札幌護国神社

(北海道札幌市中央区南15条西5丁目1−1)


札幌護国神社 平成22年5月26日

札幌護國神社御由来

当神社は明治10年西南の役に屯田兵として殉死された御霊等を始め相次ぐ戦役の御英霊と従軍看護婦が祀られ戦後は殉難警察官、消防官の御霊等を相殿に御祭祀申し上げて居ります。
例祭日 毎年7月6日

札幌護国神社

(説明板より)

札幌護国神社 札幌護国神社
さざれ石




さざれ石






(平成22年5月26日)

さざれ石のいわれ

当神社々殿復興再建を記念し、北見市の亀井林右ェ門殿が奉納され今より3億年昔の古世層紀に入るもので、かつて海であった処より浮き出し陸となった時の一片と言われた石とされて居ります。

札幌護国神社

(説明板より)

寝牛石




寝牛石






(平成22年5月26日)

寝牛石のいわれ

この石は原住民アイヌ時代より寝牛石(ねうしいし)と言われアッツ島玉砕雄魂の碑建立記念として奉納された石である。

札幌護国神社

(説明板より)


彰徳苑




彰徳苑







(平成22年5月26日)

彰徳苑のいわれ

三笠宮同妃両殿下におかれては昭和60年6月7日当神社を御親拝になられた折 境内諸霊碑を巡拝されて 宮司 反橋 宏 協賛会長 松家利男の願いをいれられ特にこの聖域を彰徳苑と御命名下される
よってこれを記念し銘碑を建立する
昭和61年8月15日
札幌護国神社

(銘碑・碑文より)

案内板

北鎮砲兵発祥の地碑




「北鎮砲兵発祥の地」碑







(平成22年5月26日)

【碑文】

北鎮砲兵発祥の地
札幌市長 板垣武四 書

我が、野砲兵第七連隊の前身独立野戦砲兵大隊は、日清戦争の後、三国干渉によって国論沸騰の中に、明治廿九年十二月札幌の地に創設され、記念すべき北鎮砲兵の殷々たる砲声は石狩河畔に轟き渡った。
明治丗二年十月、連隊の整備開始により、同大隊はそのまま第二大隊と改称し、新たに第一大隊が編成された。
明治丗三年十月、兵営を旭川に移転し、同丗四年七月連隊本部が開設されて、その編成の完結をみた。
茲に、砲兵発祥の地に記念碑を建立し、ゆかりある哨舎の保存と共に、永く先人の偉勲を偲ばんとするものである。

昭和60年6月吉日
砲七会

(裏)
昭和60年6月吉日建立
砲七会
会長 松家利男
    会員一同

「誌」の碑


雲流るゝ涯に
散った
亡き戦友を偲んで
こゝに櫻を植樹する
入隊五十周年を記念して


(平成22年5月26日)

【碑文】(裏)

第十三期海軍飛行予備学生
在住北海道有志一同

(人名略)

平成5年5月13日

「鎮魂」の碑




「鎮魂」の碑


殉職看護婦慰霊碑




(平成22年5月26日)

【碑文】(表)

碑文

太平洋戦争末期の昭和20年8月、樺太はソ連軍の突然の参戦で大混乱となった。
恵須取町大平地区も16日未明の空襲で住民は一斉に避難した。
炭鉱病院看護婦23人も夕刻になって避難を始めたが、途中の武道沢でソ連軍に退路を断たれ、最悪の事態を予測した高橋婦長らは、17日未明に集団自決を図り6人が絶命した。
あまりにも悲しい事件であった。
以来、47年。
殉職者への思いを募らせる遺族や生存者、この事件を終生忘れてはならないとする元大平地区居住者らが発起人となり、ゆかりの人たちや王子製紙・十條製紙・本州製紙・神崎製紙の旧王子製紙系4社、その他関係団体の協力でこの碑を建立した。
ここに六姫命の御霊を祀り、永遠の鎮魂と祖国の限りない平和を祈念する。

平成4年7月11日
樺太大平炭鉱病院
殉職看護婦慰霊碑建立実行委員会

【碑文】(裏)

昭和20年8月17日
樺太恵須取町字武道沢に於自決
大平炭鉱病院看護婦殉職者

高橋 フミ 32才
石川 ひさ 24才
真田 和代 20才
久住 キヨ 19才
佐藤 春江 18才
瀬川 百合子 17才

歩兵第26聯隊軍旗奉焼之碑




歩兵第26聯隊軍旗奉焼之碑







(平成22年5月26日)

【碑文】

歩兵第26聯隊軍旗の沿革

明治33年12月22日 軍旗親授式 皇城正殿
 同年  12月26日 軍旗拝受式 旭川練兵場

大迫師団長より次の勅語が伝達された

勅語
歩兵第二十六聯隊ノ為ニ軍旗一?ヲ授ク 汝軍人等協力同心シテ益々威武ヲ宣揚シ 我帝国ヲ保護セヨ

太田聯隊長は次の如く奉答する
謹ンテ 明勅ヲ奉ス
臣等 死力ヲ竭シ誓ツテ国家ヲ保護セン

明治37年11月
同 39年 3月
日露戦争に従軍第3軍に属し赤坂山203高地奉天戦に参加
大正 6年 4月
同  8年 5月
満州派遣 北満に駐箚中シベリヤ事変に参加 
大正 9年 8月
同 10年 7月
満州派遣 サガレンに出兵
討伐 警備 治安維持 
昭和 9年 3月
同 10年 7月
満州派遣 満州事変に従軍
討伐 警備 治安維持
昭和13年 3月
同 15年 9月
満州派遣 支那事変に従軍
チチハルに駐屯
昭和13年5月〜6月 徐州会戦に参加
同年8月〜9月 長鼓峰事件に参加(※正しくは張鼓峰)
同14年6月〜9月 第二次ノモンハン事件に参加
同14年9月〜同15年9月 ハンダガイ附近の国境警備
昭和16年12月
同 20年 8月
大東亜戦争に従軍
昭和19年2月〜10月 北千島
幌莚島に進駐して同島の守備
同年10月 本土決戦に備えて道東地区の警備
同20年8月15日 ポツダム宣言を受諾
同年8月17日 極秘電により札幌月寒に移駐
同年9月10日 軍令により月寒神社境内において軍旗を奉焼

ここに光輝ある歩兵第二十六聯隊の終焉をつぐ

輝けるわれらが御旗のいさおしは
    平和のねがいこめてわすれじ
歴戦の強者どもが畏しこみて
    散りにし御旗ここに鎮まる

昭和61年9月14日
歩兵第26聯隊軍旗奉焼之碑建立期成会一同識

「札幌招魂社」の碑




「札幌招魂社」の碑


陸軍大将正三位勲一等功五級渡邉錠太郎



(平成22年5月26日)
頌徳碑




頌徳碑

元帥陸軍大将子爵川村景明書




(平成22年5月26日)

【碑文】

正五位勲三等功四級松本勝四郎君資性誠愨重厚夙任陸軍累進一等主計正退役後見舉帝國在郷軍人会會札幌區分會長淬勵多年誘掖會員造成鉅萬基本金加之盡世無進公益効績亦不尠可謂垂範當世流芳後■者矣今茲會員胥謀欲彰厥徳徴予文乃草之勤貞后云
大正十四年九月中浣
北海道帝國大學総長
正三位勲一等佐藤昌介撰

尼港殉難碑





尼港殉難碑






(平成22年5月26日)
アッツ島玉砕 雄魂之碑





アッツ島玉砕 雄魂之碑






(平成22年5月26日)

碑の由来

短きを何かなげかむ 君のため
       御国のために 捨つる命は
          (玉砕兵士の遺作)

大東亜戦争も苛烈の度を加えつゝあった昭和17年6月、日本軍はアリューシャン列島アッツ・キスカ両島を占領し、北方よりの米軍反攻に備えていたが、翌18年5月12日未明突如米軍は陸、海、空より2萬余の大軍を以てアッツ島を攻撃し上陸して来ました。
山崎保代大佐を長とする2千6百余名の守備隊は寡兵よく敵の猛攻を破砕して大いに日本軍の真価を発揮しました。
血闘すること十有八日残存兵力僅か百数十名となるに及び、5月29日山崎部隊長を先頭に敵陣深く突入し、鮮血孤島の残雪を彩り日本で初めて守備隊全員が玉砕したのであります。
嗚呼!!悠久の大義を絶叫し、鬼神をも哭かしむるその烈々たる愛国の至情こそは、千載に語りつがれるべき武人の華であります。
又アッツの雄魂がキスカの戦友撤収するに際し、其の行動を守護する数々の神秘を具現し奇跡の撤収を成功させたのであります。
かつての同僚相図りアリューシャン方面作戦に於て散華せる戦友の偉業を後世に伝え、国家の繁栄と世界平和に貢献すべく、ゆかりの地に碑を建て永く英霊を祀りその鎮座を祈念するものであります。

アッツ島玉砕雄魂之碑
        顕彰会一同識

附記
1.建立 昭和43年7月29日
2.慰霊祭 毎年5月下旬に行なわれています。
3.石材の種類
   碑石 神居古潭石 32屯
   台石 日高角閃岩 23屯

(碑文より)

アッツ島の石





アッツ島の石






(平成22年5月26日)

アッツ島の石

贈主  ジェームズ・D・ブッシュ氏(米国退役大佐)
協力者 ベンジャミン・B・タリー氏(米国退役准将)

アッツ島の戦斗に参加したブッシュ氏が、昭和44年札幌護国神社に参拝した縁で、其後同島を再訪し採集した石を、当時を偲び平和を願う日米両国民にとって、深い意味を持つ記念の品としてタリー氏の協力と日本航空(株)の好意により昭和63年5月送られて来たものである。

平成元年5月吉日
アッツ島玉砕雄魂之碑顕彰会
洲崎正巳 書

(碑文より)

ノモンハン英魂之碑




ノモンハン 英魂之碑







(平成22年5月26日)

【碑文】

碑文

昭和14年5月満蒙国境ノモンハン附近ニ紛争起ルヤ 当時北満ニ駐剳中ノ 我ガ第7師団ノ諸部隊ニモ出動ノ命令ガ下リ 6月以降逐次コノ戦闘ニ参加シテ 敵ノ機械化部隊ニ対シ勇戦奮闘 克ク守備ノ任ヲ果シ北鎮部隊ノ名声ヲ高揚シタリ
然レドモ肉弾体当リノ敢闘ハ停戦ニ至ル僅カ3ヶ月ノ間ニ 千五百有余名ノ戦友ヲ遠ク異境ノ地ニ散華セシメ 尚二千余名ノ将兵ガ傷ツクニ至レリ 噫
爾来年ヲ経ルコト 二十有八年我等生キ残レル戦友歳ト共ニ思慕ノ情切々タリ
此処ニ戦友相倚リ相図リ 特ニ遺族他各方面カラノ協力協賛ノモトニ之ノ碑ヲ建テ 永ク英魂ヲ祀リ其ノ鎮座ヲ祈念スルモノナリ

昭和42年9月16日
ノモンハン戦没将兵
慰霊碑建立期成会会員一同識

(碑文より)

【碑文】

英魂之碑由来

巍然としてまろやかに 威あって猛からず
在りし日の君を彷彿 護国の礎石となりて
御魂此処に鎮まる

ノモンハン事件は、旧満州国興安北省ホロンバイル草原ノモンハン地区において、満蒙国境線をめぐり、昭和14年5月11日から同年9月16日の停戦に至るまで、日満軍対ソ連モンゴル軍の双方が死力を尽した史上空前絶後ともいうべき凄愴なる肉弾戦であった。
第7師団将兵も6月20日より逐次これに参加し、3ヶ月に亘る戦闘で、不幸にも千五百有余名が遠く異境の地に散華したるは誠に痛恨慟哭の極みというべきである。
今や日本は平和国家として、世界に冠たる経済大国に成長したが、この陰には戦没者の尊い犠牲のあることを銘記すべきである。
さきに我々はノモンハン勇士の遺徳を偲び昭和42年9月16日英魂之碑を建立し、この度建碑20年に当り茲にその「由来碑」を建立するものである。

(ハルハ河をふりかえり一兵士が詠む)
うしろ髪ひかるる思いぞハルハ河
     戦友の遺体すがたを如何で忘れん

英魂之碑の構造及石材の種類
碑名揮毫 須見新一郎(元歩26連隊長)
正面巾 6メートル
奥行 5メートル
碑石 神居古潭系油石(自然石) 30屯
石垣 京都風石積み 角閃岩
階段 茨城県稲田産 白みかげ石
塀垣 研磨した 角閃岩
床石 十勝産 青みかげ石
台石 角閃岩(自然石) 25屯

昭和61年9月14日
ノモンハン英魂之碑顕彰会

(「由来碑」碑文より)

【碑文】

ノモンハン事件50周年の平成元年8月悲願の現地慰霊がかない、本道から慰霊団に参加された一行が遠く異境の地に眠る魂魄の安泰を願い、万里を越えて故国に持ち帰った砂を英魂之碑のもとに埋めて、とこしなえに鎮座を祈念する。

ノモンハン英魂之碑顕彰会識

(側碑・碑文より)

屯田兵招魂之碑





屯田兵招魂之碑






(平成22年5月26日)
忠魂碑



忠魂碑

希典





(平成22年5月26日)
彰徳苑 彰徳苑
彰徳苑
メレヨン島戦没者慰霊碑





メレヨン島戦没者 慰霊碑






(平成22年5月26日)
氏名碑




氏名碑






(平成22年5月26日)

碑録

昭和19年2月満洲を出発した関東軍第24師団の三阡三百の精鋭は釜山から門司に至り輸送船団を編成し台湾、パラオ、サイパンを経て同年4月9日ガム島に至るも同島を目前にした払暁米機動部隊の魚雷を受け指揮船松江丸以外の僚船は悉く炎上した。
昭和19年4月12日目的地メレヨン島に上陸し既に配備を完了していた海軍部隊と合流したが同月18日第1回の空襲を受け多数の戦死者を出し加えて兵器弾薬糧秣の殆どを失ひ爾来終戦迄連日の空襲を受けた。
この空襲以後すべての補給は断れ昭和19年末頃からは極度の食糧の不足により死亡者も急増し陸海合せて六阡八百と言はれた兵力も遂に五阡二百余の戦歿者を出し更に制空制海権をも失った同島は完全に太平洋上に孤立するに至り部隊としての編成は事実上その機能を失ひ昭和20年8月15日戦争終結となった。
翌9月15日現地において武装解除直に病院船高砂丸に乗船帰国の途につき同月26日大分県別府市に上陸翌10月7日部隊解散となる。
昭和39年末メレヨン島からの生還者少数によって北海道メレヨン会が結成され翌々年4月現地への墓参と遺骨の蒐集を計画し民間自費で北海道は平野春栄氏東京は小関信章氏大阪は沖中慶二氏が現地に出発翌5月現地での任務を終へて帰国した。
三氏は広島県福山に全国メレヨン会の建設した碑に納骨し続いて7月北海道地区は平野春栄氏の報告をかねて慰霊祭を行う。
北海道メレヨン会は昭和46年慰霊碑を建設をしたので我々は之を機会に遺族会を結成し、これまで長期にわたる生還者の厚意に依存してきたことに思ひをいたし氏名碑を建て慰霊碑の補足とし部隊の行動と現在までの経過更には壱阡四百十二名の戦歿者を後世に記録するためこの碑を建てる。

昭和49年9月22日
メレヨン島北海道遺族会
会長 藤枝義見

この碑に記録された者は昭和19年4月12日から昭和20年9月25日までの間にメレヨン島 又は船中において戦歿した者とし所属部隊及び氏名はすべて北海道庁の戦歿者台帖によって確認した
又留守家族が道内にあった者を原則としたが例外として遺族が道外から転入し申し出た者は記録した
碑の台座にある砂と貝殻は昭和41年5月代表者が現地から持ち帰ったものである

(「氏名碑」碑文より)

「氏名碑」前の防盾





「氏名碑」前の防盾






(平成22年5月26日)

【碑前の碑文】

米軍の反攻熾烈を極め食糧の危機その極限に達す
昭和20年1月当時メレヨン島守備隊長北村勝三少将が詠んだこの和歌は太平洋の防波堤として烈々たる斗魂と責務を示し全将兵の志気を鼓舞したものである
北村氏は戦後割腹自決をしてその生涯を遂げられる
右の防盾は昭和50年11月第三次遺骨収集派遣団員としてメレヨン島に赴いた富樫正雄氏が曽ていくさの庭であった南溟の同島であまた戦友の御遺骨と共に土中に埋れていたものを持帰りメレヨン島戦歿者遺族会が之を碑前に捧ぐ

北千島慰霊碑





北千島 慰霊碑






(平成22年5月26日)

【碑文】

千島列島ノ最北端ニ位置スル占守 幌莚ナド北千島ノ諸島ハ、大東亜戦争ニオケル本土防衛ノ北東方面第一線ニシテ コレヲ守ル第5方面軍第91師団ヲ基幹トスル陸海軍将兵及ビ民間産業戦士等ハ、北洋ノ孤島特有ノ酷烈ナル自然ノ重圧ト、戦況ノ悪化ニ伴ウ補給途絶ノ報告ニ耐エツツ 長期ニ亘リテ志気些カモ衰エルコトナク、迎撃ノ闘魂ニ燃エテ防衛任務ヲ遂行セリ。
然乍ラコノ間ニオイテ、或イハ空中戦ニ、或イハ米軍ノ艦砲射撃ヤ空爆、輸送中ノ雷撃ヤ疾病等ニヨリ 任務ニ殉ゼル者モ、ソノ数少ナカラズ。
昭和20年8月18日未明 時既ニ終戦ノ大詔ハ煥発サレ全軍矛ヲ収メタル後ナルニ、突如、ソ連軍ハ猛烈ナル砲爆撃ノ支援ノモト、全北千島占領ノ企図ヲモッテ、占守島国端ノ竹田浜ニ攻撃シ来レリ。
予期セザル奇襲ニ対シ自衛ノタメ直チニ反撃ニ立テル我ガ軍ハ、激闘数時間ニシテ敵ニ壊滅的打撃ヲ与エテソノ行動ヲ頓挫セシメ、更ニ敵ヲ一挙ニ水際ニ殲滅スルノ態勢ニ至レルモ、軍命令ニヨリ、同日16時攻撃ヲ停止、停戦協定ヲ締結シ、23日武装ヲ解ク コノ戦闘ニオケル我ガ軍ノ戦死約7百名ナリ。
コノ後 全将兵ハソ連領内ニ抑留サレ、酷寒ト飢餓ト恥辱ノ境ニ彷徨シツツ強制労働ニ服スルコト数歳、遥カニ祖国ヲ望ミナガラ非命ニ倒ルルモノ多キハ、痛恨ノ極ミナリ。
戦後時移リテ三十星霜 未ダ戦跡ヲ訪ネテ弔ウヲ得ズ、シカモ北千島戦史ノ世ニ埋没シユクヲ悲シム。
茲ニ戦友遺族相倚リ、殉国ノ英霊神鎮マリマス札幌護国神社ノ境内ニ碑ヲ建テ、ソノ武勲ヲ讃エテ、英魂ノ永遠ニ安ケキヲ祈念スルモノナリ。

昭和50年8月23日
北千島関係戦歿者慰霊碑建立者 識

碧血留魂 北千島 占守島 四嶺山の石





碧血留魂 北千島 占守島 四嶺山の石






(平成22年5月26日)
南方地域戦死者慰霊碑




南方地域戦死者慰霊碑

北海道連合遺族会 会長 町村信孝




(平成22年5月26日)

碑文

先の大戦より戦後六拾有余年経た今日、皇国の防人として灼熱の南洋の地に於いて椰子の葉陰に南十字星を仰ぎつつ祖国の山河を夢まで見つつ、散華され、洵に痛恨極まりなし。
南方戦線従軍全戦死者諸英霊の勇戦敢闘滅私奉公の事蹟の尊き礎の上に日本の平和がある。
天命の定めにより、ニューギニア帰還兵の卒寿の齢の一古老特にパプアニューギニア方面に生死を共にせし三百八十名の戦友の無念を思う。
全戦死者に万感の想いを致し、鎮魂の誠を捧げ、恒久平和の願いを建碑にこめ後世に遺すものである。

平成21年10月吉日
建立者 伊藤義顯


遺品殿

この遺品殿に納まっている品々の多くは、旧札幌歩兵25連隊歴史記念館の陳列品の一部で、当時連隊は樺太に移駐していたが、8月9日ソ連軍の参戦により 記念品は連隊の歴史を物語る貴重な資料であるため 梱包して終戦後 稚内の宗谷要塞司令部に送り届けられた。
しかし、その後行方不明となり23年後の昭和43年秋、札幌護國神社で発見されたのである。
その間にあっては先々代宮司が管理されていて、先代宮司反橋宏氏によれば、「終戦後 神社として軍事に関する所有が困難な時代があった為」であることが判明された。
しかし、誰が持ち込んだかは 今に至るも一切不明なのである。
陳列品として、歩兵25連隊初代連隊長渡辺大佐の軍服を始め、日露戦争着用の軍服、乃木大将の感状、征露記念寄書、山海関の戦闘で戦死した児玉・吉田両大尉血染めの軍服。
ノモンハン事件で戦死した金野・小野大尉の血染めの軍服等々、歩兵第25連隊関係の数多くの遺品、記念品を展示しており、他にも、海軍戦没将兵の遺品や記念品、アッツの小石、ノモンハンの桜とハイラルの砂、沖縄戦場の電線、硫黄島の砂、サイパン島の砂と小石、ノモンハンにて採集した戦没将兵の遺品・北千島占守島関係等々ほか、当時の写真多数を展示してある。
現在は彰徳苑を守る会が運営管理し、彰徳苑みたま祭りや例大祭の際には一般開放もしているので、ぜひ一度見学し 先人たちの偉業を偲び、英霊たちの犠牲の上に 現在の平和が築かれている事 身をもって体験していただければ幸いである。

札幌護國神社 彰徳苑を守る会

(解説チラシより)

遺品殿展示品 遺品殿展示品
遺品殿展示品 遺品殿展示品


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