関鉄之介 せき・てつのすけ

文政7年10月17日(1824年12月7日)〜文久2年5月11日(1862年6月8日)


水戸藩士・関新兵衛昌克の長男。
安政2年(1855年)に家督を継ぎ郡方勤となり、農兵の組織化に努めた。
水戸藩に密勅降下後、金子孫二郎・高橋多一郎の内意を受け、西国を遊歴して奉勅義挙を説く。
安政の大獄を憤り井伊直弼暗殺を企て、桜田門外で実行した。
事件後西国に逃れるが、幕吏の追及厳しく、越後国岩船郡湯沢村で捕えられ、江戸伝馬町で処刑された。
享年39歳。


櫻田烈士愛宕山遺蹟碑



櫻田烈士愛宕山遺蹟碑
(東京都港区愛宕1−5−3・愛宕神社)





(平成18年7月25日)

碑文

此の地は萬延元年3月3日昧爽水戸藩士斎藤監物 関鐵之介 佐野竹之介 黒澤忠三郎 大関和七郎 廣岡子之次郎 山口辰之介 森五六郎 岡部三十郎 鯉淵要人 稲田重蔵 杉山彌一郎 蓮田市五郎 森山繁之介 廣木松之介 増子金八 海後磋磯之介 薩摩藩士有村次左衛門等天下ノ為ニ幕閣 大老井伊直弼ヲ斃サントシテ勢揃ヲ為セル處ナリ
■■櫻田事變ナルモノハ■■ノ志士協力シテ井伊大老ヲ斃シ後直チニ京都ニ結集シ 至■■奉シテ天下ニ大義ヲ唱ヘントシタルモノナリ
金子孫次郎 高橋多一郎■ニ領首ハ機ヲ逸セス京阪ニ赴キシモ事ハ齟齬シテ■兵■■ス
終ニ金子ハ京都伏見ニ捕ヘラレ高橋ハ其ノ子庄左衛門ト共ニ大阪四天王寺ニ■■ス
然リト雖モ斯ノ一擧遂ニ克ク三百年ノ幕府政治ヲ倒壊セシメ以テ■政維新皇国興隆ノ新體制■招来スヘ■導火線タルノ偉功ヲ樹タリ
然ルニ世人櫻田門ノ史蹟ヲ知ルモ事前ニ於ケル烈士愛宕山上勢揃ノ事蹟ニ■■テハ■■トシテ之ヲ識ル者ハ殆ト殊ナリ
吾人其ノ遺蹟ノ■滅ニ歸セントスルヲ慨シ此ニ碑ヲ建テ来者ニ■クルアラントス

皇紀二千六百一年三月三日 建之
櫻田烈士遺跡顕彰會長 三木哲次郎
故貴族院議員 室田■之
貴族院議員 徳富■一郎
財団法人多摩聖蹟記念會長 長尾欽■
芝區■志 茂又四郎■
同 茂又幸雄
大東文化學院教授文學士正四位 峰間信吉
金子孫次郎孫法學士 金子榮一

※ ■は判読不可の文字です。

愛宕神社



愛宕神社
(東京都港区愛宕1−5−3・愛宕神社)





(平成18年7月25日)

愛宕神社由緒

当社は徳川家康公が江戸に幕府を開くにあたり江戸の防火・防災の守り神として将軍の命を受け創建されました。
幕府の尊崇篤くご社殿を始め仁王門、坂下総門等を寄進され、祭礼等でもその都度下附金の拝領を得ておりました。
また、徳川家康公のご持仏「勝軍地蔵菩薩」(行基作)も特別に祀られております。(非公開)
江戸大火災、関東大震災、東京大空襲の度に焼失しましたが現存のご社殿は昭和33年再建されました。
寛永11年3代将軍家光公の御前にて、四国丸亀藩の曲垣平九郎盛澄が騎馬にて正面男坂(86段)を駆け上り、お社に国家安寧の祈願をし、その後境内に咲き誇る源平の梅を手折り将軍に献上した事から日本一の馬術の名人として名を馳せ「出世の石段」の名も全国に広まりました。
万延元年には水戸の浪士がご神前にて祈念の後、桜田門へ出向き大老井伊直弼を討ちその目的を果たした世に言う「桜田門外の変」の集合場所でもありました。

(説明板から抜粋)


外桜田門遠景




外桜田門遠景

江戸城




(平成18年5月25日)
外桜田門




外桜田門






(平成18年5月25日)
桜田門・櫓門




桜田門・櫓門






(平成18年5月25日)

十思公園


十思公園
(東京都中央区日本橋))

伝馬町牢屋敷跡




(平成17年11月13日)

傳馬町牢屋敷跡
所在地 中央区日本橋小伝馬町1の5先
所有者 東京都(中央區)
地積 13.45坪(22尺四方)
右を東京都史蹟に指定する。
昭和29年11月3日 東京都教育委員會

伝馬町牢は慶長年間、常盤橋際から移って明治8年市ヶ谷囚獄が出来るまで約270年間存続し、この間に全国から江戸伝馬町獄送りとして入牢した者は数十万人を数えたといわれる。
現在の大安楽寺、身延別院、村雲別院、十思小学校、十思公園を含む一帯の地が伝馬町牢屋敷跡である。
当時は敷地総面積2618坪、四囲に土手を築いて土塀を廻し南西部に表門、北東部に不浄門があった。
牢舎は揚座敷、揚屋、大牢、百姓牢、女牢の別があって、揚座敷は旗本の士、揚屋は士分僧侶、大牢は平民、百姓牢は百姓、女牢は婦人のみであった。
今大安楽寺の境内の当時の死刑場といわれる所に地蔵尊があって、山岡鉄舟筆の鋳物額に「為囚死群霊離苦脱」と記されてある。
牢屋敷の役柄は牢頭に大番衆石出帯刀、御■場死刑場役は有名な山田浅右エ門、それに同心78名、獄丁46名、外に南北両町奉行から与力1人月番で牢屋敷廻り吟味に当たったという。
伝馬町獄として未曾有の大混乱を呈した安政5年9月から同6年12月までの1年3ヶ月の期間が即ち安政の大獄で吉田松陰、橋本佐内、頼三樹三郎等50余人を獄に下し、そのほとんどを刑殺した。
その後もここで尊い血を流したものは前者と合わせて96士に及ぶという。
これ等愛国不盡忠の士が石町の鐘の音を聞くにつけ「わが最期の時の知らせである」と幾度となく覚悟した事であろう。

昭和29年11月
江戸史跡保存協賛會
平成2年3月公園整備に伴い由来板を作り直しここに設置するものである。
中央区土木部公園緑地課

(説明板より)

※ ■はパソコン上で表示不可能な文字です。

伝馬町牢屋敷跡



伝馬町牢屋敷跡
(十思公園)





(平成17年11月13日)

都旧跡 伝馬町牢屋敷跡

所在 中央区日本橋小伝馬町1丁目5番地先
指定 昭和29年11月3日

江戸の牢屋敷は慶長年間(1596〜1615)常盤橋外からこの小伝馬町に移転した。
代々大番衆の石戸帯刀が牢屋敷預りに任命されており、管理していた。
そして、明治8年(1875)5月廃止されるまで存続していたものである。
「御府内備考」の記録によれば、その規模の広大であったことがわかる。
すなわち、面積は2,618坪(8639.4平方メートル)あり、さらに、これの敷地の四方を堀でめぐらしていた。
南西部に表門があった。
獄舎は、揚座敷、揚屋、大牢および女牢部屋に分かれ、明暦3年(1657)の収容囚人は130人であり、安政大獄(1859)には吉田松陰ら90余名が収容されたこともある。

昭和44年10月1日 建設
東京都教育委員会

(説明板より)


関鉄之介の墓



贈従四位關鐡之介墓
(茨城県水戸市松本町13−34・常磐共有墓地)





(平成20年6月30日)



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