佐藤惣之助 さとう・そうのすけ

明治23年(1890年)12月3日〜昭和17年(1942年)5月15日


神奈川県出身。
正規の学業を受けず、少年の頃より佐藤紅葉の門で俳句を作り、18〜19歳の頃から千家せんけ元麿・福士幸次郎らとの交流を通じて詩作を始めた。
当初は人道主義的傾向の詩風だったが、第3詩集『満月の川』(1920年)あたりから人間臭の強い情感を多彩に表現した。
『赤城の子守唄』など歌謡曲の作詞も多い。


詩碑

詩碑

(神奈川県川崎市・川崎市体育館)

惣之助の詩
「わたしは草と花で一つの川をかいた
わたしは星と花火で海と港をかいた」
實篤書


(平成19年12月18日)

碑文(裏)

佐藤惣之助君は明治23年12月3日川崎町砂子に生る
年少にして佐藤紅葉氏に師事
俳句■学■中途より詩に■■
詩集二十三冊他に随筆句集■書小説歌謡等刊行
独自の詩風を形成しいずれもその詩精神■一体化す
また新しき詩運動詩の家を起し友■結■
絢爛たる才華の持ち主にして大正昭和初期にわたり文芸分野に活躍す
■に資性濶達にして無私人情篤くその鬼才を惜まる■も昭和17年5月15日急逝
享年53
市内正教寺に葬る
茲に川崎市文化協会は市後援のもと旧友知己等と計りその偉業を敬慕して詩碑を建立す

昭和30年10月15日
飯田九一 ■■■

佐藤惣之助





佐藤惣之助
(説明板より)







(平成19年12月18日)

佐藤惣之助の碑

わが国の近・現代文学に多大な功績をのこした佐藤惣之助さとうそうのすけは、明治23年(1890)、橘樹郡たちばなぐん川崎町砂子いさご(現在の川崎区本町)の旧川崎宿・上本陣かみほんじん(佐藤本陣)の次男として生まれました。
詩人・惣之助は、生涯で数多くのすぐれた作品をのこしていますが、その活動は俳句・小説・作詞などの分野にもおよんでいます。
しかし、真の評価は詩作にあります。
惣之助は友情にあつく、数多くの仲間と活発な創作活動を展開しましたが、特に大正14年(1925)には、川崎の自宅を「詩の家」と名づけ、同人誌『詩之家』を刊行しました。
同人の数は、多いときには70名にも達しました。
また、詩人としての才能を生かして、「赤城の子守唄」「緑の地平線」「青い背広で」「湖畔の宿」「人生劇場」など、今でも多くの人々に口ずさまれている名曲を作詞し、昭和17年(1942)、52歳の生涯を閉じました。
この碑は、惣之助を顕彰するため、川崎市文化協会の発意によって昭和30年10月に建立されました。
碑文は詩集「華やかな散歩」の序詩から選ばれ、文字は惣之助が尊敬していた武者小路実篤むしゃのこうじさねあつが揮毫きごうしたものです。

平成2年2月
川崎市教育委員会

(説明板より)

川崎市体育館



川崎市体育館
(神奈川県川崎市富士見1−1−4)





(平成19年12月18日)



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