佐世保鎮守府潜水艦合同慰霊碑


佐世保鎮守府潜水艦合同慰霊碑



佐世保鎮守府潜水艦合同慰霊碑

(長崎県佐世保市・佐世保東山海軍墓地

内閣総理大臣 中曽根康弘 謹書



(平成20年11月23日)

佐鎮潜水艦勇士に捧ぐ

さきの大東亜戦争、昭和16年12月8日開戦より、20年8月15日終戦まで、3年8ヶ月の間大命一下、帝国海軍は、広大な諸海域において、寧日なく激烈な戦斗行動に従事した
戦前、戦中を通じ、佐世保鎮守府潜水艦は、見敵必勝の旨を体して勇戦奮斗したが、沈没したもの32隻、戦公死者2591名の多きに達した、痛惜の極みである
今、終戦40周年の好機に際会し佐世保潜水艦乗員の残存者有志一同相図り、関係遺族及び他の多数有志者の協賛を賜わり、旧海軍墓地聖域に合同慰霊碑を建立することを得た
茲に、謹しんで、英霊を慰め、旧帝国海軍潜水艦の栄光を讃えて、無限の哀悼の微衷を捧げ、併せて日本国将来の安泰と繁栄を祈念する

昭和60年10月20日
佐世保鎮守府潜水艦合同慰霊碑
建立委員会会長 高津信彦

(碑文より)

喪失潜水艦名

伊10潜 伊13潜 伊60潜 伊61潜 伊63潜 伊67潜 伊164潜 伊165潜 伊166潜 伊177潜 伊178潜 伊179潜 伊180潜 伊181潜 伊182潜 伊183潜 伊184潜 伊185潜 伊368潜 伊370潜 伊371潜 呂33潜 呂34潜 呂61潜 呂65潜 呂66潜 呂106潜 呂107潜 呂108潜 呂109潜 呂110潜 呂111潜 伊372潜

(碑文より)

潜望鏡




潜望鏡
(長崎県佐世保市・佐世保旧海軍墓地)




(平成20年11月23日)

潜水艦小史

伊号第10潜水艦
偵察用航空機を搭載した「巡潜甲型」の2番艦として昭和16年10月31日に竣工。
ハワイ作戦・インド洋作戦・トラック作戦・マリアナ作戦に参加。
昭和18年1月30日、オーストラリア東岸沖でリバティー船サムエル・ゴンパースを撃沈。
昭和18年6月、ペナンからインド洋に出撃し、7月1日と6日にドイツに派遣される伊8潜に2度の燃料補給を行う。
その後、インド洋で交通破壊戦を行い、7月23日、ノルウェー・タンカー「アルシデス」(7634トン)を撃沈。
9月14日にノルウェー・タンカー「ブラモーラ」(6261トン)を撃沈。
9月24日、アメリカ・貨物船「エリアスホーエ」(7176トン)を撃沈。
10月2日、ノルウェー・貨物船「ストービーケン」(4836トン)を撃沈。
10月5日、ノルウェー・タンカー「アンナコーディーン」(9057トン)を撃破。
10月24日、イギリス・貨物船「コンゲーラ」(4533トン)に最後の魚雷2本を発射するが当たらず、砲撃で撃沈する。
昭和19年5月9日、横須賀を出港してマーシャル東方に進出し、メジュロ泊地を偵察した後、サイパンの第6艦隊司令部救出作戦のためグアム方面に向かうが、6月28日以降消息不明となる。
昭和19年7月4日、サイパン島付近にて米護衛駆逐艦デヴィッド・W・テーラーとリッドウルの協同攻撃により撃沈される。(艦長:中島清次中佐)
艦長以下113名全員が戦死。
ちなみに伊10潜の撃沈数15隻は、日本海軍潜水艦のトップ・スコアーである。

伊号第13潜水艦
水上偵察機1機の代わりに水上攻撃機2機を搭載した艦。(同型艦:伊14)

ウルシー偵察のため新鋭偵察機「彩雲」を2機搭載して昭和20年7月15日に大湊を出港。
翌16日に米護衛空母アンチオの艦載機及び護衛駆逐艦ローレンス・C・テーラーの協同攻撃を受けて沈没とされている。(米側の記録と位置が違うので疑問あり)(艦長:大橋勝夫)

伊号第60潜水艦
マレー作戦に参加。
昭和17年1月17日、スンダ海峡にて英駆逐艦ジュピターにより撃沈される。(艦長:長谷川ラ少佐)

伊号第164潜水艦
海大2型の船体その他を改良した海大3型(水上速力は20ノット)
同型艦:伊153〜伊164(合計9隻・昭和3年〜昭和5年就役)

マレー沖海戦・インド洋作戦に参加し交通破壊戦に活躍。
昭和17年5月16日、佐世保を出港しミッドウェー作戦参加のためクエゼリンに進出する途中消息不明となる。
昭和17年5月17日、九州南東方にて米潜水艦トライトンにより撃沈される。(艦長:新名嘉雄少佐)
(喪失認定日は昭和17年5月25日)

伊号第165潜水艦
既成艦の実績を取り入れた改良型。海大5型。
排水量:水上1700トン・水中2300トン
速力:水上20ノット・水中8ノット
備砲:10センチ高角砲1門・12ミリ機銃1挺
発射管:6門(魚雷14本)
航続距離:10ノットで1万6000キロ
同型艦:伊165・伊166・伊195

マレー沖海戦に参加。
昭和17年12月9日、英戦艦2隻の北上を報告してマレー沖海戦に寄与した殊勲艦。
インド洋作戦では交通破壊戦で活躍する。
昭和18年1月、ゼラルトン北方のポートグレゴリを砲撃する。
昭和19年8月末、敵に一部を占領され孤立したビアク島に、味方部隊との連絡と航空部隊司令官の救出、食糧の補給のため同島に向かったが、敵魚雷艇3隻の攻撃を受け作戦は失敗。相当の被害を受けながら無事引き返す。
昭和20年6月15日、回天特別攻撃隊としてマリアナ東方海面に向かい消息を絶つ。
昭和20年6月27日、マリアナ諸島東方にて米海軍基地機により撃沈される。(艦長:大野保四少佐)

伊号第166潜水艦
昭和16年12月25日、ボルネオ沖でオランダ海軍潜水艦K-16を撃沈する。(日本潜水艦初の敵国軍艦の撃沈)
マレー沖作戦・インド洋作戦に参加して海上交通破壊戦で活躍する。
昭和18年1月、ガダルカナル島撤退作戦の索制としてココス島を砲撃する。
昭和19年7月17日、ペナン沖で英潜水艦テレマカス(艦長:ウィリアム・キング)の雷撃を受け撃沈される。
戦没者88名。

伊号第177潜水艦
伊174潜の改良型(海大7型)
基準排水量:1630トン
速力:水上23ノット
発射管:艦首に6門
同型艦:伊176〜伊185(合計10隻)
昭和17年8月から約1ヶ月間に完成して就役した。

ニューギニア補給輸送作戦・パラオ作戦に参加。
昭和18年9月4日、ラエ輸送の任につき、重傷病者88名を収容中に敵魚雷艇2隻、駆逐艦5隻に包囲されるが脱出に成功する。(艦長:折田善次少佐)
昭和18年11月25日、ブーゲンビル島からラバウルへ転進する部隊を乗せた駆逐艦3隻のうち2隻が沈没。
この漂流者を救助する為出動し227名を収容しラバウルに帰還する。
昭和19年1月6日からシオ輸送と第18軍司令部・第19海軍根拠地隊司令部の収容の任に当たるが、6日、7日と米魚雷艇の攻撃を受け失敗、8日に司令部の収容に成功、敵魚雷艇の攻撃の中をマダンに送り届け、ラバウルに帰還する。
昭和19年1月10日ラバウルからトラックに後退する。
昭和19年9月19日、呉からパラオ方面に向かい、10月4日ウルシーを偵察後、呉に帰投を命じられたが応答がなく消息不明となる。
昭和19年11月19日、パラオ諸島北西方にて米駆逐艦コンクリン及びマッコイ・レイノルズの協同攻撃により撃沈されたものと推定。(艦長:渡辺正樹少佐)

伊号第178潜水艦
南太平洋方面作戦に参加。
昭和18年5月、トラックを発ちオーストラリア東方にて作戦中に消息を絶つ。
昭和18年8月25日、エスピリッサント北西方において米駆逐艦パターソンの攻撃を受け沈没したものと推定。(艦長:宇津木秀次郎中佐)
(日本側喪失認定日は昭和18年8月4日)

伊号第179潜水艦
昭和18年7月14日、伊予灘西方にて哨戒訓練中に事故を起こし沈没する。(艦長:湯浅弘少佐)

伊号第180潜水艦
昭和18年7月、オーストラリア東岸の通商破壊戦からニュージョージア島とサンタイサベル島の中間海面の哨戒に投じられた時、コロンバンガラ島夜戦で沈没した水雷戦隊旗艦「神通」の漂流者約40名を救助しブインに届ける。
昭和19年3月20日、大湊を発ってウナラスカ島以東、コジャック島南方にわたる海域で作戦中に消息不明となる。
昭和19年4月27日、コジャック島沖にて米護衛駆逐艦ギルモアにより撃沈される。(艦長:藤田秀範少佐)

伊号第181潜水艦
昭和19年1月13日、ラバウルを出発し16日バリ島到着予定で輸送作戦中、16日以降消息不明となる。
バリ島所在の日本陸海軍部隊の情報により、グイディアグ海峡にて米駆逐艦、魚雷艇と交戦し撃沈されたと推定。(艦長:田岡清少佐)

伊号第182潜水艦
昭和18年8月23日、トラックからニューヘブライズ諸島方面に進出中消息を絶つ。(艦長:米原実少佐)
(喪失認定日は昭和18年9月3日)

伊号第183潜水艦
昭和19年4月28日、豊後水道よりサイパンを経てトラック進出予定で出発したが、サイパンに到着せず消息不明となる。
同日の昭和19年4月28日、豊後水道西口を出発後、米潜水艦ボギーにより撃沈される。(艦長:佐伯卓夫少佐)

伊号第184潜水艦
マリアナ作戦に参加。
昭和19年6月12日、ミリへの輸送作戦に成功する。
その後、6月15日にサイパン方面へ急行したが、以後消息不明となる。
昭和19年6月19日、サイパン島南東方にて米護衛空母スワニー艦載機により撃沈される。(艦長:力久松次少佐)

伊号第185潜水艦
マリアナ作戦に参加。
昭和19年6月11日、ウエワク輸送作戦のため内地を出発し、6月15日、サイパン方面の決戦場に向かったまま消息を絶つ。
昭和19年6月22日、サイパン島北西方にて米駆逐艦ニューカム及び掃海駆逐艦チャンドラーにより撃沈される。(艦長:荒井淳少佐)

伊号第368潜水艦
弾薬や糧食等を前線に輸送するための輸送潜水艦。
略称:潜丁型
基準排水量:1440トン
水上速力:13ノット
備砲:14センチ砲1門
航続距離:10ノットで2万4000キロ
輸送能力:兵員110名・兵器糧食は艦内62トン・艦外20トン(合計82トン)
大型通船を2隻搭載し交通艇として使用。
同型艦:伊361〜伊371(合計11隻)
2号艦(伊362)以降は魚雷発射管と魚雷格納庫を撤去して貨物艙に改造し、艦内の貨物搭載量を100トンに増やしている。
本来の輸送任務の他、後には回天を載せて襲撃任務も行うようになる。

昭和20年2月20日、回天特別攻撃隊千早隊として呉を出撃したが、硫黄島方面にむかったまま消息不明となる。
昭和20年2月27日、硫黄島付近にて米護衛空母アンチオ艦載機により撃沈される。(艦長:入沢三輝少佐)
(喪失認定日は昭和20年3月14日)

伊号第370潜水艦
昭和20年2月21日、回天特別攻撃隊千早隊として出撃したが、硫黄島方面にむかったまま消息不明となる。
昭和20年2月26日、硫黄島付近にて米護衛駆逐艦フィンネガンにより撃沈される。(艦長:藤川進大尉)
(喪失認定日は昭和20年2月24日)

伊号第371潜水艦
昭和19年12月30日、横須賀発トラック経由でメレヨン島への輸送を実施。
昭和20年1月31日、トラックを出発して横須賀へ向かったが、到着予定日の3月22日なっても入港せず、消息不明となる。(艦長:上捨石康雄大尉)

呂号第33潜水艦
昭和5年のロンドン条約による潜水艦保有制限により生まれた中型潜水艦・海中6型。
排水量:700トン
発射管:4門
同型艦:呂33、呂34

昭和16年12月8日、佐世保を出てマレー、ジャワ方面の交通破壊戦に従事。
昭和17年4月、ラバウルに進出し、ポートモレスビーの監視哨戒任務に就き商船1隻を撃沈。
昭和17年8月22日、ラバウルを出港しポートモレスビーに向かったが、8月26日以降消息不明となる。
昭和17年8月29日、ポートモレスビー方面の偵察中にオーストラリア駆逐艦アランタ(英航空機の説あり)の攻撃を受け沈没する。(艦長:栗山重志少佐)

呂号第34潜水艦
昭和16年12月18日、佐世保を出港し、ジャワ方面で行動。
昭和17年4月よりソロモン方面で行動。
昭和17年8月7日、ガダルカナル島の米軍上陸に対し、ガダルカナル島残留者と連絡、薬品などを渡し、ルンガ泊地で荷役中の敵商船を撃沈する。
その後、連続爆雷攻撃を受けたが損害は潜望鏡破損で済む。
昭和18年4月2日、ラバウルを出港し4月6日にルッセル島付近の天候及び敵情報報告の命令を受けたが、以後音信が途絶え消息不明となる。
昭和18年4月5日、ルッセル島沖にて米駆逐艦オーバノンにより撃沈される。(艦長:富田理吉大尉)
(喪失認定日は昭和18年5月2日)

呂号第61潜水艦
第一次世界大戦型の旧式潜水艦。
昭和16年12月、ウェーキ方面で行動。
その後、昭和17年までマーシャル方面で行動。
昭和17年8月1日よりアリューシャン方面に敵艦船攻撃のため4回出撃。
昭和17年8月28日、キスカからナザン湾の敵艦艇攻撃に向かったが、31日に敵攻撃の電報を打電したのち消息を絶つ。
昭和17年8月31日、アトカ島ナザン湾に侵入し、水上機母艦『カスコ』に魚雷1本を命中させ湾外に脱出したが、米駆逐艦レイドおよび米基地哨戒機の攻撃を受け、6回の爆雷攻撃を受けて浮上砲戦となったが撃沈される。生存者は5名。(艦長:徳富利貞大尉)

呂号第65潜水艦
昭和16年12月、開戦時はウェーキ方面の監視に従事。
その後、ラバウル攻略作戦、ヤルート東方に出撃したが敵を見ず、昭和17年4月2日に内地に戻る。
昭和17年9月15日、大湊を出港しキスカの哨戒に従事。
昭和17年9月28日、キスカ泊地で空襲の際に沈座して退避しようとしたが、艦橋ハッチが閉まらないうちにベント弁を開いたため艦内に浸水・沈没。
乗員の大部分が脱出に成功し艦体は放棄される。乗員64名中19名が戦死。(11月4日との説あり)

呂号第66潜水艦
英国のL4型潜水艦。
開戦時、ウェーキ島の監視に従事。
昭和16年12月17日午後8時30分、ウェーキ島沖にて哨区交替の際に僚艦の呂号第62潜水艦と衝突し沈没。
艦長以下63名戦死。生存者は3名。(艦長:黒川英幸少佐)

呂号第106潜水艦
昭和18年3月31日、佐世保を出撃し、ラバウルを基地としてソロモン方面の輸送及び敵艦船攻撃に従事。
7月17日に米LST342号を撃沈。
昭和19年5月16日、トラックを出発しアドミラルティー北方の哨戒につきそのまま消息を絶つ。
昭和19年5月22日、アドミラルティ付近にて米護衛駆逐艦イングランドにより撃沈される。(艦長:宇田恵泰大尉)
(喪失認定日は6月25日)

呂号第107潜水艦
昭和18年3月31日、佐世保を出港しソロモン方面に進出。
6月30日、ラバウルを出撃してレンドバ島方面に向かったが、7月6日以降消息不明となる。
昭和18年7月12日、レンドバ島西方にて米駆逐艦テーラーにより撃沈される。(艦長:江木尚一少佐)
(喪失認定日は昭和18年8月1日)

呂号第108潜水艦
昭和18年8月11日、横須賀からラバウルへ進出。
ソロモン方面の作戦に従事。
昭和18年9月下旬より東ニューギニア地区ヒューオン湾方面で作戦中、昭和18年10月3日ワードフント岬北50海里(約93キロ)で敵駆逐艦3隻を攻撃し、敵の反撃の中、米駆逐艦ヘンリーを撃沈する。
昭和19年3月、トラックに基地を移し、トラック方面の哨戒に従事。
5月15日、トラックを出てアドミラルティ方面の哨戒に従事したが、そのまま消息不明となる。
昭和19年5月26日、アドミラルティ付近にて米護衛駆逐艦イングランドにより撃沈される。(艦長:小針寛一大尉)
(喪失認定日は昭和19年6月25日)

呂号第109潜水艦
昭和18年8月15日、佐世保からラバウルへ進出。
スルミ、ブインへの輸送作戦に従事。
昭和19年3月、佐世保に帰港して修理。
昭和19年4月、サイパンに進出してあ号作戦(マリアナ沖海戦)に参加。
10月、比島東方に進出して敵艦船攻撃に2回出撃するが敵を見ず、佐世保に帰投。
昭和20年1月17日、フィリピン・リンガエン湾西方で空母、巡洋艦、駆逐艦に魚雷各2本を命中させる。
4月12日、佐世保から沖縄方面に向かったが消息不明となる。
昭和20年4月25日、沖縄南方にて米輸送艦ホーレス・A・バスにより撃沈される。(艦長:中川博大尉)
(喪失認定日は昭和20年5月7日)

呂号第110潜水艦
昭和18年11月12日、内地を出てインド洋で作戦に従事し、商船1隻を撃沈。
12月19日、ペナンに帰投。
昭和19年2月2日、ペナンを出てベンガル湾で作戦従事中に消息不明となる。
昭和19年2月11日、ベンガル湾ビザガバタム岬沖で連合軍砲艦(?)インド護送艦「ユナム」と交戦し撃沈される。(艦長:江波戸知郎少佐)
(喪失認定日は昭和19年3月15日)

呂号第111潜水艦
昭和18年10月31日、呉を出撃し、ペナンを基地として昭和19年3月までインド洋の交通破壊戦に従事。
商船3隻を撃沈し、4月13日に佐世保に帰投。
昭和19年5月22日、佐世保を出港しトラックへ進出。
6月4日、トラックからアドミラルティー北方へ向かい、消息不明となる。
昭和19年6月10日、アドミラルティ付近にて米駆逐艦テーラーにより撃沈される。(中村直三少佐)
(喪失認定日は昭和19年7月12日)

伊号第372潜水艦
輸送潜水艦伊号第561型の一部設計を変更した潜水艦。
水中航続力と輸送能力を増大させた。
航空揮発油150トンの輸送可能。
排水量:水上1660トン・水中2240トン
速力:水上13ノット・水中6.5ノット
備砲:8センチ迫撃砲4門・25ミリ機銃7門
航続距離:13ノットで8000キロ

昭和20年2月、フィリピン輸送に従事したが途中で中止となり引き返す。
昭和20年4月1日〜7月10日、ウェーキ島輸送作戦2回実施。
昭和20年7月18日、横須賀にて航空揮発油還送工事中に米空母艦載機の空襲を受け沈没。(艦長は生存)

(参考:『日本兵器総集』 月刊雑誌「丸」別冊 昭和52年発行)
(参考:近代戦史研究会編『情報戦の敗北』)
(参考:平塚柾緒著『パールハーバー・真珠湾攻撃』)
(参考:『歴史群像2007年10月号』)
(参考:『歴史群像2008年6月号』)
(参考:草鹿任一著『ラバウル戦線異状なし』)
(参考:『歴史群像2008年12月号』)
(参考:『歴史群像2009年2月号』)
(参考:『会報 特攻 第71号』)
(参考:大内健二著 『戦う民間船』 光人社NF文庫 2006年発行)
(参考:木俣滋郎 著 『駆逐艦入門』 光人社NF文庫 1998年発行)

(参考:大内建二 著 『揚陸艦入門』 光人社NF文庫 2013年1月発行)

(平成23年5月29日追記)
(令和元年11月4日 追記)
(令和2年4月2日 追記)




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