平成20年6月18日
明治6年(1873年)9月26日〜昭和10年(1935年)1月26日
大阪市北区・大阪市立東洋陶磁美術館前でお会いしました。
静岡県出身。
大正3年(1914年)大阪市助役となり、大正12年(1923年)から市長。
都市政策に力を注ぎ、市営住宅をはじめ公共事業を充実させた。
都市計画を重視し、大阪市政の黄金時代を築く。
昭和3年(1928年)には大阪商科大学を設立する。
関一像 (大阪市北区・大阪市立東洋陶磁美術館前) (平成20年6月18日) |
碑文
関市長顕彰碑
わが大阪市が戦後再建のことに力を致して一意復興の年輪を加えつつあるとき たまたま 故市長関一博士の二十周忌に際会し 往時を追憶して敬慕の情やみがたく ここに記念の像を建ててその偉業を顕彰し 遺徳を後世に伝える栞といたします
博士は 大正3年7月迎えられて助役の任に就き 同12年11月選ばれて市長第7代の職に当り 爾後3選を重ねて 昭和10年1月関西風水害の復旧に奔走中はからずも病を得て63年の生涯を終るまで 実に20年余の長きにわたって 謹直精苦 この大大坂を育成することに その深い学殖と博い見識とを傾け尽くされたのであります。
大正から昭和の初めにかけての大阪は 第一次大戦を機縁として急速な発展をたどり 近代都市としての態勢を整うるに絶好の機会を迎えました
この時にあたって博士のような明達の士を得て 躍進する市勢に向かうべきところを示すことができましたのは 市民にとってまことに仕合せであったと言わねばなりません
博士の業績は枚挙にいとまありません
市域の拡張を断行し 都市計画を樹立して 近代都市大阪の基礎をつくりました
市民病院市民館など社会事業の創設拡充につとめました
美術館の建設に着手し 大阪城天守閣を再建して 文化都市の面目を整えました
学区を廃止して義務教育の機会均等をはかり 商科大学を開設して市立大学制度の基礎を築きました
また 中央卸売市場を設け 築港計画を拡張し 市営バスを創めるなど およそ今日の大大坂に見る市営事業の根幹は おおむね博士の経綸に出ずるものであります
御堂筋を飾るいちょう並樹の美しさも その下を通る地下鉄の便利とを考えてみるだけでも 博士の高邁なる識見と果断な実行■■■
今なお生けるが如く市民の眼前に浮び■■■てまいります
わが大阪が今日の大をなし得たのは 長■歴史に培われた自由の精神と古い伝統に養われた実践力行の美風によるものでありますが また市民とこれを代表する市会の博士に対する信頼が市政の運営に不動の基盤を築いたことを忘れてはなりません
大阪市民がその最も必要とする時期において学徳ともに優れた関市長を得たことは われわれの喜びとして永久に銘記すべきであろうと思います
故大阪市長関一博士遺徳顕彰会
建■ 昭和31年(1956)6月
※ 碑文の周りに植栽されていて碑文が葉に隠れているため読みづらい状態でした。
■は葉に隠れていて読めなかった文字です。
読んでもらえないような状態にしておいては顕彰の目的に反しているような気がしますが・・・
大阪市立東洋陶磁美術館 (大阪市北区中之島1−1−26) (平成20年6月18日) |
【陸軍第4師団の移転】
昔も今も大手前は、大阪における政治と文化の要所である。
東向きに大阪府庁が建ち、北隣に大手前女学校、その前を市電が通り、向こう側に第4師団が蟠踞ばんきょしている。
厄介な存在であったその第4師団を後方の東の奥の方へ、しぶしぶ引きこませた辣腕の政治家がいた。
空前絶後の傑物けつぶつとして今に至るも愛惜されている関一市長である。
関市長は抜群の政治感覚で、泣く子も黙る怖い陸軍に、否も応もなく移転させる妙案を考えた。
昭和天皇の即位大典を記念するため、大阪市民の浄財を集めて大阪城を再建し、周囲を市民憩いの場として公園にしたいから、現在地より東へ退いていただきたい。
御大典記念、この微妙な大義名分の申し立てには、さすが肩で風切る師団長も絶対に逆らえない。
こうして今日の大阪城とそれを取り囲む広い公園が生まれた。
(参考:『歴史街道 2006年7月号』)
(平成23年11月10日追記)
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