仙台城 せんだいじょう

(青葉城)

宮城県仙台市川内


 平成21年11月9日

仙台城

伊達氏以前の城については、古城があったことは間違いないが、何氏の居城かは不明。
島津陸奥守、あるいは結城七郎朝光がいたという説もあるが、確かなことは、文治元年(1189年)、源頼朝の奥州藤原討伐のさい、千葉五郎胤通に宮城郡国分三十三郷を賜ったことである。
千葉胤通が奥州国分氏の始祖となったが、のち彦九郎盛重に至って、豊臣秀吉の奥州征伐の際に所領を没収され、天正18年(1590年)伊達氏の家臣となって松森城に移っている。
おそらく、伊達政宗築城以前の古城は、この国分氏に属していたのではないかという説が、もっとも妥当性が高いようである。

伊達政宗は豊臣秀吉によって移封されると、一旦、岩出山城に入ったが、この城は領内のやや北寄りにあり、60余万石の政治的中心地としては規模も狭小にすぎた。
したがって、政宗には早くから移城の志はあったが、秀吉没後の天下の形勢からみて到底踏み切れず、関ヶ原の
戦い後まで決行の時期を延ばしていた。
新城の候補地としては、榴ヶ岡、大年寺山、石巻も挙がったが、結局、仙台に決定した。
慶長5年(1600年)11月、徳川家康の許可状を受ける。
翌6年12月に縄張りを行ない、慶長7年5月に完成。
家中の移転が終わったのは城下町が出来上がった慶長8年8月である。
しかし、この時の仙台城は山城で、治政のためにはかなり不便だったと思われる。
2代・伊達忠宗になると、二の丸が増築されて山頂の本丸から居館を移している。
二の丸は寛永15年(1638年)に縄張りを行ない、翌16年に完工しているが、この時以後、仙台城は平山城となる。
本丸には、政宗が慶長15年に完成した御殿があったが、その大広間は代表的な桃山書院造りで、俗に千畳敷と呼ばれた。
また、帝座の間を設けた例は仙台城のみである。
本丸内の小山は天守台と呼ばれ、五層の天守閣を築く予定であったが、遂に実現しなかった。
二の丸には能舞台などがあり、代々城主の居館であったが、文化元年に焼失。
文化6年に再建し、維新後も生き延びていたが、明治15年9月、火災で失われた。
昭和20年の空襲で失われた大手門は、堂々たる楼門で、菊桐紋が金色に輝いていたが、伝えによると、秀吉から与えられた肥前名護屋城の城門を船で運び、後水尾天皇から賜わった紋章を掲げたものだというが、時間から考えてこの伝えは疑わしい。
維新の際、伊達慶邦は、奥羽列同盟の盟主として官軍に抗したが、結局降伏し、仙台城(青葉城)にはのちに鎮台が置かれた。

(参考:大類伸監修 『日本城郭事典』 昭和45年発行 秋田書店)


三の丸・堀跡




三の丸・堀跡






(平成21年11月9日)

【三の丸・堀跡】

三の丸は、江戸時代の城下絵図には「蔵屋敷」「御米蔵」「東丸」などとも記載され、米蔵のような藩の年貢米などを貯蔵する場所として用いられたと考えられる。
「奥州仙台城絵図」(1645年)によると、その規模は東西約144m、南北約117mで、周囲には大規模な堀と土塁が巡らされていた。
発掘調査により、初代藩主伊達政宗の時代には、庭園や茶室を伴う屋敷があったことが明らかになった。
現在は仙台市博物館が建っている。
北側にある五色沼は堀の一部にあたり、明治23年(1890)頃から外国人がこの場所でスケートをはじめ、後にその指導を受けた学生が日本で初めてフィギュアスケートをした場所とされている。

(説明板より)

子ノ門跡

仙台城三の丸 子ノ門跡

現在仙台市博物館敷地内の出入口となっているこの場所には、木造二階建・瓦葺の門が立っていた。
正保の城下絵図(「奥州仙台城絵図」、(財)齋藤報恩会所蔵)では「子ノ方門」と見える。
三の丸への北側の出入口である。
現在も石垣が左右に残っており、往時をしのばせるが、この石垣は昭和に入り修理されている。

(説明板より)

東側土塁跡




東側土塁跡






(平成21年11月9日)

仙台城三の丸・東側土塁跡

三の丸の地は、堀と土塁とで堅固に囲まれていた。
土塁は正保の城下絵図(「奥州仙台城絵図」、(財)齋藤報恩会所蔵)では、「岸」「土手」などと記されている。
博物館建設の際の整地によって見た目は低くなっているが、江戸時代には高さが2間(約3.6m)あったと伝えられる。
土塁の高さは場所によって異なり、南の巽門脇は高さ5間(約9.0m)、北の子ノ門脇では7間半(約13.5m)もの高さがあった。

(説明板より)

仙台市博物館



仙台市博物館(三の丸・蔵屋敷跡)
(宮城県仙台市青葉区川内26)





(平成21年11月9日)
三ノ丸 巽門跡

三ノ丸巽門たつみもん

藩政時代初期の絵図には「蔵屋敷くらやしき」と記されている三ノ丸(東丸)には二ヶ所に門があった。
北側出入口が子の門で、南東側が巽門たつみもんである。
巽門は大手門や脇櫓わきやぐらとともに戦災まで残っていた数少ない建造物のひとつで、昭和59年に実施された発掘調査で建物の礎石14個や雨落溝あまおちみぞなどが検出され、翌年その成果をもとに門の跡の復原整備を行なった。

(説明板より)


酒蔵跡




酒蔵跡






(平成21年11月9日)

仙台城酒蔵跡

この地は、慶長13年(1608)に大和国(奈良県)から伊達政宗公が招いた榧森(かやのもり)又右衛門(1562〜1641)が酒蔵と屋敷を与えられ、酒造りを行ったと伝えられ、江戸時代を通じて酒蔵が置かれていた。
又右衛門は仙台城内詰の御酒御用を命じられ、苗字帯刀も許されていたという。
酒造りには、この付近にある「清水門」の名前の由来となっている湧き水が用水として用いられた。
寛永5年(1628)に政宗公が若林城(現在の宮城刑務所)に移ると、又右衛門もそれに従い、若林で酒造を続けた。
榧森家は、初代又右衛門から幕末・明治期の12代孝蔵にいたるまで、江戸時代を通じて仙台藩の御用酒屋をつとめ、ぶどう酒、みかん酒、びわ酒、みりん酒なども造ったと伝えられている。

 (説明板より)

仙台藩御用酒発祥の地碑




「仙台藩御用酒発祥の地」碑






(平成21年11月9日)

仙台藩御用酒発祥の地

仙台藩祖伊達政宗公は慶長13年(1608年)柳生但馬守宗矩の仲介により大和の榧森かやのもりの又五郎を仙台に召下し、榧森の姓と、切米10両、10人扶持を給し、清水門の南側御太鼓部屋下に自ら地を相し縦16間、横5間の酒蔵を建て、御城御用御酒屋ごしゅやと称した。
酒造用水にはこの附近の清泉が使われた。
榧森家は初代又五郎より12代孝蔵に至るまで仙台城御酒御用を務め、その醸造する酒は夏氷酒、忍冬酒、桑酒、葡萄酒、印籠酒など20余種にも及び仙台領内の酒類醸造に多くの影響を与えた。
以来仙台藩に於てはいわゆる町酒屋と御用御酒屋とが競い合い酒類醸造技術の向上と藩の経済に大いに貢献した。
御酒蔵跡と名水の湧出する地は宮城県産清酒の源流の地である。

(碑文より)

清水門跡




清水門跡






(平成21年11月9日)

清水門跡

三ノ丸と沢の曲輪くるわの境目にあたる門で、正保年間(1644〜47)の城絵図(下図)では入母屋造屋根、二階建ての楼ろう門となっているが、創建年代や変遷は不明である。
清水門の名は仙台藩の御用酒づくりに利用された清水が右脇にあることにちなむ。

(説明板より)

沢門跡




沢門跡






(平成21年11月9日)

沢門さわのもん

仙台城には、門や曲輪くるわ(防御のために土塁どるい・土塀どべいなどで囲んだ区域)が、複雑に設けられていた。
沢曲輪さわのくるわと中曲輪なかのくるわをつなぐ現在地には沢門さわのもんがあった。
沢門は平屋建てで、屋根は切妻きりづま、瓦葺かわらぶきであった。

 (説明板より)






懸造跡
かけづくりあと




(平成24年6月2日)


仙台城及び江戸上屋敷主要建物姿絵図(本丸懸造部分)

懸造跡かけづくりあと

懸造かけづくり建物は、仙台城本丸東辺の艮櫓うしとらやぐらと巽櫓たつみやぐらの間に位置している。
およそ、現在の土井晩翠歌碑の南東付近と推定される。
崖に突き出した数寄屋風すきやふう書院造りの建物で、『仙台城及び江戸上屋敷主要建物姿絵図』でその様子を知ることができる。
構造は京都の清水寺きよみずでら本堂の舞台に類似している。
初代藩主伊達政宗の頃より記録にある建物で、眺望を活かして賓客の接待に使われた。
安永4年(1775年)の記録によれば、長さ九間半(約19m)、横三間(約6m)の規模であった。
懸造は伊達家の建物に特徴的で、戦国時代に伊達氏の居城があった米沢城の庭園にも「御かけつくり」と称する建物があったと伝えられている。

(説明板より)

(案内板)


本丸北壁石垣

本丸北壁石垣

平成9年から16年にかけての石垣解体修復工事に伴う発掘調査により、本丸北壁の石垣は、伊達政宗による築城後、二回の大規模な修復が行われ、三時期の石垣が重複していることが明らかになった。
T期の石垣は慶長6年(1601)政宗築城期に築かれたもので、旧地形を利用しながら山の斜面を切り崩し、盛土を最小限にして整形した緩やかな勾配に自然石を積んだ野面積のづらづみの石垣であった。
U期の石垣は元和げんな2年(1616)の地震でT期の石垣が崩壊した後に築かれた。
T期石垣の残存部分を解体、または背面の盛土内に埋め込んだうえで、より大きな石材を使用して築かれていた。
V期の石垣は正保しょうほう3年(1646)と寛文かんぶん8年(1668)の二度の地震を経て築き直された石垣で、度重なる地震に耐え、300年以上も持ちこたえた切石積きりいしづみの石垣である。

 (説明板より)

石垣解体修復工事に伴う発掘調査と解体修復工事以前の石垣[写真左下]の様子(本丸跡北東部)。
赤丸部分は同じところを示す。

(説明板より)

本丸跡




本丸跡






(平成21年11月9日)

仙台城本丸跡

仙台城の本丸は海抜115〜140mの丘陵性台地に立地し、東西約243m南北約265mの広さがあって、他の城郭の本丸と比較すればかなり大きい方である。
東と南は断崖、西は御裏林おうらばやしと呼ばれる深い原生林で守られ、すぐれた防御性をもっていた。
慶長6年(1601)の工事着手から大広間の完成する慶長15年(1610)まで約10年でほぼ全容が整い、天守閣はつくられなかったが大広間を含む広大な御殿、5ヶ所の櫓やぐら、大手門に匹敵する規模を有する詰つめの門などのほか、御懸造おかけづくりと呼ばれる崖に突き出た数寄屋風書院、能舞台などすぐれた建築群が偉容を誇っていた。
しかし二代藩主忠宗による二ノ丸造営後は次第に実用性を失い、明治維新後まもなくすべての建物が取り払われた。

 (説明板より)

仙台城城下絵図(部分)
寛文4年(1664)に製作された絵図で本丸御殿が立体的に描かれているのが注目される。(宮城県図書館所蔵)

詰ノ門跡




詰ノ門跡






(平成21年11月9日)

詰ノ門つめのもん

仙台城本丸は、東側が広瀬川に臨む断崖であり、西側を青葉山(御裏林)、南側を竜ノ口峡谷が囲むという天険の要害となっている。
この北側には石垣が築かれ、登城口が設けられていた。
詰ノ門はこの入口に建てられた門で、正保の城絵図によると二階建・瓦葺で、棟の両端に鯱が載っていた。
左右の石垣間の距離は約19.5m(65尺)で、大手門と同じ幅(桁行)を持つ。
門の左右(東西)には三重の脇櫓(東脇櫓・西脇櫓)が築かれていたが、正保3年(1646年)の地震で倒壊した。

(説明板より)

 (案内板より)

仙台城の歴史

仙台城は初め千体城、後に千代城と称し、鎌倉時代の末から室町時代の中頃にかけて島津氏が陸奥守として居城したといい、室町時代の末頃には国分荘の国人国分氏が一時居城したともいい伝えられているが明らかでない。
豊臣氏の頃、後の仙台藩祖伊達政宗公は天正19年(西暦1591年)以来58万石を領して玉造郡岩出山城に在ったが、慶長5年(西暦1600年)関ヶ原の戦いに徳川家康を助け、石田三成と呼応した会津の上杉景勝をさく牽制し家康をして二正面同時作戦の不利を回避させた功により新たに刈田郡を増加、仙台60万石(後ち近江、常陸で2万石増加)に封ぜられた。
この時政宗公34才、大いに工を起して仙台城を築城、同時に戸数1万8百人口5万2千の城下町を開いた。
二代忠宗に至って二ノ丸、三ノ丸を造営し、62万石の雄藩にふさわしい城郭を完成した。
かくして仙台城は藩祖以来伊達氏、13代270年にわたり1度も戦火を被らなかった平和な城として郭内の殿舎、楼櫓を完全に保存して明治時代に至ったが、心無き俗吏によって破却せられ、あるいは火を失し、戦災に罹りなどして全滅に帰した。
尚本丸の地は仙台七崎の一つ青葉ヶ崎で仙台城の俗称を青葉城とよぶのはこのためである。

宮城縣護國神社

(説明板より)

 (案内板より)

本丸跡から見た景色 本丸跡から見た景色

本丸跡




本丸跡






(平成21年11月9日)
本丸跡



本丸跡
(宮城県護国神社)





(平成21年11月9日)
埋門跡




埋門跡






(平成21年11月9日)

埋門うずみもん

本丸の南側出入口となるこの場所には、正保の城絵図によると、平屋建・瓦葺の門が建っていた。
この門は西側を向き、侵入者を入口で二折させる防御性の高い構造となっており、かつては石垣も残っていた。
ここを過ぎると、桃山様式の大広間、大台所、遠侍、御座ノ間、書院などの殿舎群や、広瀬川を見下ろす断崖に張り出した懸造などがあった。
また、本丸の外周部には、石垣・多聞長屋・土掘・木柵などを巡らし、その上には詰ノ門や酉ノ門、艮櫓などの4基の三重櫓、二重櫓なども築かれていた。

(説明板より)


中門跡




中門跡






(平成21年11月9日)

中門なかのもん

中門は、大手門から本丸に至る道の途中に設けられていた二階門で、寅とらの門とも称された。
江戸時代に作られた姿絵図には入母屋造いりもやづくりで、桁行は6間、梁間3間に描かれている。
大正9年(1920)に老朽化のため解体された。
解体の際に作成されたという平面図が残されており、一階正面の桁行が46尺4寸余(約14.1m)、側面の梁間が18尺(約5.5m)であったことが分かる。
平成15年5月の地震で南側の石垣の一部が崩れたため、平成17年にかけ、解体修復工事が行われた際、多数の金箔瓦が出土している。

(説明板より)

 (説明板より)

大手門脇櫓

大手門脇櫓おおてもんわきやぐら

脇櫓は大手門の南側に配置され、一階が「L」字形となり、角の部分に二階を載せている。
建物は壁や柱を白漆喰しろしっくいで塗り込める、総白壁造しらかべづくりとなる。
屋根は入母屋造本瓦葺いりもやづくりほんかわらぶきである。
一階の東西方向の桁行が54尺1寸(約16.4m)、南北方向39尺(約12m)、高さ約11.5mで、大手門に比べてやや規模が小さい感があり、建築年代なども不明である。
昭和20年(1945)7月の仙台空襲により、大手門とともに焼失した。
現在の建物は昭和40年(1965)に木造モルタル漆喰仕上げで復元された。

(説明板より)

 (説明板より)

大手門跡
大手門跡




大手門跡






(平成21年11月9日)

大手門跡

仙台城大手門は素木造二階建、屋根は入母屋本瓦葺である。
桁行が65尺(約19.7m)、側面の梁間が22尺3寸(約6.8m)、高さは約12.5mと全国的に見ても規模の大きな城門であった。
両脇と裏面は漆喰壁で禅宗様の火灯窓かとうまどを持ち、正面冠木かぶきに菊と桐の金箔押の飾金具をあしらい、棟に鯱瓦しゃちがわらを頂いていた。
脇櫓とともに国宝に指定されていたが、昭和20年(1945)7月の仙台空襲により焼失した。
門の北東には「多聞塀たもんべい」と称される桟瓦葺さんかわらぶき、漆喰塗の土塀が石垣の上に配されている。
高さは約1.5mで、東西方向に約22m延び、北に折れて約14.5m続く。
この土塀は空襲で焼け残ったもので、屋根や壁などは補修されているが、仙台城内に現存する唯一の建物である。

(説明板より)




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