佐世保東山海軍墓地

(長崎県佐世保市東山町180)


 (平成20年11月23日)

【佐世保海軍墓地の沿革

明治19年(1886年)5月4日、佐世保に第3海軍区の鎮守府が設置されることが決定。
その第一期工事が行われていた明治21年8月12日、折しも佐世保に入港していた軍艦葛城かつらぎ(三等海防艦)乗組の高見沢英之助二等主厨(一等主計兵曹)が作業中に誤って転落し、水死するという事故があった。
佐世保における最初の海軍殉職者であったが、鎮守府開庁前のことで、墓地も決まっていなかった。
そこで軍港建設副委員長の中溝海軍少佐は、故人が生前懇意にしていた森田福次郎なる人に相談したところ、森田氏は市内峯の坂に土地を借りて埋葬した。
鎮守府開庁とともに殉職者の数も増加してきたので、鎮守府は海軍墓地をつくることとし、現在地に目を付け、10名の地主から総額2147円12銭で買い上げた。
用地の買い上げが終わると山林を整地して墓地区画とし、明治25年10月2日から埋葬が始められ、「峯の坂」の31基をはじめとする海軍軍人の墓を逐次ここに移した。
碑は合葬碑と個人碑に分けられるが、合葬碑は戦前のものが15基、戦後のものが47基(平成20年3月現在)であり、個人碑は戦前のものだけでも437基にのぼる。
この中には3名の陸軍兵士およびドイツ水兵1名の墓も含まれる。
「佐世保海軍墓地」は大東亜戦争終戦までは海軍(佐世保鎮守府)管理の国有地であったが、終戦と共に荒廃。
この間、「海友会」が主体となってボランティア作業で環境整備等が維持されていたが、昭和34年5月15日、軍転法の施行にともない佐世保市の所管するところになり、名称も「東山公園」となった。
昭和60年4月6日、墓地周辺の環境整備を進めるため「佐世保東山海軍墓地保存協力会」が結成される。
更に、墓地周辺の整備など恒久的な慰霊碑の護持を図るため、平成6年2月9日に「社団法人佐世保東山海軍墓地保存会」が設立され、事業を継承し現在に至っている。
最近、大東亜戦争戦没者の合葬碑が艦船ごと、また部隊ごとに相次いで建立され、それらの慰霊祭が年々盛んに開催されている。
毎年8月14日には佐世保東山海軍墓地保存会主催による「お盆供養行事」が行われている。
また毎年秋には佐世保市主催の合同慰霊祭が全国各地から多くの方々が出席して盛大に行われている。

(参考:社団法人 佐世保東山海軍墓地保存会発行 『佐世保東山海軍墓地 墓碑誌』 平成20年第3刷)

海の防人の碑




海の防人之碑






(平成20年11月23日)

碑の由来

この碑は 明治22年日本海軍佐世保鎮守府開設以来崇高な使命に殉じられた 日本海軍将兵軍属の御霊を そして昭和28年海上警備隊佐世保地方隊発足以来 志半ばにして職に殉じられた海上自衛隊隊員の御霊を 共にお慰めしその功績を称えるため 佐世保市制百周年並びに 海上自衛隊創設50周年の 平成14年に発起 海軍の英霊が眠るこの地に建立するものであります

平成15年5月17日
海上防衛顕彰碑建立委員会 会長 辻 洋三
同 実行委員長 中村 克介

(碑文より)

護衛艦「ちくご」の主錨




護衛艦「ちくご」の主錨






(平成20年11月23日)

錨の由来

この錨は護衛艦「ちくご」の主錨です
護衛艦「ちくご」は ちくご型護衛艦として 三井玉野造船所で建造され 昭和45年7月就役 平成8年4月除籍されるまでの間 主として「みくま・いわせ」と共に佐世保を母港とした当時の第34護衛隊の一艦として活躍しました
なお 台座の赤レンガは海上自衛隊佐世保基地業務隊のL字型倉庫(明治41〜44年頃日本海軍が建築)に使われていた壁材の一部であります。

海上防衛顕彰碑建立委員会

(説明銘板より)


佐世保鎮守府潜水艦合同慰霊碑


慰霊平和祈念碑

慰霊平和祈念碑


「英霊の みたま 安らかに」
佐世保市傷痍軍人会 同妻の会

恒久平和を祈る
平成9年11月吉日建立


(平成20年11月23日)

趣意書

東公園(旧海軍墓地)には、顧みますと日清日露近くは満州事変更に太平洋戦争と、百年に及ぶ祖国存亡を賭して数々の国難に際して満蒙の荒野に中国大陸に、また、ビルマ・雲南に更には波濤万里・太平洋・印度洋に南冥の島々の密林に身を挺し、凄惨苛烈なる死斗を続けられ雄々しくも尊い生命を捧げて、祖国と国民の安泰を念じつつ悠久の大義に盡されたのであります。
されど今次太平洋戦において、異郷の地に散華された多くの戦友の諸霊は故郷の山河や、美しい祖国を見ることなく、大陸の荒野に南冥の孤島の密林に屍は草むし、千尋の海底に冷たく水漬く屍と眠り、雲流れる空の彼方に愛機とともに去って光陰は既に半世紀52年と遠く隔たり、今だに遺骨の還らざる諸霊に想いを致すとき断腸の抉るの思いであります。
されど祖国に平和が蘇って廃墟の中から立ち上がった祖国は、皆様が夢想だにしなかった様な素晴らしい文化と産業経済は、世界を驚愕させる程の復興と発展を遂げるに至り、更に又終戦以来52年間の長きに亘り戦争のない素晴らしい平和が続いております。
これはみな御英霊の崇高なる殉国の誠が天に通じたものと、国民等しく心より尊崇と感謝の念で一ぱいでございます。
私達傷痍軍人会員は、不具の身となっていますが、御英霊の皆様方とともに、戦塵にまみれて生死苦楽をともにしながらも、幸いにして命ながらえて祖国の土を踏むことができました。
今更ながら申し訳なく胸のいたむを禁じ得ません。
この平和が続きますよう努力致す所存であります。
恒久平和を念じつつ慰霊を申し上げる意味からも、東公園に(旧海軍墓地)慰霊平和祈念碑を建立し、後世に平和の尊さを伝承しようと発起いたしました。

慰霊平和祈念碑建立期成会 1997年
平成9年11月吉日

(碑文より)


航空母艦飛龍戦没者慰霊碑 (空母・飛龍)
航空母艦加賀戦没者慰霊碑 (空母・加賀)


忠魂碑



忠魂碑


陸軍中将高山公道謹書




(平成20年11月23日)
サイパン島戦没者慰霊碑



サイパン島戦没者慰霊碑 佐世保重砲兵部隊

亡き戦友よ この碑に安らかにお眠り下さい




(平成20年11月23日)

碑文

南太平洋の激戦地サイパン島に於て玉砕せし戦友を昭和62年2月12日カラベーラ地区その他に詣でてその英霊をここに祭る。

1987・4・10

佐世保旧陸軍墓碑誌




佐世保旧陸軍墓地墓碑誌






(平成20年11月23日)

佐世保旧陸軍墓地墓碑誌
佐世保重砲兵連隊は 九州本土西辺の守りのため 明治30年10月に創設され 昭和20年の終戦まで約半世紀にわたり 数万の将兵が同隊から動員征途に上り また復員した
戦時には北清事変 日露戦争 上海事変 支那事変 大東亜戦争等北支 満州 中支 香港 シンガポール 比島 サイパン島 硫黄島 沖縄等の激戦地に転戦し 1万有余柱の戦友が殉国の華と散ったことは 誠に痛恨の極みである
旧陸軍墓地は 当初佐世保市峰坂町につくられたが 終戦後児童公園となり 忠魂碑も公園の奥の方に移され 参拝者も殆んどなく
憂愁の有志相集い 佐世保市及び篤志の方々の ご協賛を得て 平成5年5月29日 この地に移設した

英霊の永遠なるご冥福を祈る

佐世保旧陸軍墓地
祖国のため尊い犠牲となられたご英霊の、ご遺徳を偲び峰坂町よりこの地に移す

追記
佐世保市白木町14番地の白木墓地にあった旧陸軍伍長(氏名不詳)外数名の墓碑は同町西原良雄氏の熱心な要望により、東公園内の陸軍墓地忠魂碑に合祀しました。

平成13年8月15日
佐世保市

(碑文より)


軍艦羽黒戦没者慰霊碑 (重巡・羽黒)
軍艦金剛戦没者慰霊碑 (戦艦・金剛)
軍艦矢矧戦没者慰霊碑 (軽巡・矢矧)
軍艦足柄戦没者鎮魂之碑 (重巡・足柄)


佐鎮五特慰霊之碑 (佐世保鎮守府第5特別陸戦隊)


慰霊碑群 (平成20年11月23日)

軍艦妙高戦没者慰霊碑 (重巡・妙高)
航空母艦瑞鳳之碑 (空母・瑞鳳)
軍艦那智戦没者慰霊碑 (重巡・那智)
航空母艦雲龍戦没者慰霊碑 (空母・雲龍)

慰霊碑群 (平成20年11月23日)

第24駆逐隊慰霊碑 (駆逐艦・涼風 山風 海風 江風)
第27駆逐隊慰霊碑 (駆逐艦・有明 夕暮 白露 時雨)
軍艦若鷹戦没者慰霊碑 (急速防潜網敷設艦・若鷹)


上海事変戦死者の碑






上海事変戦死者之碑








(平成20年11月23日)

碑文

昭和七年一月二十八日排日暴挙ニ端ヲ發シ十九路軍ノ挑戦ニ激成セラレタル上海事変ハ皇軍ノ勇武ニ依リ五月五日停戦協定ヲ以テ一時其ノ局ヲ結ヘリ
此ノ間我カ海軍将士ハ一死報國ノ至誠ヲ以テ勇戦力闘難ヲ冒シ危ヲ挫ヒ寡ヲ以テ衆ヲ制シ堅ヲ破リ鋭ヲ■キ海ニ陸ニ将タ空ニ敵軍ヲ■倒シテ威武ヲ宣揚セリ
而モ本事変ニ参加セシハ當佐世保鎮守府所管ノ者最モ多ク命ヲ殞シ職ニ殉シタルノ士亦矢部海軍少佐以下七十八名ノ多キニ連ス
仍テ茲ニ碑ヲ建テ戦歿勇士ノ忠魂ヲ弔ヒ其ノ遺烈ヲ永遠ニ記念ス

昭和七年十月二十三日
佐世保鎮守府司令長官中村■■

上海事変戦死者之碑
昭和6年9月18日に勃発した満州事変は上海に飛び火し波及。
当時、海軍は第一遣外艦隊の13隻の艦艇を揚子江に配備し、上海特別陸戦隊700名を上海に駐屯させていたが、上海における抗日・反日運動は日増しに激しくなり、上海を中心に各地で暴動や殺傷事件が頻発し、居留邦人の保護や権益の擁護は愁眉の急となる。
佐世保からは昭和7年1月5日に第27駆逐隊の3艦を皮切りに陸続と上海方面に派遣された。
1月26日には佐世保から第2特別陸戦隊1個大隊も艦艇に便乗して佐世保を出港。
上海到着後、直ちに上海特別陸戦隊に編入された。
1月28日夜更、上海北四川路西側地区において陸戦隊は支那軍の射撃を受け、第一次上海事変が勃発した。
我が陸戦隊は佐世保と呉から派出された兵力合わせて2700名。
この兵力をもって支那正規軍7万の兵力と戦うことになった。
我が陸戦隊は寡兵よく2週間、不眠不休で戦闘を続け、遂に敵を一歩も我が警備区域内に進入せしめず、居留民保護の重責を果たし、2月13日陸軍部隊に引き継いだ。
事変は第3艦隊や第4特別陸戦隊(佐世保)の派出、また陸軍部隊の大量派遣により、上海及び周辺地域は我が軍の占領することによって3月3日停戦となり終結した。
碑には第一次上海事変の戦死者矢部少佐以下78名を祀る。

(参考:社団法人 佐世保東山海軍墓地保存会発行 『佐世保東山海軍墓地 墓碑誌』 平成20年第3刷)


伊号第63潜水艦殉難者之碑


水雷艇友鶴殉難之碑




水雷艇友鶴殉難者之碑






(平成20年11月23日)

水雷艇友鶴殉難者之碑

昭和9年3月6日から佐世保警備戦隊の訓練が佐世保港外において実施され、新編の第21水雷隊(千鳥・友鶴・真鶴)もこれに参加した。(ただし真鶴は機関故障のため不参加)
訓練は6日間続き、最終日の12日午前1時15分に最後の訓練実施のため抜錨。
海上は時化ており、南東の風秒速18m、波高は3〜4m、視界は2^3kmで、時々雨が降っていた。
荒天の中、巡洋艦「龍田」に対する襲撃運動を2回実施。
時化はますますひどくなり、午前3時25分演習を中止し、「龍田」「千鳥」「友鶴」の単縦陣で佐世保に向かい北上を開始した。
しかし、艦の動揺が激しく、ついに列を解いて各艦適宜佐世保に向かう事となる。
午前4時12分、「千鳥」の見張員が「友鶴」の航海灯を見失う。
午前4時28分、隊司令は〈友鶴行方不明〉を報告し、「龍田」は直ちに反転して「友鶴」の捜索を開始。
日の出と共に在泊駆逐艦が出動して捜索に加わり、午後2時5分、「龍田」は御神島灯台の190度2.5カイリ付近で転覆漂流中の「友鶴」を発見した。
結局、漂流途中に脱出に成功した3名を合わせて生存者は13名、収容遺体は73体、岩瀬艇長以下28名は行方不明で、その遺体は1体も発見されなかった。
「友鶴」転覆の理由は、ロンドン軍縮条約の制限外艦艇とするため、排水量を600トン未満に抑えながら、兵装のみは二等駆逐艦なみの重武装を実施したことに起因する。
すなわち復原性能を犠牲にした超トップヘビー艦であった。
碑は岩瀬艇長以下100名の殉職者を祀っている。
「友鶴」はやがて佐世保工廠で修復され、大改造のうえ現役に復帰。
大東亜戦争においては主に船団護衛に任じていたが、昭和20年3月24日東支那海において米艦載機と交戦し、戦没した。

(参考:社団法人 佐世保東山海軍墓地保存会発行 『佐世保東山海軍墓地 墓碑誌』 平成20年第3刷)


鳥海・藤波慰霊碑 (重巡・鳥海 駆逐艦・藤波
軍艦榛名慰霊碑 (戦艦・榛名)
戦艦霧島慰霊碑 (戦艦・霧島)
駆逐艦若葉戦没者慰霊碑 (駆逐艦・若葉)
佐鎮第六特別陸戦隊慰霊碑 (佐世保鎮守府第6特別陸戦隊)


ビルマ方面海軍部隊戦没者慰霊之碑




ビルマ方面海軍部隊戦没者慰霊之塔






(平成20年11月23日)

建立の趣意

大東亜戦争中昭和18年より昭和20年の間 広大なるビルマ戦域或いはアンダマン海域において 祖国のために勇敢に戦いそして散って行った河野康深見盛雄両少将以下1200有余名の ビルマ方面海軍部隊戦没者の霊を慰めあわせて 其の後物故された戦友諸氏の御冥福を祈るとともに生死を共にした戦友諸兄の御多幸を信じ 日本国とビルマ国との親善のきずなたらんことを祈念してこの塔を建てる。

昭和58年4月10日
ビルマ方面海軍部隊戦没者慰霊塔建設世話人会

ビルマ方面海軍部隊の編成(昭和20年2月末)

第13根拠地隊司令部(ラングーン)
   司令官 海軍中将 田中頼三 以下 38名
第12警備隊(ラングーン)
   司令 海軍大佐 河野 康 以下 933名
第13警備隊(ミヤンミヤ)
   司令 海軍大佐 深見盛雄 以下 835名
第17警備隊(メルギー)
   司令 海軍大佐 常木千代治 以下 1082名
第12通信隊(ラングーン)
   司令 海軍大佐 重川俊明 以下 214名

尚第21魚雷艇隊(司令海軍少佐水谷秀澄)は昭和19年11月解隊となあり各部隊に配属となる
他に施設部、軍需部要員若干名あり

合計 約3,122名

(碑文より)

ビルマ方面海軍部隊戦没者慰霊之塔

ビルマ方面の海軍部隊は昭和18年10月1日に編成され、昭和19年1月1日第13特別根拠地隊となり、更に同年12月15日第13根拠地隊となった。
「13根」は第1南遣艦隊に属し、その編成は司令部(ラングーン)、第12(ラングーン)、第13(タンガップ)、第17(メルギー)の各警備隊及び第12通信隊から成り、沿岸の防備警戒、泊地警備、海上交通保護、掃海、機雷敷設などに当っていた。
水上兵力は中型砲艦、特設掃海艇及び「大発」を併せて十数隻。
ほかに第1南遣隊附属の第21魚雷艇隊の魚雷艇12隻があるのみ。
インパール作戦に敗れた陸軍第15軍は、昭和19年7月から後退を開始。
「12警」「13警」は陸行と水行とに分かれて転進することになったが、敵の追及が激しく部隊の損耗は甚大となる。
特に陸行部隊は英印軍及び反乱のビルマ軍と各所で交戦。
隊司令以下次々と戦死し、当初「12警」が200名余、「13警」が680名余を有した兵力も、そのうちシッタン河を渡って生還し得たのは、「12警」、「13警」ともそれぞれ4名に過ぎなかった。

(参考:社団法人 佐世保東山海軍墓地保存会発行 『佐世保東山海軍墓地 墓碑誌』 平成20年第3刷)


第61駆逐隊 駆逐艦秋月慰霊之碑 (駆逐艦・秋月)


長崎縣出身 海軍甲種飛行豫科練習生戦没者 鎮魂の櫻


軍艦常磐殉職者之碑・軍艦常磐戦没者慰霊之碑 (敷設艦・常磐)
軍艦松島殉難者之碑 (防護巡洋艦・松島)


軍艦初瀬戦死下士卒之碑




軍艦初瀬戦死下士卒之碑






(平成20年11月23日)

軍艦初瀬戦死下士卒之碑
戦艦
明治34年1月18日英国で竣工
「敷島」型2番艦

明治37年5月15日、日露戦争において旅順口封鎖作戦行動中、戦艦「八島」とともに老鉄山付近海面で機雷に触れて爆沈。
戦死下士官兵458名を祀る。

(参考:社団法人 佐世保東山海軍墓地保存会発行 『佐世保東山海軍墓地 墓碑誌』 平成20年第3刷)

第二特務艦隊陣没者の碑




第二特務艦隊陣没者之碑






(平成20年11月23日)

第二特務艦隊陣没者之碑

第一次世界大戦において我が海軍は3つの特務艦隊を編成して派遣したが、そのうち巡洋艦「明石」及び駆逐艦8隻をもって第2特務艦隊を編成し、大正6年4月から地中海に出動した。
途中から旗艦は「出雲」に替わり、作戦最盛期には駆逐艦は15隻に達した。
我が艦隊は連合国軍と共に船団護衛作戦に従事。
第2特務艦隊が地中海において単独で護衛した回数は348回。
護衛艦船の数は軍艦21隻、運送船767隻。
ドイツ潜水艦相手の対潜戦闘回数は36回。
1ヶ月の行動日程は25〜26日、航程は6000カイリにも及んだ。
駆逐艦「榊」は、僚艦「松」と共にギリシャのミロを出港し、警戒航行中の大正6年6月11日午後1時32分、ドイツ潜水艦の魚雷攻撃を受け、前部火薬庫の誘爆により艦首部が吹き飛んだ。
艦長上原中佐以下59名が戦死。
「榊」は辛うじて沈没は免れたが、クレタ島に曳航され、約1年を費やして同地で修復された。
なお第2特務艦隊戦死者73名(病死者を含む)の碑はマルタ島にも建立されている。

(参考:社団法人 佐世保東山海軍墓地保存会発行 『佐世保東山海軍墓地 墓碑誌』 平成20年第3刷)

特務艦志自岐殉難者碑



特務艦志自岐殉難者碑

大正8年8月15日於種子島沖殉難




(平成20年11月23日)

碑文

特務船志自岐大正八年八月二日蘭領タラカン港ヲ發シ佐世保軍港回航ノ途同月九日北緯十六度東経百二十六度三十分ノ地点ニ於テ台風ニ遭ヒ以後暴風怒涛ト奮闘スルコト六昼夜遂ニ同十五日種子島平山沖源三郎瀬ニ座礁沈没指揮官海軍中佐石川庄一郎以下百拾壹名船ト共ニ難ニ殉ス

大正十年七月

特務艦志自岐殉難者碑
運送艦
大正5年5月15日呉工廠で竣工
5300トン
12ノット
積載油量3000トン

我が国最初の重油運送艦(給油艦)であったが、大正8年(1919年)8月15日、ボルネオ島からの帰途台風に遭い、種子島南方の源三郎礁付近で座礁沈没した。
遭難者111名を祀る。

(参考:社団法人 佐世保東山海軍墓地保存会発行 『佐世保東山海軍墓地 墓碑誌』 平成20年第3刷)

第七十潜水艦殉難海軍々人碑



第七十潜水艦殉難海軍々人碑

大正十二年八月二十一日於淡路仮屋沖殉難




(平成20年11月23日)

碑文

大正十二年八月二十一日淡路國假屋沖ニ於テ第七十潜水艦ノ潜航公試ヲ行フ作業概ネ終了ヲ告ケ将ニ軽荷状態ニ復ヒムトス
突如本艦ハ傾斜沈下ヲ始メ監督官及乗員等ノ應急措置モ効ヲ奏セス遂ニ同沖三十有余■ノ海底ニ膠着セリ
而シテ海軍當局及関係官民ノ救援努力ニ由リ六旬ノ後本艦ハ浮上スルヲ得タリト雖在艦者ハ咸ナ起ツコト能ハサルニ至レルヲ發見セリ
上林海軍中佐以下海軍軍人四十三名ヲ此中ニ算フ
噫諸子軍事ニ盡瘁シテ労績アリ
前途亦有為ノ材タリシニ一朝災厄ニ會シテ之ニ殉ス
痛恨勝フルナシ而シテ其至誠奉公ノ事迹ハ没ス可ラサルナリ乃チ石ニ勒シテ不朽ニ傳フ

大正十三年七月

第七十潜水艦殉難海軍々人碑
二等潜水艦
大正10年12月2日神戸川崎造船所で起工
特中型、665トン、13ノット
魚雷発射管4門、砲1門

第70潜水艦は竣工引渡しを目前に控えた公試運転中の大正12年8月21日午後0時30分、淡路島の仮屋沖で事故沈没した。
軍人43名、海軍職工3名、川崎造船所職員42名、計88名が艦と運命を共にした。
本碑は殉職者のうち海軍軍人43名を祀っている。
なお、仮屋海岸にも「第七十潜水艦殉難之碑」が建っている。

(参考:社団法人 佐世保東山海軍墓地保存会発行 『佐世保東山海軍墓地 墓碑誌』 平成20年第3刷)


軍艦名取殉職諸士之碑 (軽巡・名取)


駆逐艦蕨及葦殉職者忠魂碑




駆逐艦蕨及葦殉職者忠魂碑





(平成20年11月23日)

駆逐艦蕨及葦殉職者忠魂碑
二等駆逐艦
蕨は大正10年12月19日藤永田造船所で竣工
葦は同年10月29日川崎重工業で竣工
「樅」型、770トン、36ノット
12センチ砲3門、魚雷発射管4門

連合艦隊の大規模演習実施中の昭和2年8月24日、島根県美保ヶ関沖において夜間襲撃演習中の午後11時20分、駆逐艦「蕨」は巡洋艦「神通」と、駆逐艦「葦」は巡洋艦「那珂」とそれぞれ衝突した。
「蕨」は26秒で沈没し、艦長五十嵐少佐以下91名の殉職者を出した。
「葦」は後部を切断して大破し、下士官兵28名の殉職者を出した。
2艦合計119名の殉職者を出す大事故である。
この事故は、軍縮条約の制約下に於いて、量を質で補うため猛訓練を日本海軍が実施したことに起因する。
レーダーなどがなかったあの時代に全艦舷灯も艦尾灯も消して、ただ肉眼だけを頼りに暗闇の中を33ノットの高速で運動中の事故であった。
軍法会議の最中、巡洋艦「神通」の艦長水城大佐は責を負って自刃した。
なお、「葦」は修復後再就役し、昭和15年に老朽により雑役船に類別変更されている。

(参考:社団法人 佐世保東山海軍墓地保存会発行 『佐世保東山海軍墓地 墓碑誌』 平成20年第3刷)

第4艦隊殉職者の碑




第四艦隊殉職者之碑






(平成20年11月23日)

第四艦隊殉職者之碑

昭和10年9月26日、海軍大演習に際し、第4艦隊は青森県八戸の東方250カイリの海面において猛烈な台風に遭遇し、多数の艦艇が波浪のため破損した。
特に駆逐艦「初雪」と「夕霧」は艦首が切断され、「睦月」は艦橋が圧壊した。
この時の風速は秒速40〜50m、波高は20mに達し、駆逐艦の動揺傾斜は片舷60度以上にもなった。
『第4艦隊事件』と称される。
この事故で切断流出した艦首部はやがて発見されたものの曳航作業は成功せず、「夕霧」では28名、「初雪」では24名の乗組員を閉じ込めたまま海底に沈んでいった。
また「睦月」では航海長が圧死殉職している。
この事故による被害は、重武装に対する船体強度の不足に起因するとされ、急遽全艦艇に対して強度調査を徹底的に行い、疑わしき艦艇については昼夜兼行で改善工事を実施した。
その教訓は次の建造艦艇に生かされて太平洋戦争に突入することとなる。
碑には「睦月」航海長柴田大尉以下54名の霊を祀っている。
なお、第4艦隊は各鎮守府在籍艦からなる臨時編成であったため、同様の碑が横須賀及び呉の海軍墓地にも建立されている。

(参考:社団法人 佐世保東山海軍墓地保存会発行 『佐世保東山海軍墓地 墓碑誌』 平成20年第3刷)


軍艦磐手戦死下士卒墓 (装甲巡洋艦・磐手)
駆逐艦蓮戦没者之碑 (駆逐艦・蓮)
第800号曳船戦没者慰霊碑 (公称第800号曳船)
第131号輸送艦・第1黒潮戦没者慰霊碑 (第131輸送艦)
第61駆逐隊駆逐艦初月慰霊之碑 (駆逐艦・初月)


住野英信の墓


故海軍少佐 従五位勲五等功三級 住野英信墓


昭和20年1月25日リンガエン湾頭ニ於テ神風特別攻撃隊金剛隊隊長トシテ勇奮戦死
海軍中尉住野英信時ニ年24歳



(平成20年11月23日)
住野英信
故海軍少佐 住野英信

(佐世保市・佐世保東山海軍墓地休憩所展示写真)

比島ツゲガラオ基地から昭和20年1月25日神風特別攻撃隊第27金剛隊々長としてリンガエン湾内艦艇船攻撃し勇奮戦死、時に年24歳
第201海軍航空隊所属
第13期海軍予備学生
長崎師範学校卒業
佐世保市福石小学校卒業

(説明文より)
田中穂積の墓





海軍軍楽長正七位勲五等 田中穂積之墓

明治37年12月31日■






(平成20年11月23日)

海軍軍楽長正七位勲五等 田中穂積之墓

「空にさえずる鳥の声 嶺より落つる滝の音
     大波小波どうどうと 響き絶えせぬ海の音」

この武島羽衣作の「美しき天然」の歌詞に作曲したのが田中軍楽長である。
この歌は田中軍楽長が明治33年4月、私立佐世保女学校(のちの市立成徳高女)の音楽教師を委嘱された折り、制と教育用として作曲したものである。
名曲「美しき天然」は国民愛唱の歌であり、またかつてはサーカスのジンダに流された。
田中軍楽長は山口県岩国出身。
13歳にして長州藩の日新隊鼓手となり、19歳で海軍に入って五等鼓手となった。
明治32年佐世保海軍の第3代軍楽隊長として着任し、佐世保において没す。

(参考:社団法人 佐世保東山海軍墓地保存会発行 『佐世保東山海軍墓地 墓碑誌』 平成20年第3刷)

杉野孫七の墓




海軍兵曹長勲六等功六級 杉野孫七墓

明治37年3月27日於旅順口港口戦死
三重縣平民 享年37年3箇月






(平成20年11月23日)

海軍兵曹長勲六等功六級 杉野孫七墓

日露戦争始まるや日本海軍は、敵の旅順港要塞を封鎖するため、その港口に運送船を沈める作戦を実施した。
第1回は明治37年3月24日運送船5隻が、第2回は3月26日運送船4隻が、第3回は運送船8隻が突入したが、いずれも夜、敵の探照灯の光芒が交叉し、敵砲弾の十字砲火の中を猛進したのである。
まさに決死隊であった。
この挙が発表されるや決死隊参加志願者が続出した。
広瀬中佐と杉野兵曹長は、第1回の「報国丸」に引き続き第2回の「福井丸」の指揮官及び指揮官付であった。
3月27日午前4時、「福井丸」は砲煙弾雨の中を港口に辿り着き、錨を入れて既に浸水を始めた船に爆薬を仕掛け、退去するため一同が短艇に乗ったが、杉野兵曹長が見えなかった。
広瀬中佐は3度船上に戻り探したが、兵曹長は戦死したのかその姿は見ることは出来なかった。
広瀬中佐はやむなくボートを発進させたが、その直後敵弾のため肉一片を残して壮烈な戦死を遂げた。

(参考:社団法人 佐世保東山海軍墓地保存会発行 『佐世保東山海軍墓地 墓碑誌』 平成20年第3刷)

海軍志願兵戦没者鎮魂の碑




海軍志願兵戦没者 鎮魂の碑






(平成20年11月23日)

碑文

佐世保海兵団の栄光ある歴史は 昭和20年8月15日の終戦と共に閉ざされた
しかし ここにおいて教育を受け ただ一筋に至誠の大義を貫き 国難に殉じた諸士の遺烈は 後世に決して消えることはない
懐■は 国を愛する情熱は止みがたく いまだ十余才の春秋に富む身をもって 海軍軍人に志願を決意するところとなり 海兵団に入団し 熾烈な訓練を透徹する精神教育のもとに ゆるぎなき海軍魂が陶冶されていった
ただひたすらに精進した日々 出身地 年齢 兵科・兵種の違いはあっても すべてを超えて死生観を一つにした同年兵の固い絆は結ばれ 教育を修了して部隊・艦船・特殊教育等へと袂を分けてそれぞれ任に赴いた
戦雲は四海に日々に暗く 命を奉じてあるいは南海の涯 あるいは北辺の地と 肉親 家郷を案ずるいとまもなく作戦行動に従うこと幾十度か その間 祖国の悠久な安泰を信じて 荒ぶ砲火に多くの諸士は散華し 生きて再び父祖の地を踏むを得なかった
その心情に思いをいたすとき まさに断腸の念は禁じがたいものがある
今日 我が国は平和と豊さが築かれた
しかし その礎となった諸士の悲しい命の積重ねがあることを忘れることはできない
我等生存の志願兵は 志を同じくして勲を鑚仰し 緑の地に鎮魂の碑を建立することとした
英霊 安らかにここに鎮まりますことを祈る

昭和63年5月1日
鎮魂之碑建立実行委員長
栗山輝義撰

海軍志願兵戦没者 鎮魂の碑

日本海軍の大部分を構成し、支えていたのは、海兵団で教育を受け、そこを修業した人達(海軍特進の士官・下士官・兵)であった。
なかでも志願兵出身者は、その中核として日本海軍の人的戦力の基盤をなすものであった。
明治5年に「徴兵令」が発布されたが、日本海軍が徴兵を始めたのはずっと後年になってからである。
徴兵の当初の教育期間は、陸軍が3年であったのに比して6年であった。(その後短縮)
海軍では同一年度に徴兵と志願兵が、半年おきに海兵団に入団していた。
徴兵と志願兵の比率は4対1の割合だったが、太平洋の風雲急を告げるにともない、志願兵の採用数が激増し、その比率は、昭和16年度においては2対1、昭和17年度では同率、昭和18年度においては2対3と逆転し、昭和19年度、昭和20年度はいずれも1対2と志願兵数が圧倒的に多くを占めるに至った。
太平洋戦争突入とともに、在来の佐世保海兵団(のちに佐世保第一海兵団と呼称)は実施部隊となり、昭和16年に相ノ浦に第二海兵団(現・陸上自衛隊相浦駐屯地)と、昭和19年に針尾島に針尾海兵団(現・ハウステンボス用地)が開設された。
最盛期には相浦に約3万名、針尾に約2万名の新兵を収容し、教育していた。

(参考:社団法人 佐世保東山海軍墓地保存会発行 『佐世保東山海軍墓地 墓碑誌』 平成20年第3刷)


第22駆逐隊慰霊碑 (駆逐艦・長月 水無月 文月 皐月)
軍艦大鷹慰霊碑 (空母・大鷹)
佐世保防備隊所属 電纜敷設艇 大立慰霊之碑 (電纜敷設艇・大立)


海軍ラバウル戦友会慰霊之碑




海軍ラバウル戦友会 慰霊之碑






(平成20年11月23日)

碑文

海軍ラバウル戦友会は昭和17年12月外南洋ニューブリテン島「ラバウル」に進出した南東方面艦隊第8艦隊麾下の第22防空隊と同19年1月17日敵機の大空襲により勇戦奮闘空しく「ラバウル」湾内に戦友と共に勇姿を没した特設工作艦八海丸及び佐世保鎮守府第5特別陸戦隊の一部「ニューギニア」より「ラバウル」への転進部隊と第1輸送隊の一部を以って編成され「ラバウル」防衛部隊第81警備隊第13大隊として官低山東海岸一帯に布陣堅固なる防禦陣地を構築敵の上陸に備え日夜の空爆と艦砲射撃に耐え敵をして遂に上陸を断念せしめた名誉ある部隊の元隊員と同方面に於て戦闘に従事した者を以って結成した戦友会である
南東方面海域に又「ニューギニア」「ソロモン群島」「ガダルカナル」及び「ブカ」「カロベ」「ブイン」「ブーゲンビル」「セントジョージ」「イボギ」等各島嶼に転戦し万斛の思いを胸に戦死した戦友の遺骨を故国に迎えるべく昭和49年5月政府所管により陸海軍合同で外南洋方面に遺骨収集団を派遣され現横松会長が海軍代表団員として現地に赴きその報告会を同49年11月別府市に往時の隊員を集めて開催しこれを契機として参集会員の総意により第1回の戦友会と慰霊祭を行い以後毎年回を重ね第9回の戦友会に於て戦没者及び復員後死没者の霊を永久に慰めるべく慰霊碑建立の決議となり多年の念願が叶い平和への願いをこめ茲に我等が母港佐世保旧海軍墓地に慰霊碑を建立す
祖国繁栄の礎となり尊い生命を国家に捧げた戦友の霊よ安らかにお眠り下さい

昭和59年5月30日
海軍ラバウル戦友会
会長 横松輝雄
他 会員一同


初霜慰霊碑 (駆逐艦・初霜)


海軍施設部軍人軍属慰霊碑




海軍施設部軍人軍属慰霊碑






(平成20年11月23日)

建立のことば

大東亜戦争中佐世保軍港より出陣した設営隊は太平洋全域に亘りとくに第16設営隊、第26設営隊、第34設営隊は死闘の続く最前線ラバウルソロモン群島ブーゲンビル島南部地区ブイン、トリポイルで軍施設の建設に従事、時には交戦して敢然と奮闘し戦場の基礎を築いた
しかし遂に制海空権共に敵の手中にきし敵の銃爆撃と更に補給はとだえ極限的生活環境下での飢餓、病魔と戦いその間1,840数名の軍人軍属が祖国に殉じ護国の神と化せられた
痛恨極りなく今日我が国が平和と自由な豊かな国に発展した所以は英霊の賜である
茲に生還した戦友と相諮って慰霊碑を建立し永久に英霊の不朽の御功績を顕彰し安らかにおはさむことを祈願する

昭和58年5月吉日

(碑文より)

海軍施設部軍人軍属慰霊碑

大東亜戦争において海軍が初めて編成し、主として前線航空基地の修復建設作業に任じた部隊が海軍設営隊である。
終戦まで224の設営隊が編成され、うち8隊は玉砕している。
佐世保で編成された第16、第26、第34設営隊は、ラバウル、ソロモン群島及びブーゲンビル島に配属され、軍属も銃を執り、空襲、飢餓、マラリアと闘い、多くの犠牲者を出しながら飛行場など基地建設に奮闘した。

(参考:社団法人 佐世保東山海軍墓地保存会発行 『佐世保東山海軍墓地 墓碑誌』 平成20年第3刷)


軍艦阿武隈慰霊碑 (軽巡・阿武隈)
嗚呼 伊号第10潜水艦
伊号第185潜水艦之碑


慰魂 第69防空隊


慰魂 第69防空隊


激戦地ソロモン群島カビエング
戦没者142名
元隊長 海軍大尉 国崎 進 建之



(平成20年11月23日)
慰霊之碑


慰霊之碑

西部ニューギニア方面海軍部隊
昭和53年10月9日
佐鎮ソロン会建立




(平成20年11月23日)

建碑のことば

西部ニューギニア方面ソロン地区海軍部隊は戦況不利苦斗の渦中第107防空隊、旧佐鎮一特の1ヶ小隊、第106防空隊の照空隊及び呉、横鎮部隊を以って昭和20年1月第27警備隊に編成され、司令西林中佐指揮の下、ソロン地区エフマン航空基地対空防備の外全般の作戦に当り玉砕の覚悟を以って戦った部隊である。
赤道直下炎暑の中度重なる熾烈な対空戦斗。
25粍機銃陣地に急降下で突込んでくる米軍機と刺違えに壮烈なる戦死を遂げた数多くの者、又夜間魚雷艇との交戦及び陸軍物資輸送支援作戦などに奮戦し幾多の戦死者を出した。
又この間当戦場の衛生環境は極めてわるく悪疫熱病に犯され武運拙く無念の涙を■■戦病死したるもの数多くあり、これら数十名の戦没者は今も尚ソロン地区の島々の墓地に眠っている
共に死を賭して戦いながら生きて帰国出来た我々は友の霊を慰め輝かしき武勲を永遠にたたえんと志を集めて、ここに慰霊の石碑いしぶみを建立するものである。
あゝ勲しありし、ますらおの御霊よ、母なる港この丘に天翔あまかけり帰り来まして心安らかに鎮まり給え。

昭和53年10月9日
西部ニューギニア方面海軍部隊佐鎮ソロン会生存者一同

(副碑・碑文より)

碑文

昭和18年6月佐世保海兵団に於いて第30防空隊が編成され横須賀砲術学校で速成教育を受け同年8月砲術学校を後にパラオ経由西部ニューギニア、カイマナ航空基地の警備に当る。
全員玉砕の覚悟を以って赤道直下炎暑の中執拗に猛攻を加えてくる敵機と刺違えに壮烈なる戦死を遂げたカイマナの地に眠る数多くの戦友の為、はからずも生還できた我々は輝かしき武勲を永遠に讃え、勇士の霊を慰める為め芳志を集めて茲に慰霊の碑を建立する。
英霊よ母港の丘に安らかに眠り給え。

昭和54年5月27日
海軍第30防空隊戦友会一同

(側碑・碑文)

西部ニューギニア方面海軍部隊戦没者慰霊之碑

第27警備隊は、昭和18年6月佐世保海兵団において編成され、第4南遣艦隊第25根拠地隊に編入されて、西部ニューギニア航空基地等の警備に任じた。
すでに空襲は激化しており、多くの犠牲者を出しながら基地を死守して終戦に至る。
慰霊碑は、第25警備隊を構成した佐鎮一特、第106防空小隊、第107防空小隊などの戦死者40名と第30防空隊の戦死者30名を併せ祀る。

(参考:社団法人 佐世保東山海軍墓地保存会発行 『佐世保東山海軍墓地 墓碑誌』 平成20年第3刷)


駆逐艦杉戦没者慰霊碑 (駆逐艦・杉)


大東亜戦争戦没者慰霊碑






大東亜戦争戦没者慰霊碑








(平成20年11月23日)

この塔は佐世保鎮守府所属ならびに同府関係海軍軍人軍属にして、日華事変及び大東亜戦争において戦没した13万余柱の英霊を慰め、その功を顕彰せんとするものである。
これらの軍人軍属はこの地において海軍の教育訓練をうけ、夙に有数の精兵練達者の域に達していたものであるが、事変戦争に際しては、身を挺して救国の難に赴き、南溟朔北の空に地に戦って散華した。
戦い終わって十余年往時を追想してその面影を偲べば、哀惜の情ことに切々たるものがある。
仍って、われら九州四国の海軍復員者ならびに有志は、縁深きこの地を卜として一塔を建て、戦没者の遺骨と芳名録とを安置収納して永く後世に伝えんとするものである。

昭和32年5月
大東亜戦争戦没者慰霊塔建立期成会

(碑文より)


海南島忠魂碑 (佐世保鎮守府第8特別陸戦隊)



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