6.マニラに行く

(カリラヤ・山下大将と本間中将処刑地・「サンタ・イサベル公園」・空軍博物館~成田)


平成26年(2014年)1月29日(第6日目)

今日は4時起床、4時半にホテルをチェックアウトとのこと。
だが、だいたい、のろまな私がベッドから起きて30分で身支度を整えられるわけがない。(大笑)
結局、午前3時に起床したので殆ど睡眠を取っていない。(涙)
にもかかわらず、なぜか元気!(大笑)
昨日、残り物の「ドリアン」を、皆さんから「あんたが全部食べろ」と言われて全部食べちゃったせいだろうか?(笑)
“精力”が付きすぎてしまったのか?(大笑)
全然疲れてねぇぞ・・・(汗)

集合時間前にロビーに行ったら、ロビーは朝早すぎて薄暗い。
すでに何人かが集まっていた。
で・・・恒例の喫煙!目覚めの一服・・・である!(大笑)
ソファーに座っていた“タカサカさん”が荷物を見ていてくれるというので、“イケダさん”と二人でタバコを吸いに外に出かける。
まもなく、添乗員さんが「出発しますよ!荷物はどうしたんですか!」と半分怒ったような感じで我々を呼びに来た。
ん?まだ出発時間には早いんだけど・・・
どうも時間前にみなさんが集合されたので、予定より早く出発することになったようである。
(出発時間を勝手に変えておいて、何やっているんだと怒ることはないと思うんですけど・・・)

ロビーに戻ったら・・・
ゲゲゲッ!
誰もいないロビーに我々の荷物だけがポツンと置き去りになっていた!
あ~あ~・・・・
“荷物を見ている”はずの“タカサカさん”は、ただ“見ていた”だけのようである。
我々の荷物を置き去りにしてサッサと車に乗っていた。(唖然)(怒!)
どうもこの方は「見ている」の意味がわかっていないようである。
こういう無責任な人の言葉を信じてはいけない・・・
ロビーには幸い誰もいなかったので盗まれることはなかったが・・・
いやぁ~あぶねぇ、あぶねぇ・・・
他人を頼ってはいけない・・・とくに調子のいい無責任な人を・・・
反省、反省・・・・
危機管理が出来ていなかった。(大汗)

 朝食のお弁当

ホテルで用意してくれたサンドイッチの弁当を空港の待合室で食べ・・・
ダバオ発、午前6時35分のフィリピン航空810便でマニラに向う。

DAVAO INTERNATIONAL AIRPORT (ダバオ国際空港)

午前8時半ごろマニラ空港に到着。

 マニラ空港

ここから車で真っ直ぐ「カリラヤ」にある「比島戦没者慰霊碑」に向う。
私は、正直言って、ここは好きではない。
「カリラヤ」という場所では大して大きな戦闘があったわけでもない。
戦後、岸信介元総理がこの慰霊碑の設置に関わっていたそうで、場所はフィリピンの電力会社所有の敷地である。
たぶん、政治がらみじゃなかったのかなぁ~と想像しちゃうんですけど・・・
こんな辺鄙な場所に、わざわざ造るとはねぇ~
もっと多くの日本人が亡くなった場所に造ればいいものを、なんで、こんな関係もない場所に造ったのだろうか?
日本の公式の慰霊祭や、遺族会などの慰霊団は必ずここに来て参拝するのだが・・・
わざわざ時間をかけてマニラから来るほどの場所じゃないと思うんですけど・・・
私は、毎回、ここに連れて来られるたびにムカつくのである。(怒)
こんな場所に、フィリピン全土で戦死した英霊が集まってくるとは思えないのである。

 カリラヤの慰霊碑

時刻は11時半・・・
簡単な慰霊祭を執り行い、ここで昼食をとることとする。

 昼食のお弁当

現地旅行社のほうで手配して車に乗せてきた弁当を頂く。
これがまた、メチャクチャ美味しい弁当なのである!
日本国内で食べる下手な弁当より、数段美味しいのである!
フィリピンで、こんなに美味しい弁当にありつけるとは・・・大感動だった!(大喜)

ここには、以前、戦友会やら遺族会などが建てた慰霊碑があった。
今回来てみたら全て撤去され、看板が建っていた。
以前から、土地の持ち主に無断で慰霊碑を建てていたことが問題となっていたが、ついに撤去されて敷地内に埋められてしまったようである。
まぁ、土地の所有者(フィリピンの電力公社)に無断で建てる事自体が非常識であるから仕方があるまい。
これら慰霊碑を勝手に建てた「団体」や「個人」の良識を疑わざるを得ない。

しかし、以前から、フィリピン各地にある建立者が解散してしまい管理する人がいなくなった慰霊碑が撤去されてきたが、そういうものを日本政府の手で、正式な形で、ここに移設することは出来なかったのだろうか・・・という気がする。
日本の戦没者の慰霊公苑ということであれば、日本政府の手でそのくらいのことをしても良さそうなものだが・・・
どうせ、形だけの「慰霊公苑」なのだろうから、そういうことは無理か・・・・(汗)

次に向かったのは、山下奉文大将処刑の地。

ここは、かなり以前に入口の場所が替わってしまい、狭い路地を入った突き当たりに入り口が出来た。
その路地を見つけるのに一苦労・・・
現地ガイドも久しぶりの訪問なので忘れているし、私も久しぶりなので案内する自信がない。(汗)
たしか、電柱があった、そのすぐ近くの路地を入って左に曲がって進むはずだが・・・
さて・・・この次の路地か・・・それとも、その先の路地か・・・(汗)
ガイドと私で、あ~でもねぇ、こ~でもねぇと言いながら、ようやく路地の入口を見つけて、無事に到着!

山下奉文大将処刑地の入口

久し振りに訪問したら、「処刑地跡」は随分、荒れているような感じである。
近所の“管理人”らしき現地人の話では、わざと草を刈らず、枯れてから刈ろうと思っているとか何とか言い訳していたが・・・(苦笑)

山下大将の処刑地跡

私が、ここに最初に訪れた時は、処刑地跡の慰霊碑には小屋がけはされていなかった。
その後、整備されて、小屋がけされたが、一度、この屋根瓦が割れてしまったことがあり、この瓦を提供した“カメイさん”と2人で修復後の様子を確認しに来たのが最後だったと思う。
あれから何年経っただろう・・・
周囲の木が大きく育ってしまって雰囲気が随分変ったような気がするが・・・屋根瓦は健在のようなので良かった。

“コウノさん”は事前に山下奉文の本を読んで感動し、この地を訪れるのが今回の旅のメインテーマなのだとおっしゃる。
で・・・ついでに、私のホームページの過去の訪問記事もプリントして持参しておられた。(汗)
いやぁ~何とも照れくさい・・・(大汗)

この場所のすぐ近くに本間雅晴中将が処刑された場所がある。
直ぐ隣りの土地だが、所有者が違うので、入れないのではないかと現地ガイドが言う。
以前は老夫妻が管理されていたようだが、今はどうされているのか・・・
確か、奥様がお亡くなりになった頃、訪問したので、おじいさんに弔意を伝えたが・・・
あのおじいさんはどうしたか・・・
地元の“管理人”らしき青年に案内するように言って、半ば強引に本間中将処刑地に皆さんを案内する。
こうなると、一体、誰がガイドなのかわからない・・・(大笑)
が・・・目と鼻の先まで来ていながら、お参りせずに帰ったのでは本間さんに申し訳ないと思うのである。

 本間雅晴中将処刑地跡

時刻は午後2時。
マニラ市内のホテルに向う。

午後3時半ごろホテルに到着。
この「トレーダース・ホテル」は、日本人がよく宿泊するホテルだが、私は初めて宿泊するホテルである。
私がいつも宿泊するホテルは、ここから少し離れている。
チェックインの手続きを終えて、皆さんは各自、部屋に入った。
私はコーヒーが飲みたいし、タバコも吸いたかったので、部屋に入る前に“イケダさん”とコーヒーラウンジへ・・・

と・・・店内で私のことをズ~ッと見ているフィリピン人女性が・・・
しばらくして・・・「あのぉ~私のことを覚えていますか?」と日本語で声をかけてきた。(驚)
さて・・・誰だろう????(大汗)
尋ねてみたら、どうも“飲み屋さん”のママさんらしい。
私は滅多に外に酒を飲みに行くということはない。
今までに行ったことがあるお店は2軒だけである。
話をしているうち、そのうちの1軒のお店のママさんだということがわかった。(唖然)
しかし、そのお店に行ったのは・・・もう6年ぐらい前のことなんですけど・・・(苦笑)
それにしても、よく私の顔を覚えていたものである。(唖然)
残念ながら私はママさんの事は全然覚えていない。
“イケダさん”からは「あんたは顔が広いねぇ~」と呆れられたが・・・
そんなわけはないんだけどなぁ~(大汗)

彼女は、このホテルで日本人のお客さんをお店に誘うため待機しているという。
いやぁ~御苦労様なことである。
最近は日本人ツアー客も少なくなり、また、誘っても話しに乗ってくれるお客が少ないので商売が大変だという。
ここで会ったのも何かの縁というものであろう。(大笑)
夕食後、彼女の店に行ってあげることにする。
“イケダさん”は行く気はないと言うので、私一人だけだが・・・まぁ、いいだろう・・・(笑)

私の部屋 部屋から見た景色

夕食の時間まで余裕があるので、ホテルの周囲を一人で散策する。
ホテルから少し離れたところにコンビニがあるのを発見!
収穫はそれだけである。(苦笑)
ホテルの裏のほうは、雑多な建物がゴチャゴチャと建ち並んでいるだけだった。
道路にテーブルとイスを出しているような“簡易食堂”のオバチャンから「食事をしていかないか?」と声をかけられたが、これから夕食に出かけるのである!
いくらなんでも、ここで飯を食うわけにはいかぬので断る。(大笑)

夕食はホテルの外のレストランで・・・・
“ヨシダさん”ご夫妻が、今回はみなさんに大変お世話になったからと、飲み物をご馳走してくださった。
感謝、感謝、である。(嬉)

食後、ホテルに戻り、待ち構えていたママさんに“拉致”されて、タクシーに乗り込みお店へ向う。
ツアー仲間から変な誤解を受けそうな行動だが・・・(大笑)
久し振りに飲んで歌って・・・ホテルまでママさんにタクシーで送ってもらい無事“ご帰還”となる。(大笑)

平成26年(2014年)1月30日(第7日目)

今日は帰国する日である。

午前8時、チェックアウトして、車で市内を「車窓見学」。

 マニラ大聖堂

「イントラムロス」という場所にある「マニラ大聖堂」の近くに「サンタ・イサベル(セント・イザベル?)」という小さな公園があった。
車から降りて、ここを見学することとなる。
ここには、モニュメントがある。

このモニュメントは、戦争で犠牲になったマニラ市民を追悼するものだそうだ。
英文の碑文によれば、1945年(昭和20年)1月3日から3月3日までの戦闘で、市民10万人以上が犠牲になったとある。

MEMORARE ‐ MANILA 1945

 THIS MEMORIAL IS DEDICATED TO ALL THOSE INNOCENT VICTIMS OF WAR.
MANY OF WHOM WENT NAMELESS AND UNKNOWN TO A COMMON GRAVE,OR NEVER EVEN
KNEW A GRAVE AT ALL,THEIR BODIES HAVING BEEN CONSUMED BY FIRE OR CRUSHED
TO DUST BENEATH THE RUBBLE OF RUINS.

 LET THIS MONUMENT BE THE GRAVESTONE FOR EACH AND EVERY ONE OF THE OVER
100,000 MEN ,WOMEN,CHILDREN AND INFANTS KILLED IN MANILA DURING ITS BATTLE OF
LIBERATION,FEBRUARY 3 - MARCH 3,1945.WE HAVE NOT FORGOTTEN THEM,NOR SHALL WE
EVER FORGET.

 MAY THEY REST IN PEACE AS PART NOW OF THE SACRED GROUND OF THIS CITY :
THE MANILA OF OUR AFFECTIONS.
FEBRUARY 18,1995

「マニラ市街戦」では多くのフィリピン市民が犠牲になっているが、その直接的原因は米軍による無差別砲爆撃である。
10万人以上の一般市民を日本兵が殺害したわけではない。
米軍はマニラ市内に立て籠もって頑強に抵抗する日本軍に手を焼いて無差別砲爆撃をしたと私は認識している。
陸軍の山下奉文司令官は、ここから日本軍を山岳地帯へ移動させ、マニラが戦火に巻き込まれないようにと考えたようだが、主として海軍側がこれに応じず、市内に立て籠もってしまった。
そのためにマニラ市内が戦場と化してしまったわけである。
そこに日本軍がいなければ、戦闘は起きなかったわけだから、日本軍側にも責任はあろうが・・・
直接手を下した責任は明らかに米軍側にあると私は認識している。
米軍による虐殺行為と言ってもいいはずだが・・・(汗)
そういうことは間違っても碑文には刻まれてはいない。
当然か・・・(笑)

公園には、この史跡を示す別の銘板があった。

 Plazuela de Sta.Isabel

NATIONAL HISTORICAL INSTITUTE 1995

MEMORARE - MANILA 1945
 THIS MONUMENT IS ERECTED IN
MEMORY OF THE MORE THAN 100,000
DEFENCELESS CIVILIANS WHO WERE
KILLED DURNNG THE BATTLE FOR
THE LIBERATION OF MANILABETWEEN
FEBRUARY 3 AND MARCH 3,1945.THEY
WERE MAINLY VICTIMS OF HEINOUS
ACTS PERPETRATED BY THE JAPA-
NESE IMPERIAL FORCES AND THE
CASUALTIES OF THE HEAVY ARTILLERY
BARRAGE BY THE AMREICAN FORCES.
 THE BATTLE FOR MANILA AT THE
END OF WORLD WAR ⅡWAS ONE OF
THE MOST BRUTAL EPISODE IN THE
HISTORY OF ASIA AND THE PACIFIC.
 THE NON-COMBATANT VICTIMS OF
THAT TRAGIC BATTLE WILL REMAIN
FOREVER IN THE HEARTS AND MINDS
OF THE FILIPINO PEOPLE.

ツアー参加者からお土産屋さんに立ち寄って欲しいとの要望があり、免税店のお土産屋さんに行くことになる。
私はべつに何も買う気がないので・・・店の外でタバコを吸って時間つぶし・・・(大笑)

次に向かったのは、「空軍博物館」!
昨日のうちに添乗員さんに、時間があるなら、ここへ行ってみたらどうかと話しておいたのである。
この「空軍博物館」には、ルバング島から生還した「小野田少尉」に関する展示品もある。
一般的な観光ツアーではまず訪問しない場所だろうから、こういうツアーでは是非・・・と進言しておいたのである。
添乗員さんもガイドさんも、ここに行った事はないとのことで、「あなたは、よく知ってますねぇ~」などと半分呆れられた。

YS-11

ここの屋外には、各種の航空機などが展示されている。
その中に日本のYS-11がある。
これはマルコス大統領の「大統領専用機」・・・・
フィリピン大統領の専用機が、日本のYS-11だったなんて知っている人は少ないのではなかろうか?
で・・・是非、見てもらいたかったのだが・・・
以前、私が訪問した時は機内に入って内部を自由に見学できたのに、今回来てみたら、ドアが完全に閉じられていて内部の見学が出来ないようになっていた!(大涙)
あ~ショックである!

しかし・・・ここで何だかんだと1時間近く見学していただき、案内した私としては満足・・・(嬉)

この後、空港へ向かい、午後3時発、フィリピン航空432便で成田に向う。
私はいつものように、今晩は成田のホテルに一泊となる。

~完~



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