4.ミンダナオ島へ行く

(「ジャパニーズ・トンネル」・ミンタル・タモガン・カリナン)


平成26年(2014年)1月27日(第4日目)

今日はミンダナオ島へ移動する日である。
早朝、朝6時のチェックアウトなので、ホテルでは朝食をとる時間は無い。
朝食用のお弁当をホテルに用意してもらって空港へ向かう。
外は小雨・・・・
我々がフィリピンに来る直前、低気圧の影響か何かでかなり天候が悪かったようなので心配したが、ネグロス島、セブ島とも、我々の到着後は天候が崩れず助かった。
で・・・移動する今朝は雨!
ラッキーである。

空港の待合室で朝食の弁当を食べる。(写真を撮るのを忘れて食べちゃった!)

セブ空港
午前7時30分発、フィリピン航空363便に乗り込む・・・
今回はジェット機である。(笑)
この空港の正式名称は・・・
「マクタン・セブ・国際空港」ということを、ターミナルビルを見て初めて知った。(汗)
セブ空港上空

(セブ上空・・・手前がマクタン島、向こうがセブ島)

昨日行った、カルメン(カーメン)方面の上空ではないかと思う
機内食はビスケット

セブ島上空から約40分後にミンダナオ島上空に到達する。

向うに見えるのは、フィリピンの最高峰の「アポ山」だろうか?

ダバオ上空

定刻通り、無事に到着!
この空港もまた、戦時中は日本軍の航空基地だった場所である。

この空港に降り立つのは4年ぶり2回目である。
あの時は、我が戦友会の“フジイさん”と二人で訪れた・・・
“フジイさん”は当時、航空基地の設営を担当した海軍の少年兵だった。
復員してから一度もここに来たことがない。
死ぬ前にもう一度訪れたいというので、4年前にお連れしたのである。
この空港に到着した時の“フジイさん”の緊張した顔が思い出される。(笑)

この空港の駐車場でツアー参加者の“ヨシダさん”の親戚の方と待ち合わせのようである。
が・・・お互いに会ったことがないようで・・・(汗)
ランデブーに手間取り、かなり時間がかかったが、ようやく合流できた。
“ヨシダさん”のおじいさんが、どうやら日本から移民としてこの地に移り住んだようなのだが・・・
その家系が複雑で、話を聞いてもさっぱりわからない。(苦笑)
とにかく親戚だという流暢な日本語を話す青年が、現地のガイドを務めてくれるそうである。

午前中にホテルにチェックイン出来るというので、まずはホテルへ向かいチェックインする。
時刻は9時半を過ぎたところである。

私の部屋

チェックインを終え、荷物を置いて・・・最初に向かったのは『ジャパニーズ・トンネル』といわれる場所。
看板には「ファミリーリゾート・アンド・レストラン」と書いてある。
ここには4年前に“フジイさん”と立ち寄ったことがあるが、「興味は無い」と言うので見学しなかった。

「ジャパニーズ・トンネル」の入口

日本語で「日本のトンネルにようこそ」と書いてある。(笑)

さて・・・どんなところなのだろうと、ちょっと楽しみである。

内部に入ってみると、かなり大きな洞窟陣地である。
ここのガイドは、流暢な日本語を話すフィリピン女性。
話によると日本軍の司令部だったという。
が・・・部隊名までは知らないとのこと。
私も予備知識がないので、全く知らない。(汗)

かなり長いトンネルなのだそうだが、その一部を観光用に整備したそうである。

ここには日本兵の人形などを置いて、「当時はこんな感じでした」というジオラマにしている。
特に「説明板」のようなものは見当たらない。

で・・・ここに捕虜を閉じ込めていたという小部屋があった。(写真は撮らなかったが・・・)
奥行きの浅い“窪み”で、メインのトンネルに接している。
で・・・戦後になって取り付けたのだろう、鉄格子が嵌められている。
「ここにフィリピン人の捕虜が入れられていました」とガイドが言う。
「トイレはどうしてたの?」と参加者・・・
「そのまま垂れ流しで、通路の側溝に流れていました」とガイド・・・

あのね・・・そんなはずはなかろう?(大汗)
私は反論したが、他の参加者は疑問に思わないらしい。
「へぇ~そうだったのか」と感心しているんだから呆れる。
糞尿を垂れ流しにされたら、洞窟陣地の中はどうなるのか想像できないだろうか?
フィリピン人の大便と小便の臭いが充満する中で日本兵が作戦会議を開くのか?そこで飯を食うのか?
ちょっと考えれば、おかしいと思うだろうに・・・(怒)

奥行きが浅くて狭い横穴だから・・・
入口から爆風が入って来た時に一時的に身を隠すためのものか、武器や食糧、資材等の仮置き場か・・・
いずれにせよ、フィリピン人の捕虜を“閉じ込める”ことを目的としたものではないと思う。
似たような形の退避壕をニューギニアで見たことがあるので、そういう気がする。

ここの女性ガイド・・・
実は千葉のフィリピンパブで働いていたことがあるという。
どおりで日本語が上手なわけだ。
これに喜んだのが千葉から参加した“イケダさん”と、なぜか初対面の“イケダさん”を「先輩!先輩!」と持ち上げている“タカサカさん”。
この二人・・・何が楽しいのか、一生懸命、彼女を“ナンパ”している。(大笑)
ツーショット写真を撮ったり、住所を教えてもらったりと・・・まぁ、お忙しいご様子・・・(唖然)
79歳と63歳・・・何をやっているんだか・・・(大笑)

昼食は、ここのレストランでとることになる。

昼食後、向かったのは「ミンタル」という町。
戦前、ここには多くの日本人移民が住んでいた。
ここにある「日本人墓地」に向う。
ここは4年前に“フジイさん”と一緒に来た場所・・・私にとっては、久しぶりの再訪問である。

途中、「カタルナングランデ」という場所を通過する。
以前訪れた時に、ここの民家の庭先に大きな日本の慰霊碑があった。
4年前に訪問した時に、ここの爺さんが「日本人が誰も来ない」と愚痴っていた。
道路に看板でも出しておかないと誰も気が付かないからということで、看板を立てるように言っておカネを渡したのだが・・・その後、どうなったかが楽しみ・・・
看板には日本の国旗を必ず描くように言っておいた。
そうすれば、日本人観光客も、すぐに気が付き、何があるのかと覗きに来るだろうから・・・(大笑)

ところが、ツアーガイドの“スズキさん”の話では、その慰霊碑は無くなってしまっているという。
そんな馬鹿な・・・(唖然)

その民家のあった場所の前を通過!
私の座っていた反対側だったので写真が撮れなかったが・・・
なんと!民家自体が消滅!
こんもりとした樹木は切り倒され、平坦に整地され区割りされた広い分譲住宅地になっていた!(驚!)
うそぉ~!!(唖然)
あの爺さんの家も無ければ、当然、慰霊碑も無い!!
あ~あ~・・・あの爺さん・・・土地を売っちゃったのか~(唖然)

自分の土地を提供して慰霊碑を建立させるということは、必ずしも善意で、というだけではなかろう。
参拝に来る戦友会、遺族会の巡拝慰霊団が、供物の“おすそわけ”と、いくばくかの金銭を置いていく。
土地の持ち主からすれば、いい現金収入である。
しかし・・・その戦友会も遺族会も巡拝慰霊団も何も来なくなったら?
自分の家の庭にド~ンと置かれている「日本の慰霊碑」は、ただの邪魔物・・・いい迷惑である。
ここには個人が建てた慰霊碑も建立されていたが・・・
結局、その後は誰もお参りには来ていなかったのだろうか?
建てるだけ建てておいて、あとは知らん顔だったのだろうか?
そうだとすると、この土地の持ち主を責める事は出来まい・・・
悪いのは、無責任な日本人たちということになる。

午後1時過ぎ、『日本人墓地』に到着する。

慰霊碑に「日の丸」を飾り、みんなで「君が代」を歌う。
以前にはなかった新しい碑が建っていた。

『人類は皆家族 ロドリゴ R ドゥテルテ』
『フィリピンを愛し ダバオを愛した あなたが今ここに』
(銘板より)
憂い無しの碑 
 20世紀、麻づくりで賑わう日本人街、 
戦争による悲劇、故郷ダバオを訪れる方達。 
  21世紀、新しい日比関係を築く日系人会と 
日本フィリピンボランティア協会(JPVA) 
 そして22世紀はー
 フィリピンを愛し、ダバオを愛した、あなたは 
「いつの時代の人」なのでしょうか。 
ミンタルの縦のいのちに触れ、先人たちに学び、
我が人生の「憂い無し」を見つめる。さらに日比友好の絆と
相互補完事業への思いを深め、日比の明日を開く
聖地ミンタル。
 2013年、ダバオと日本の友好の歴史を刻む碑として、
ドゥテルテダバオ市長とダバオ市民の皆さんが、
この碑を建立しました。
 「憂い無しの碑」が日比の市民の皆さまにとって
「人生の輝きと友好の絆を深める碑」であることを祈念します。

 我らが永遠の地 フィリピンダバオに 
私たちの人生をささげる

2013年10月4日 

フィリピン日系人会
会長 アントニーナ B エスコビリア

日本フィリピンボランティア協会
会長 網代正孝

う~ん・・・憂い無し・・・ねぇ~
碑文・・・何が言いたいのか、よくわからないけど・・・(汗)
とにかく「友好の碑」ということなのでしょうね。

『■■先亡者慰霊碑』
『紀元二千六百年記念』

この墓地では、「紀元二千六百年記念」と刻まれているこの碑が一番古いのではないかという気がしますが・・・
碑文の「上二文字」は削られたまま・・・
碑の根元は荒れ放題・・・ゴミ置き場?(唖然)

『在留先亡同胞霊場』碑

4年前に来た時に、この墓地にある日本人のお墓にお線香をあげたんだけど・・・
さて・・・そのお墓はどこにあったのか・・・場所がわからない。(涙)
ツアーの皆さんから離れて、一人で墓地内を探し回る。
近くで掃除していた人に尋ねたら、ここだという。
はぁ?・・・ここだっけ?
「日本人の医者のお墓ですけど・・・」と確認したら、これがそうだと指さされた。
それが・・・これ・・・

日本人医師の墓(推定)

雑草とゴミの中に埋もれてる・・・(涙)
たしか、移民の一世の方だったと思うが・・・
多くの人に尽した「いいお医者さん」だったという話を聞いた記憶がある。
あれ?・・・これがそうだっけ?
「草を刈ってやろうか?」と現地の掃除夫が言ってきたが・・・
雑草を取り去っても、その下はゴミの山じゃないか?
そのうち、この墓の上に現地人(中国系)の墓が造られてしまうのだろう。
もともと「日本人墓地」だったここは、今では現地人(中国系)の墓に“侵食”されて、日本人の個人の墓が消えていってしまっている。
日本人の墓があった上にコンクリートで中国人の墓が建てられているんだから・・・
「憂い無し」ねぇ~・・・・私は大いに「憂い有り」ですけど・・・(大汗)

とりあえず、「ここを綺麗に掃除しておいてくれ」と言って、掃除夫におカネを渡したが・・・
ここを綺麗に元に戻すのは、ちょっと大変だろう・・・たぶん、やらねぇだろうなぁ~(苦笑)
次の場所への移動時間が迫ってきたので急いで車に戻る。

次に向かったのは、ここからすぐのところにある「ミンタル日本人小学校跡」・・・・
前回訪問した時は門が閉まっていて中には入れなかったが、今回は中には入れるようである。
ここに、「ダバオ開拓の父」と言われる実業家・太田恭三郎の記念碑が建っている。
ここには戦前は日本人学校の「ミンタル小学校」があったが、今も「ミンタル小学校」がある。
もちろん、日本人学校ではなく、地元フィリピン人の小学校である。

学校の校庭にある太田恭三郎の記念碑

門を開けてもらい、車のまま中に乗り込む・・・
「おい、おい、ちょっと止まったら?マズイでしょ?そのまま走ったら・・・」と私・・・
子供達が遊んでいる広場を車で突っ切ろうというんだから驚いた。
「いや、記念碑のところまで、このまま行きましょう」とガイドさん・・・
「いいから止まれって!車で横付けなんてとんでもねぇ!横柄だろ!それは・・・ダメ、ダメ、止まれって!」と思わず声を荒げてしまった。(苦笑)
興奮すると、ついつい、私は怒鳴っちゃうんだよねぇ~(苦笑)
子供達を蹴散らして記念碑の横に車を横付けするなんて、とんでもねぇ話である。
第三者が見たら、なんと日本人は横柄なのかとヒンシュクを買うに違いない。
「俺たちは日本人なんですよ!中国人や朝鮮人とは違うんだ!横柄な行動はやめたほうがいい!」(怒)
他のツアー仲間からも「確かにその通りだ!ここから歩いたほうがいい!」の声が上がったおかげで、車を止めることが出来た。
ドライバーもガイドも親切心で記念碑のところまで連れて行こうとしたのだろうが・・・
どうみても、それは横柄な態度、ひんしゅくもの・・・になりかねまい。

太田恭三郎の記念碑

記念碑の脇には、史跡としての説明碑が建っているが、読んでみたらタガログ語で書かれていた。(汗)
太田恭三郎を称える内容だと思うが・・・残念・・・
記念碑には、これといった碑文は刻まれていない。
建立した日付を刻んだと思われる石版が嵌めこまれていたが、『大正十・・・』『日米・・・』以下の文字は、破壊されていて読めない。(涙)

ちょうど授業が終ったところなのか、休み時間なのか・・・子供達が集まってきた。
小学生というのは、どこの国の子供でも可愛いものである。(笑)
私の周囲を付かず離れず・・・なんとか、ちょっかいを出したいようで・・・(笑)
「君は何年生だ?5年生か?11歳?」と声をかけたら、驚いたような顔をしている。(笑)
なんでわかったんだろうという顔をして「5年生!」と答えてきた。
だいたい、過去の経験からすると・・・
ちょっかいを出してくるのは、最上級生である。
ちょっと小柄だったから5年生かなと思ったら当ったようである。(笑)
下級生たちは、ぜったい、上級生を押しのけてしゃしゃり出てくるということはしない。
上級生の後ろに隠れて、興味津々の顔で目を輝かせている。
「コンニチワ!」と日本語で挨拶してくる子がいた。
多分、日本で働いている家族の誰かから日本語を教わったのだろう。(笑)
「おお!コンニチワ!・・・日本語上手だねぇ~」と言ったら大喜び!(大笑)
周囲もヤンヤヤンヤの大騒ぎ。(大笑)
本人も「日本語が通じたぞ!」と言わんばかりに大はしゃぎ・・・(笑)
最終的に、私の周りだけワーワー、キャーキャーの大騒ぎとなる。(大笑)

多分、小学1年生か2年生ぐらいの子だろう。
私の手をいきなり掴んで、自分の“おでこ”に当てた。
これは子供達が目上の人に対して行なう丁寧な挨拶の仕方なのだと、以前、教えてもらったことがある。
すると、さらに多数の子供達がドドッと私の周りに集まり、次々と私の手を取って自分の“おでこ”に押し当てペコリとお辞儀をし出した・・・(大汗)
その度に、一人一人に「ハロー!」と声をかけてあげるが・・・
ゲゲッ・・・こりゃ、キリが無い・・・(大汗)
う~ん・・・心なしか“聖職者”にでもなったような気分で、ちょっと気恥ずかしい・・・
「モテますねぇ~」とツアー参加者からからかわれる。(苦笑)

ミンタル小学校

MINTAL ELEMENTARY SCHOOL
Mintal,Tugbok District,Davao City

この“挨拶”・・・いつまで経ってもキリが無い・・・(涙)
子供達には申し訳ないが、もう車に戻って次の場所に行く時間である。
「バイバ~イ!!」
子供達に別れを告げて、次の場所に移動する。

さて、これからどこへ行くのか・・・(汗)

移動中、ガイドさんから現地のことについてのお話があった。
その中に、「フィリピン・ワシ」の話が・・・
「猿食い鷲」の別名もある鷲だそうで、フィリピン固有種の鷲だそうである。
「そのフィリピン・ワシ・・・是非、見たいですねぇ~!」と“ヨシダさん”ご夫妻・・・
「じゃぁ、皆さん、見たいそうですから、そちらに向かいましょうか!」とガイドさん・・・
ウソ・・・(汗)
皆さん・・・って、“ヨシダさん”ご夫妻以外は、誰も見たいなんて言ってないんですけど・・・(大汗)

ここミンダナオ島でのメインのテーマは、ここに移住した日本人移民に関しての“お勉強”とのこと。
そこで、移民に詳しい作家先生が同行して解説してくれることになっていたのだが、急病のため不参加となったという。
“ヨシダさん”ご夫妻は、その移民の子孫ということで今回参加されたようで・・・
フィリピンには初めて来たという。
そうなると、基本的には“ヨシダさん”が中心となるようで・・・
それぞれの参加者の“立場”がよくわからないのだが、ここでは、どうも“ヨシダさん”のおじいさんの足跡を辿る旅・・・みたいな感じのようである。

が・・・私の方から添乗員さんにタモガン方面には行かないのかと質問させていただいた。
そこには日本の慰霊碑があるし、近くに日系人の家があり、そこの庭にも慰霊碑があるのである。
そこをお参りしてはどうだろうかと提案させていただく。
「いやぁ~そこにも是非行きたいですねぇ~」と他の参加者からも声が上がったので、移動しながら車中でコースの再検討を行なってもらう。

そして、最初に向かったのは、タモガンにある「慰霊碑」・・・「納骨堂」である。
「ミンタル小学校」から30分ぐらいで到着。
ここは私が4年前に訪問したことがある場所である。

慰霊碑 慰霊碑裏の納骨部分

PEACE & FRIENDSHIP

2003

CENTENNAL MEMORIAL
OF JAPANESE MIGRATION

邦人ダバオ移民 100周年記念

2005
60 YEARS ANNIVERSARY
OF REPATRIATION FROM DAVAO

終戦ダバオ引揚60周年記念

平和友好

納骨堂

この地ダバオ市マランバ マリログ地区サムブノタンを中心としたタモガン山中にはまだ多くのお遺骨が集骨されず放置のままとなっています。
附近住民の温かい友情とご協力により記念碑と納骨堂をこのゆかりの地に建立することができました。
地元住民の更なるご協力により収骨が続けられますことに衷心より感謝申し上げます。
この有難いご行為が今後末永い友好の絆となりますことを祈念いたすと共にみ霊の安らかなご冥福をお祈りいたします。

OKINAWA/DAVAO FRIENDSHIP SOCIETY
沖縄県ダバオ会

(DAVAO) PHILIPPINE NIKKEI-JIN KAI, INC
在(ダバオ)フィリピン日系人会

2005年5月15日 竣工
ダバオ慰霊の日
DAVAO MEMORIAL DAY

ダバオには沖縄から多くの移民が来ていたようで、その交流は深いものがあるようである。

 タモガン

「納骨堂」の後ろに見える山々がタモガンの山々・・・
ここに日本軍や在留日本人たちが逃げ込み、病死や餓死された。
このあたりで拾われた遺骨が、この「納骨堂」に納められている。
碑の裏がガラス張りになっていて、内部に納められているご遺骨を見ることができる。

隣りに民家がある。
その家の前に子どもをあやしている女の子が・・・
あれ?・・・彼女には4年前に会った事があるぞ。
“フジイさん”が子供達に飴玉を渡したりしている時、私が記念写真を撮ってあげた。
あ~あ~!・・・あのときの写真を持ってくるのを忘れた!
彼女は私の顔を忘れているようだが・・・(苦笑)
4年前の記念写真を持ってきてプレゼントしてあげればよかったと大いに後悔する。

時刻は間もなく2時・・・
ここから10分程度で“サカエさん”(現地名:アモイさん)のご自宅に到着する。
4年前に訪問した時は、近所の人から話を聞いて、尋ね尋ねながら訪問したので・・・場所を良く覚えていない。
幸いにも、“ヨシダさん”の「遠い親戚」にあたる現地の青年が、場所を知っていたので助かった。
突然の訪問で恐縮だが・・・(大汗)
“サカエさん”は御存命だった!(大喜)
昼寝中を起こしてしまったようで、“サカエさん”がやってくる間に、「勝手知ったる他人の庭」・・・
先に慰霊碑の場所に私が皆さんを案内する。(大笑)

激戦地追悼碑
激戦地追悼碑
山田部隊(353大隊)生存者一同 1974起
我等今 この碑前に立ちて語るべき言葉もない
限りなき春秋の身を 国難に殉じて流した君等将兵の鮮血は 今 ふるさとに輝かしきみどりとなりて燃えている
遠く彼岸に去りし戦友よ
父よ 夫よ 兄弟よ 吾子よ
大菩薩よ 冥されよ
とこしへに

我等幾再来諸霊菩提誓願
南無阿弥陀佛 合掌
元山田部隊ミンタル会
昭和53年8月

この碑を建立した「山田部隊」というのは、陸軍の独立歩兵第353大隊のことだと思う。

まもなく、“サカエさん”がおいでになったので、皆さんにご紹介する。
“サカエ”さんとは4年ぶりの再会であったが・・・先方は私のことを覚えていないようだった。(大笑)
まぁ、それでもいいのである。
私の自己満足・・・“サカエさん”のお元気なお姿が拝見できて大感激である。
“サカエさん”は日本人とフィリピン人との間に生まれたハーフである。
戦時中、日本軍の現地召集を受け、少年兵として工兵隊に配属となった。
4年前に初めてお会いした時は、こちらは海軍の少年兵だった“フジイさん”と一緒で、1歳違いの少年兵同士・・・
海軍と陸軍で所属は違うが、お互いに「元気で長生きしましょう!」と涙ぐみながら握手をされていた。
その“フジイさん”は大阪でお元気でおられる。
よかったぁ~・・・“サカエさん”もお元気で・・・
現在、87歳とのこと・・・
どうか長生きしていただきたい・・・
戦後、ここに留まっておられたのだから、かなりの苦労をされてきたことと思う。
苦労した分、お元気で長生きしていただきたい。

“サカエさん”からお話をしていただいたが、流暢で、綺麗な日本語を話されるのでツアーの皆さんが驚かれていた。
“サカエさん”の日本語は、本当に美しい綺麗な日本語なのである。
私の日本語など、恥かしくて“サカエさん”に話しかけるのに緊張してしまうほどである。(大汗)
まさしく日本人・・・戦前の日本人である。
これに対して、今の我々の話す日本語のお粗末なこと・・・
こりゃ、いったいどういうわけだろうか?
学校教育が悪いのか?親の言葉遣いが悪いのか?それともテレビの悪影響か?

前回お会いした時に、一緒に写真を撮っていなかったのがずっと心残りだったので、今回はお願いしてツーショットの写真を撮ってもらう!(大喜)
私は、ツーショットの写真とか、自分自身が写真に写るのは好きではないので、滅多に写真を撮ってもらうことはないのだが・・・(笑)
今回だけは話は別である!

ほんのわずかな時間ではあったが・・・・
本当にお会いできてよかった!!(大喜)

時刻は2時半・・・次に向う。

次に向かったのは「フィリピン・イーグル・センター」・・・・(笑)
“皆さん”が行きたがっていた場所である。(大笑)

当初は、カリナンにある「歴史資料館」を先に行こうかという話しだったが、雲行きが怪しい・・・
こりゃ、もしかしたら雨が降るかも・・・
というわけで、「フィリピン・イーグル・センターを先にしたほうがいいのでは?」と参加者最年少者の私が生意気にも意見を言わせていただいた。(笑)
屋外を歩くほうを先にしたほうが無難である。
資料館は雨が降っても見学できるんだし・・・・

ここは・・・フィリピン・ワシの保護や繁殖、飼育をしている施設のようである。
フィリピン・イーグルって絶滅危惧種?
日本の「トキ」みたいな立場なのか?(笑)

センターは、森林公園のようなジャングルの中にある。

小さな資料室をサラ~ッと見学・・・
ここにはフィリピン・イーグルの剥製や骨格標本なども展示されていた。

で・・・センターの敷地内を歩きながら見学。
どうもフィリピン・イーグルは、大きな檻の中で飼育されているらしい。
ん?それでいいのか?檻の中で飛べるのか?
飛べないと運動不足になるんじゃなかろうか?(笑)
余計なお世話でしょうが・・・(大笑)

「あそこにいる!あそこにいる!」と言われてもねぇ~(汗)
どこにいるのやら、さっぱりわからん!
ようやく見つけ、望遠で撮影!

鷲の檻・・・どこにいるのやら・・・ やっと見つけた!

はい、これがフィリピン・ワシ・・・フィリピン・イーグルです!
はぁ~・・・鷲・・・ねぇ・・・
申し訳ないが、私は全く興味がない・・・・(大笑)

それより気になるのが、次に向う「歴史資料館」である。
時刻は午後3時半を過ぎている。
大丈夫か?・・・見学する時間はあるか?
余計な寄り道をしたため、気が気ではない・・・(大汗)
まぁ、話の種として、フィリピン・イーグルを見るのもムダではなかろうが・・・
さぁ、皆さん、急いで!急いで!・・・とガイドでもないのに私が皆さんを引っ張る・・・(大笑)

PHILIPPINE-JAPAN MUSEUM
CALINAN,DAVAO CITY

フィリピン・日本 歴史資料館

約30分ほどで、カリナンにある「フィリピン・日本・歴史資料館」に到着!
ここには私は4年前にも訪問している。
日本語学校の敷地内に建つ小さな資料館だが、内容は豊富・・・
私の“お気に入り”の資料館・博物館の一つである。(笑)
再び訪問できるなんて、大感激である!

4年も経つと、展示資料も若干増えていた。
さらに、展示の仕方もスッキリしている。

ここの職員に尋ねてみたら、トキワ大学(常磐大学か?)の先生が展示の仕方等の指導をしてくれたという。
なるほどねぇ~・・・それでどこか展示の仕方がスッキリしているのか。
以前の展示の仕方も決して悪くはなかったが・・・一見して、すぐに“違い”がわかる。(笑)

「何か資料の販売はしていないのか?」と職員の女の子に尋ねたら「日本語で書かれた資料はない」と言う。
かろうじて1冊だけ・・・『DAVAO CITY Its History and Progress』という英語の本だけは販売していると言うので、英語の勉強にもなるだろうと(笑)、これを購入する。

日本語で書かれた資料館を紹介する小冊子とか、昔のカリナンの日本人町を紹介する歴史のガイド小冊子とか・・・
何か日本人向けの本を作ったほうがいいのではないかと提案したが・・・どうなるか・・・
日本人や現地の日本人会、日系人会などが結構協力しているようだが、そっちのほうには気が回らないらしい。
我が参加者の中にも是非、資料が欲しいという人がいたが、残念ながら、英語の本ならいらない・・・と言う。
日本語なら買ってくれる人はいるんだから、作ればいいのになぁ~・・・・と私は思うのである。

次々と「廃れていくもの」ばかり見ていたので、この資料館のように「良くなっていく」のを見るのは本当に嬉しい。
どんどん、良くなってもらいたいなぁ~・・・この資料館・・・

見学を終え、外に出たら・・・雨!・・・しかも、かなり土砂降りに近い雨である!
訪問する順番を逆にして正解だった。(喜)

今日の予定はこれで終了である。
真っ直ぐホテルに向かい、午後6時過ぎ到着する。

ホテルのロビー

夕食は、町に出て、ショッピングモールの中にあるレストランでとる。
この時には幸い雨が上がってくれたので移動に支障なし・・・
いやぁ~なんてツイているんだろう。(大喜)

夕食

  


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