佐和山城 さわやまじょう

滋賀県彦根市古沢町


文禄4年(1595年)豊臣秀吉石田三成を佐和山城に封じた。
佐和山が濃尾方面と北陸方面に向かう街道の要所として、秀吉は三成以外にここに封ずべき適当な人物が見当たらなかったという。
三成が入城した頃は城番が置かれていたにすぎず、城も荒廃していたので、直ちに修築に着手した。
修築は短期間で行われ、本丸の天守以下、楼閣は琵琶湖の入り江に映えてその偉容を誇ったが、内部の作りは質素で、居間なども大抵は板張りであった。
これは、三成の合理的な一面を現しているといえる。
関ヶ原の役で落城し、井伊直政が入城。
やがて彦根城築城となり、佐和山城は廃城となる。

(参考:『日本城郭辞典』)


佐和山城遠景 平成18年4月10日

彦根城から見た佐和山城遠景

佐和山



佐和山(佐和山城跡)

(滋賀県彦根市)





(平成18年4月10日)

佐和山城趾

慶長5年(1600年)「天下分け目の戦い」といわれた関ヶ原合戦の豊臣方の総大将石田三成が、東国へのにらみをきかせた城趾で、佐和山城は標高232米、この頂上に五層の天守閣がそびえ、その偉容を誇っていたといわれる。
しかし関ヶ原の敗戦に次ぐ落城後は、建物・石垣などすべてつぶされ、あるいは運び去られて城趾はほとんどその面影をとどめず、わずかな地形からありし日の城の構えをしのぶことができるに過ぎない。

(『彦根東山観光・文化財案内』説明板より)


【佐和山城】

佐和山城は標高232メートルの山頂に築かれた山城で、すでに南北朝時代には存在していたことが史料に認められる。
その麓では中山道と北陸道が交差し、しかも湖上水運が京都方面に通じているという要衝の地であったことが、この山城の出現を促したのだろう。
戦国時代に入ると、城主は何度か交代したが、丹羽長秀にわながひで・堀秀政を経て石田三成が領することになった。
三成を佐和山城に封じたのは豊臣秀吉であり、禄高は最高時で19万4千石に達した。
三成はこの抜擢に感奮し、忠誠的山城だった佐和山城に大改修を加えた。
その結果、佐和山城は堅固な近世的山城に変貌した。

関ヶ原の戦いに勝った徳川家康は、次の目標として東軍の武将に佐和山城の名を伝えた。
当時、三成は関ヶ原に敗れて行方不明だったが、佐和山城には三成の父・正継、兄の正澄、子の重家ら2800余人が立て籠もっていた。
しかし、佐和山城がどれほど堅固な構えをしていても、主将を欠き、相手が数十倍の大軍とあっては、持ちこたえることはできない。
東軍の猛攻を前に佐和山城は2日にして落城し、正継、正澄らは自害して果てた。

三成一族が滅びた後、新たに佐和山城主に任じられたのは、徳川四天王のひとりである井伊直政だった。
直政は佐和山攻めの総指揮をとった人物で、家康から給された禄高は18万石である。
直政は、それ以前に領していた上州高崎城を引き払い、関ヶ原戦の翌年の慶長6年(1601年)に佐和山城に入った。

直政は領内を検分して歩くうちに、佐和山の近くの磯山のほうが城地として有利だと考えるようになった。
城の近世的機能という見地からすると、高い山頂に孤立する佐和山城は何かと不便だったのである。
そこで直政は、磯山に城を移すことを検討し始めた。
しかし、直政は翌慶長7年2月、佐和山城内に没したため、磯山(彦根)築城の望みを果たすことはできなかった。
直政の宿願を実現に移したのは、子の直継(直勝)である。
直継は家康に彦根移転を願い出て許されると、慶長8年(1603年)に築城工事に取り掛かった。

この工事にあたり、井伊氏は領民の三成追慕を断ち切るため、佐和山城を徹底的に破壊尽くした。
このため、現在の佐和山城跡には石垣すら残っていない。
ただ、これらの石垣は廃棄されたわけではなく、彦根城の石垣に転用されている。

(参考:百瀬明治 著 『日本名城秘話』 徳間文庫 1995年1月初刷)

(令和2年7月11日 追記)


龍潭晩鐘


龍潭晩鐘

(滋賀県彦根市・龍潭寺)

佐和山城にあった陣鐘を当寺初代昊天和尚が彦根城主二代目井伊直孝公より拝領する。
(説明板より)


(平成18年4月10日)
龍潭寺



龍潭寺りょうたんじ
(滋賀県彦根市古沢町大洞)





(平成18年4月10日)

臨済宗妙心寺派
旧彦根藩主井伊家菩提寺

龍潭寺

当寺は古く天平5年(734)、行基菩薩により遠江国引佐郡井伊谷郷に開基。
元中2年(1385)、後醍醐天皇第3皇子宗良親王によって中興され、寺号を龍潭寺としました。
慶長5年(1600)井伊直政公が佐和山城主となられたのを機に、昊天禅師により佐和山山麓に移建開山した、井伊家と深いゆかりをもつ臨済宗妙心寺派の名刹です。
元和3年(1617)諸堂が完成した後は、近江随一の禅刹となり、近郊に十余りの末寺を有する巨刹となりました。
さらに全国有数の禅宗大学寮として発展し、特に「園頭料」は日本の造園専門学の発祥とされ、当寺で学んだ僧たちが全国の禅寺の庭園を手がけたことは広く知られています。
また元禄年間からは達磨さまにあやかる「だるま寺」として人々の信仰を集め、四季折々に美しい花の寺としても広く親しまれてまいりました。

(リーフレットより)


太鼓門櫓



彦根城・太鼓門櫓


佐和山城から移築されたものともいわれています。




(平成18年4月10日)

太鼓門櫓(重要文化財)

本丸の表口をかためる櫓門で、築城後、ここに太鼓をおいて城中に合図をしたところから、この名が付いた。
この櫓は、その昔、彦根山にあった彦根寺の桜門ではないかといわれ、門の両柱にある釘跡は、当時、巡礼が札をかけた釘穴跡だともいわれた。
しかし、昭和32年(1957年)の解体修理によって、この釘跡は移築前の建造物の痕跡であることが明らかになった。
現在、この建物の内部に全国各地の城の写真を展示している。

(彦根城の説明板より)




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