・(汗)
ピルボックスとは、通常は「薬箱」を意味するが、軍事用語では「トーチカ」のことを指す。
私は英会話は全然ダメだが、軍事に関しては何とかわかる。
「日本軍のトーチカがあるそうですよ!」と私・・・
「ええ!トーチカ?日本軍の?・・・それ見ようよ!」と皆さん・・・
というわけで・・・日本軍の「トーチカ」に立ち寄ることとなる。

日本軍のトーチカ

このトーチカには説明板が建っているところを見ると、「史跡」として扱われているようである。

WWⅡ Japanese Pillbox

This dug-in guard
post known
as pillbox was constructed
by Japanese Imperial Army
during the Second World War.
It is a trench firing step
hardened to protect against
small-arms fire and grenades.
It is a sentry point serving
as entrance to Silay
from the Japanese airstrip at
Lanog-lanog
(the area where S-B airport is
located at the present).
Pillboxes are often camouflaged
in order to conceal their location
and to maximize the
element of surprise.

トーチカの銃眼は“山の方”を向いていて、出入口は“空港(日本軍の飛行場跡)”の方を向いていたので、「向いている方角がおかしいんじゃないか?」という声が参加者から上がったが・・・
これは日本軍が飛行場を造った時に、その防御のために造られたからであろう。
つまり、飛行場を中心に、周辺各所に、外に向ってトーチカが造られたと思うから、銃眼の方向はこれで間違いではない。
皆さんは、米軍が上陸して進攻してきた方角だけしか考えていなかったようである。(苦笑)

ここから約1時間ほど、途中、途中の集落の住民に道を尋ねながら、狭くて凸凹の山道を走り・・・
日本軍が抵抗線を敷いた日本軍名「西太郎山」がよく見える場所まで行く。
ここは丘の頂上・・・
この先を行くと、一気に下り坂となり、その先は急斜面を登って別の丘に向うことになる。
その丘には樹林が茂っているので、多分、山がよく見えないだろうということで、この場所を最終地点とする。
多分、ここは日本軍名「双葉台」と呼ばれた場所ではなかろうかとガイドの“スズキさん”が言う。

 西太郎山(推定)

正面手前の山が「西太郎山」らしい。
日本軍は、これらの山や丘に日本名を付けて呼んでいたが、部隊によっては同じ山でも呼び名が違っていたりするので、必ずしも正確ではなさそうである。
「太郎山」「西太郎山」「東太郎山」「孫太郎山」「笠置山」「筑波山」等々・・・

正面手前の山が「西太郎山」ならば、「東太郎山」「孫太郎山」はどれなのか?
となると・・・さっぱりわからない・・・
その後ろの山が「東太郎山」かなぁ~?・・・ということになる。
じゃぁ、「太郎山」はどれなのか?(笑)
もしかしたら、「西太郎山」と「東太郎山」を併せて「太郎山」と呼んでいたのだろうか?

この「太郎山」が第一線陣地となり、その後方に「マンダラガン山」があり、そこを主陣地としたようであるが・・・
事前に多少戦史を調べたが、その程度の知識では、現地に立ってみると・・・さっぱりわからん・・・(涙)

マンダラガン山(推定)

奥に見える、この山が標高1880mの「マンダラガン山」だろうか?
「太郎山」は1000mに満たない山である・・・
それと比較すると・・・2倍近い高さがあるようには見えないのだが・・・
あ~!・・・わからん!(涙)

米軍がこの島に上陸したのは昭和20年3月29日である。
これに対して日本軍守備隊は反撃を試みるが、うまくいかない。(上手くいくわけがない)
独立歩兵第354大隊(堀大隊)が「西太郎山」の陣地に後退してきたのは4月8日だと言われている。
その後、「東太郎山」へ移動したが、その「東太郎山」が米軍に包囲されたのは5月23日だという。
かなり善戦したようであるが・・・
いずれにせよ、この山々に日本軍は立て籠もり陣地を構築、自活自戦・・・
その後、「マンダラガン山」麓周辺で自活生活をしているうちに終戦を迎えたそうである。

このネグロス島の日本軍の兵力は陸海軍合わせて約1万5千名ほどである。
で・・・終戦時に生き残ったのは6千名程度だったという。
約50%が戦病死したことになるが、資料によっては80%の戦死率と書かれているものもある。
そのあたりの真偽は、さっぱりわからない・・・

双葉台(推定)の谷

我々が立つ丘は「双葉台」と呼ばれる場所だろうとのことだが、これは地形から言って納得できる。
丘の中心を深い谷が食い込んでいるのである。
上空から見たら多分、丘が二つに割れていて「双葉」のように見えるのではなかろうか?

ここで写真を撮るのをうっかり忘れてしまい、大失敗したのだが・・・
道端や畑の縁に転がっている石!
この石が、ウソのように角が取れたツルツルの丸い石ばかりなのである!
どの石もツルツル・・・まん丸・・・
山から転がって角が取れるとしても、山からここまでの距離は短すぎないか?
川の中を転がって角が取れたのだろうと普通は考えるだろうが川は谷の底を流れているのである。
こんな丘の頂上に何でこれだけの無数の石があるのか・・・???
私には不思議で仕方がないのだが、他の人達は気にならないらしい。(大笑)
「こんなに丸くてツルツルの石ばかりしかないって、おかしいですよね?」
「え?そう?・・・あ~確かに丸いねぇ~」・・・なのである。

この丸い石・・・決して「小石」ではない・・・
小さいものでも私の拳大である。
大きいものは直径が20cmはあろうかというものがゴロゴロしているのである。
おかしい・・・
戦史にも興味があるが・・・こういうことにも、ついつい興味を持ってしまうのである。

4年前にミンダナオ島の北端の町、スリガオへ行ったときの事・・・
地元の観光局の女子職員に海岸を案内してもらったが・・・
そこには角が取れてツルツルになった石が長さ約1kmほど海岸を埋め尽くしていた。
その景色は圧巻である。
が・・・尋ねてみたら、この近くには川が無いという。
ということは・・・この石はどこから来たんだろう?
海から打ち上げられたのか?
彼女は「世界の七不思議です」などと言っていたが・・・
そのスリガオの海岸の石より更に球状の丸い石が山のふもとの丘に無数にあるんだから・・・
これを見て誰も驚かないというほうが不思議なんですけど・・・(大笑)

不思議だ・・・なんでこんなにツルツルとした球状の石ばかりなのか・・・

これ以上先に進むとどこまで行けるのかは、わからないが・・・
一応、ここで引き返すこととなる。
時刻は11時・・・

帰り道の途中・・・
景色のいいところで、もう一度車を止めて写真撮影・・・

遠くに見える「マンダラガン山」方面・・・
ここは陸軍の独立歩兵部隊が主として戦った場所・・・「左地区隊」と総称されていた。

目を転じて、道を挟んだ反対側・・・遠くに見える山は「シライ山」であろう。
こちらには、航空部隊、主として飛行場大隊などが戦った場所で「右地区隊」と総称されていた。

ここから更に丘を下って町のほうへ向っていくと、小さな集落に出会う。
ここが「ギンバラオン」という場所だという。

ギンバラオンの集落

ここがギンバラオン???
どうもおかしい・・・
ここネグロス島には陸軍の第102師団が駐屯していた。
第102師団の各部隊は、この「ギンバラオン」に集結し、集落には数十棟の兵舎が建ち並んだという。
この集落は物資集積所でもあり、前進陣地でもあったはず。
そのわりには、集落が小さい・・・
「このあたりに教会か小学校はありませんかね?」とガイドの“スズキさん”に尋ねてみた。
だいたい、こういう集落の場合、教会や小学校が集落の中心にある。
基本的には教会を中心に町が発展するはずである。
今までの経験から言うと・・・戦中戦後、その場所が移動するということは滅多にない・・・
だから、目標とするのは、教会か小学校がいいのである。
運転手に尋ねてもらったら、ここから少し離れたところに教会と小学校があると言うので、そこへ向かってもらうことにした。

ギンバラオンの集落の中心(推定)
第102師団集結地か?

教会は、ちょうど改築中のようだったが、ここが「ギンバラオン」の集落の中心だろう。
う~ん・・・ここにみんなが集結したのか・・・・
と感慨に浸るが、他の方々は、わからないらしい・・・(苦笑)
まぁ、無理もないか・・・

う~ん・・・この雰囲気・・・
ここにたくさんの兵舎が建ち並んだのだろうなぁ~

時刻は11時50分・・・・

 車窓から見たギンバラオン遠景

こういうツアーの不便なところは・・・
自分が右の席に座るか左の席に座るかで“運命”が決まってしまうところである!(大笑)
景色を見るにしても、どうしても制限されてしまう。
これが一人旅なら、車内の席を自由に移動して写真も撮れるが、ツアーバスやワゴン車では、そういうわけにはいかない。
写真が撮りたいから止めてくれ!・・・とも言えないし・・・
しかたがないから、ガタガタ揺れる車内から自分の座席の窓越しに写真を撮るしかない・・・(涙)

今回は新たにカメラを新調して参加した。(大笑)
今までのカメラでは、どうも起動時間が遅いためシャッターチャンスを逃すのと、手ブレ防止機能に少々問題があり、また、薄暗いところでの撮影が上手くいかず苦労してきたのである。
昨年の極東ロシアへの旅行では、散々苦労させられ、満足のいく写真が撮れなかったので、ついに新しいデジカメを購入して臨んだのだが・・・・
やっぱりガタゴト揺れる車内から、慌てて写真を撮るとピンボケしやすいなぁ~(涙)
それでも、以前のカメラよりは数段良い事は良いが・・・

「ギンバラオン」の集落・・・・
こんな平坦な場所では物資集積には適していたかもしれないが、前進陣地としては不適地だったろう。
当時もこんなに平坦だったかどうかは知らないが・・・
これでは、あっという間に米軍の戦車に蹂躙されそうな感じである。
米軍がここを攻撃し始めたのは、昭和20年4月1日ごろである。
日本軍は1週間ほど頑張ったようだが、後方の「マンダラガン山」方面に後退した。
当然だろうなぁ~・・・ここじゃねぇ~。
現地に来てみると、よくわかる。

「ギンバラオン」を出てから車で10分ほどで空港のある場所に到着。

 空港(旧日本軍シライ飛行場跡)

ここは戦時中、日本軍のシライ飛行場があった場所・・・・
ネグロス島には「ファブリカ」「マナプラ」「サラビア」「タンザ」「シライ」「タリサイ」「バコロド」「ラカルロタ」という日本軍の飛行場があったという。
“イケダさん”が「こんなに平坦ならいくらでも飛行場が造れたろうなぁ~」と、しきりに言う。
おっしゃる通りで・・・
ブルドーザーのような機械力の無い日本軍は人力で滑走路を整備しなくてはならない。
最初から平坦な土地ならば、それだけ楽に造る事ができるというものである。
日本軍のシライ飛行場は、現在も空港として利用されているが、その他の飛行場は、現在はサトウキビ畑となってしまい、その名残は残っていないという話である。
造り易いだけに壊すのも簡単だった・・・というわけだ

空港の入口

空港の入口の看板を見て驚いた・・・あれ?
「ニュー・バコロド・シライ・エアポート」と書かれている。
通常、我々はこの飛行場のことを「バコロド空港」と呼んでいるのだが、正確には「シライ・バコロド空港」だったはず・・・
あれれ?
それが「バコロド・シライ」になって、更に「ニュー」まで付いている!(汗)
う~ん・・・よくわからんが・・・
いずれにせよ、ここが旧日本軍のシライ飛行場であったことは間違いないだろう。
ここネグロス島には陸軍の第2飛行師団(通称:鷲兵団)がいて、特攻攻撃なども行なっていたという。
この飛行場からもブ~ン・・・と特攻機が飛び立って行ったんだろうなぁ~

昼食

午前中にトイレ休憩で立ち寄ったレストランに戻って昼食・・・
豪華な昼食をたっぷり頂いた。(喜)

食後、この後の予定は何も無いようで・・・(汗)
あとは空港へ行くだけのようである。
というわけで・・・食後はレストランで1時間ほどの休憩となり、ノンビリと皆さんとオシャベリすることとなる。

サトウキビを載せたトラック

レストランの前の道路をサトウキビを満載したトラックが走る・・・・
おお!上手に積んでるなぁ~・・・と感心・・・
それにしても、積載オーバーで警察に捕まらないのだろうか?(苦笑)

午後2時過ぎ・・・レストランを出発して空港へ向かう。

シライの市庁舎

ここシライには陸軍の第102師団司令部が置かれていた。

シライの町

午後2時20分、空港に到着。
これから国内線でセブ島に向う。

 旧日本軍シライ飛行場跡

セブ島行きの飛行機は午後4時50分発のフィリピン航空231便。
2時間ほど空港内で時間を潰さねばならない。
ということで・・・“イケダさん”と二人で「喫煙室」でタバコを吸いながら雑談をする。(笑)
「喫煙所」はコーヒーショップの奥にあり、何か買わないと入れないことになっている。
仕方がないので、コーヒーを買って、テーブルに陣取る。
本当なら一人静かに読書をしたかったのだが・・・(苦笑)
やたらと話しかけられては読書も出来ず・・・ついに断念する。(涙)
ツアー旅行のツライところである・・・・

NEW BACOLOD SILAY AIRPORT

空港ターミナル
フィリピン航空231便

セブ島に向う飛行機はプロペラ機だった。(笑)
皆さんは、少々ガッカリしていたようだが、セブ島は隣りの島である。
プロペラ機で十分でしょ?(笑)
それに、私はジェット機よりプロペラ機のほうが好きなのである。
あのエンジン音と揺れが好き・・・
戦時中の爆撃機か何かに乗っているような気分に浸れるから・・・(大笑)

ひときわ高い山が「マンダラガン山」だろうか?
ネグロス島よ・・・さらば!・・・・である。

バコロド・シライ空港からセブ空港まではプロペラ機で1時間もかからない。
40分程度でセブ島に到着である。

セブ上空

午後5時25分過ぎ、無事に着陸。
ここはセブ島の直ぐ隣りにある「マクタン島」である。

セブ空港(旧日本軍マクタン飛行場跡?)

このマクタン島は日本海軍の飛行場があった場所で、今は「セブ空港」として使われているようである。
ここには戦時中、海軍第201航空隊の零戦隊の一部が駐屯していたことがある。
すぐに戦力を消耗してセブ本島にある航空基地に戻ってしまったようだが・・・

ここは今ではリゾートアイランドのようである。
日本からの観光客は、ルソン島のマニラに行くより、こっちのセブに行く人のほうが多いのではあるまいか?
リゾートホテルはこの「マクタン島」に集中しているようである。

昔は本隊ではなく分遣隊程度が派遣されるという小島だったのにねぇ~
まさか、戦後、こんなに開発されるとは英霊達も驚いているだろうなぁ~(笑)

飛行機から構内バスに乗って空港ターミナルに移動する。
この「バス」・・・日本製のようである。
なぜか、「降車ボタン」が付いている・・・(笑)

降車ボタン・・・

『お降りの方はこのボタンを押してください』と日本語で書いてある。
ん?・・・ターミナルに行く途中に、このボタンを押せば滑走路の適当な場所で降ろしてくれるのか?(大笑)
滑走路を走るバスには「降車ボタン」は必要ないと思うんだけど・・・なんでこんなものが付いてるんだろ?

セブ空港
我々が宿泊するホテルは、セブ本島のほうにあるという。
この「マクタン島」から「セブ島」へは1本の橋が架かっていて、それを使って「セブ島」に渡る。

ホテルは丘の中腹あたりにあり、かなり辺鄙な場所・・・・
ホテルの周辺を散歩するというわけにはいかないような寂しい場所に建っていた。(汗)

ホテルのロビー 私の部屋

  


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