戦艦 榛名 はるな


榛名・慰霊碑



榛名 慰霊碑

(長崎県佐世保市・佐世保東山海軍墓地





(平成20年11月23日)

建立の記

忠誠を誓い熾烈なる愛情を捧げた国家そしてこの象徴こそ我等が戦艦榛名であった
平時にありては海上兵力主力の一艦として重きをなし 昭和16年12月大戦開始と共に佛印及びボルネオの上陸支援作戦を緒戦として 南支那海遠くは印度洋を制圧 更にその高速を利して急遽中部太平洋ミッドウェー海戦と息つく暇なき連戦であった
そして南太平洋 就中ソロモン群島要衝を巡る彼我の攻防は今次戦局の帰趨を決するとして凄絶を極めた
10月半ば第3戦隊榛名、金剛は敵拠点ガダルカナル島挺身攻撃の命下る
暗夜漆黒の海ソロモンの島を縫って目的地に近接 ガ島飛行場に対し榛名は実に36糎主砲483発、副砲21発の砲弾を浴びせ三斉射目にして天をも焦す大爆発誘爆を起し 一面火の海と化せしむる大任を全うした
戦況次第に緊迫の度を深め南太平洋海戦・ア号作戦と南北半球を往復すること幾度か その神出鬼没の行動と沈着果敢な奮戦は大いに敵を震撼せしめたのである
昭和19年10月 日本海軍がその命運をかけた捷一号作戦の令下るや 直ちにブルネイの基地を出撃した我等主力は比島ミンドロ島北方より海峡を東進する
制空権既になく敵大編隊の波状攻撃実に十数回に及ぶ
一艦又一艦が消える
被弾し戦列を離れる艦が続出漸くにして比島東方海上に到達すると同時に敵艦隊と遭遇忽ち対空対水上の死闘が繰り広げられた
その間 空母1を撃沈
榛名又凄まじい闘魂を漲らせ言語に絶する苦闘の3日間を戦い抜いたのである
内地に帰投した榛名は間もなく第2艦隊より除かれ錨地を小用沖に移し本土防衛に任じたるも執拗なる敵機大小延240機の来襲により 昭和20年7月28日午後5時過ぎ 遂に被爆着底す
秀麗榛名の山にあやかり天運を恵与された榛名 曽ては御召艦の栄を担いよく勇戦奮闘 日本海軍の誇りを全うした光栄あるその30年の歴史を閉じたのである
来るべきの日を既に直感しながら後に続くを渇望し雄々しくも海に散華せし榛名桜
そして互いに愛国の至情に燃え艦と共に戦い生存せし我等
その運命の深遠を追憶し遥に港を望むこの台地に碑を建て 永劫の鎮魂顕彰の場として心からなる慰霊の誠を捧ぐ
英魂 とこしえにこの聖地に眠れ      合掌

昭和56年11月8日
戦艦榛名生存者有志一同
      遺族一同

要目

明治45年 3月16日 竣工 神戸川崎造船所
大正 2年12月14日 進水
大正 4年 4月29日 完成 日本海軍に引渡 横鎮籍に編入
昭和 9年 6月 1日 佐鎮籍に編入

第二次改装完成時の装備

排水量  35,600頓
全長    222米
最大幅   31.02米
吃水    9.18米
主機    艦本式減速タービン 4基
缶      ロ号艦本式 計11基
出力    141,211馬力
公試速力 32節
燃料    重油 6,678頓
航続距離 18節で10,000海里
45口径四一式36糎砲連装4基8門
50口径四一式15糎砲 16門
40口径12.7糎連装高角砲6基12門
機銃      117門
搭載機    九〇式水偵 3機
探照燈    110糎 8基
短艇      13隻
乗組員定数 1,315名

題字 元榛名乗員東只雄謹書

(碑文より)

軍艦榛名戦没者慰霊碑

「金剛」型巡洋戦艦として川崎造船所で大正4年4月19日、「霧島」と日を同じくして竣工
大改装を経て戦艦に類別
昭和9年6月1日、横須賀から佐世保に転籍

「榛名」は昭和3年12月の大礼特別観艦式において御召艦を務めた。
大東亜戦争においては南方攻略作戦支援、ミッドウェー作戦、ソロモン水域作戦、あ号作戦、捷号作戦などに参加。
昭和20年初頭以降、呉鎮守府部隊警備艦となった。
同年3月19日、呉工廠岸壁に係留中に敵艦載機の攻撃を受け、直撃弾1発を被弾。
また6月22日にはB−29の投弾1発を受けた。
そのため呉の対岸の江田島小用沖に転錨したが、7月24日と28日の呉地方大空襲の際、米艦載機の直撃弾8発を受け、遂に大破、着底した。
戦後の昭和21年5月2日から浮揚解体作業が開始。
7月4日に解体が終了、榛名の姿はこの世から消えたのである。
碑は昭和56年11月8日建立。
沈没時の戦死者66名を含み135名の英霊を祀ってある。

(参考:社団法人 佐世保東山海軍墓地保存会発行 『佐世保東山海軍墓地 墓碑誌』 平成20年第3刷)


【榛名】

「霧島」と共に初めて民間造船所に発注された主力艦。
すでに同型艦の「比叡」の建造が横須賀海軍工廠で進んでおり、その経験から砲塔前面のナックルをなくすなどの独自の改良が加えられている。
大正9年(1920年)9月12日、射撃演習中に1番砲塔の右砲に装填した砲弾が不規則爆発を起こして砲塔天蓋が吹き飛ぶという事故を起こす。
この事故の為、予定されていた第一次改装は主力艦の中で最も早く行われた。
甲板面の装甲の強化、砲戦距離の拡大、舷側にバルジを装着して浮力の確保と水雷防御を兼ねた。
また、缶を重油専焼缶に交換し、排煙を薄くすることで敵艦からの発見率の減少を図った。
昭和9年の第二次改装では機関の交換による高速化を行い、高速戦艦に生まれ変わる。
大東亜戦争開戦時は南方部隊機動部隊に編入され、南方作戦の支援を行い、インド洋作戦後のミッドウェー作戦では空母部隊直衛として、空母「飛龍」乗員の救助などにあたった。
昭和17年10月13日には、「金剛」と共にガダルカナル島飛行場砲撃に成功している。
昭和19年6月のマリアナ沖海戦では前衛部隊として第3航空戦隊の軽空母群の直衛を務める。
続く比島沖海戦では「金剛」と共に栗田部隊主隊の第2部隊の中核を構成し、サマール沖海戦では米護衛空母群に肉薄した。
呉に帰投後は燃料不足のため、浮かぶ砲台として利用されたが、米空母機動部隊などから数度の空襲を受けて、大破着底の状態で終戦を迎えた。

【要目】(昭和9年時)
公試排水量:3万6601トン
機関出力:13万6000馬力
速力:30.5ノット
航続力:18ノットで1万海里
乗員数:1437名
兵装:35.6cm連装砲×4
    15.2cm単装砲×16
    12.7cm連装高角砲×4
    40mm連装機銃×2
    13mm4連装機銃×1
飛行機:射出機×1
     水上偵察機×1

【艦歴】
大正4年4月19日 竣工
昭和3年7月31日 第一次改装完成
昭和9年9月30日 第二次改装完成
昭和20年7月28日 大破着底・戦後解体

(参考:『歴史群像2006年2月号別冊付録 帝国海軍艦艇ガイド』)


大改装

大正13年から昭和14年末にかけ、10隻の主力艦すべてに近代化の大改装を施した。
大正13年3月より、まず巡洋戦艦「榛名」の第一次改装を開始する。
本クラスは防御力が薄弱だったからである。
これら「金剛」型巡洋戦艦は第一次改装で、準高速(25〜26ノット)戦艦となった。
ついで第二次大改装が昭和8年8月に開始され、30.5ノットの“高速戦艦”に生まれ変わった。

第一次改装では水中防御の強化策として、「榛名」は舷側外板の外側にバルジを新設するとともに、艦内内側に水雷防御縦壁を設置し、外板の外側または内側に25ミリ厚の高張力鋼を3〜4枚重ね張りした。

第二次改装では、根本的なリニューアルが行われた。
毒ガス防御、応急注排水装置、副砲の仰角引き上げ、飛行機射出機の改正などである。
通風装置や居住区改善も、この改装時かその前後に改良されるか新設されている。
昭和9年9月、第二次改装完了。

(参考:雨倉孝之著『海軍ダメ・コン物語』・『丸 2012年5月号』所収)

(令和2年3月9日 追記)


36センチ一式徹甲弾


36cm一式徹甲弾

(広島県江田島市・海上自衛隊第1術科学校)

この砲弾は、昭和17年(1942年)10月13日夜ガダルカナル島飛行場の砲撃に参加した挺身隊の第3戦隊(「金剛」「榛名」)が発射したものである。


(平成18年3月20日)

砲弾の戦歴

日本海軍が1942年8月ガダルカナル島に建設した飛行場は わが航空部隊が進出する直前に連合軍の奇襲上陸により奪取された
この飛行場の確保が大東亜戦争の天王山と判断した両軍はその争奪を巡って死闘を繰り返した
日本海軍は陸軍のガ島総攻撃用の兵員及び軍需品の高速輸送を支援するため艦砲射撃による飛行場の制圧を計画した
1942年10月13日夜半挺身攻撃隊として編成された軽巡「五十鈴」駆逐艦「親潮」「早潮」「黒潮」「海風」「江風」「涼風」「高波」「巻波」「長波」戦艦「金剛」「榛名」はガ島に肉迫し「金剛」「榛名」の主砲をもって合計918発にのぼる砲撃を加えた
この猛攻によりガ島飛行場は一面火の海となりわが高速輸送船団は無事ガ島に突入し揚陸に成功した

砲弾の祖国帰還の経緯

本砲弾は 1983年8月 ガダルカナル島を訪れた赤沢璋一氏(比叡)及び永末英一衆議院議員(五十鈴)が川村庸也氏の案内により島内の戦跡を見て回った際に発見された
その後 関係者により本砲弾を祖国に帰還させるための努力が重ねられ 特に 川村氏の熱意と懸命な尽力とにより 1985年2月 40余年振りにガ島から祖国に帰ってきたものである
帰還後 海上自衛隊が調査を行った結果 本砲弾は「金剛」又は「榛名」が発射した一式徹甲弾であることが確認された
そこで挺身攻撃隊として 当時の作戦に従事した有志が集って保存会を結成し多くの会員の協力を得て 本砲弾を日本海軍ゆかりの地 江田島に展示し 永く後世に伝えることとした
なお この砲弾が損傷しているのは 不発弾処理によるものであり また 傾けてあるのは ガ島の方向を示すためである

1986年7月
ガダルカナル島砲撃弾保存会

(碑文より)


【九一式徹甲弾】

「ある程度の距離に、一定の角度で落ちた砲弾は水中を突き進む」ということを知った日本海軍は、“水中砲弾”の研究に取り組んだ。
その結果、砲弾が着水すると、先端がポロリと落ち、残り8割の長さの砲弾が、水中弾となって直進するように工夫された。
日本海軍は、この水中砲弾を昭和6年に制式化。
「九一式徹甲弾」と命名し、戦艦と巡洋艦用に4種の大きさが生産された。
九一式徹甲弾は着水後、直径の約200倍、すなわち40センチ砲なら80メートルほど水中を直進するから、敵潜水艦に対しても効果があると信じられていた。
ちなみに太平洋戦争では、零式通常弾が主として使用され、九一式徹甲弾はあまり使用されていない。

(参考:木俣滋郎 著 『幻の秘密兵器』 光人社NF文庫 1998年8月発行)

(平成31年4月11日 追記)


ガダルカナル島砲撃

三式弾が正式採用になったのは昭和18年で意外に遅いが、それ以前すでに一部の軍艦には搭載されていた。
昭和17年10月13日、日本海軍はソロモン諸島ガダルカナル島に艦砲射撃を加えた。
同島のヘンダーソン飛行場には、米軍機が勢ぞろいして、日本の船団の接近をはばんでいたからだ。
当時、三式弾はまだ少ししかなかったので、トラック島基地や弾丸輸送船からかき集めて、戦艦「金剛」に載せた。
暗夜、「金剛」は2万メートルの距離から三式弾104発14斉射で撃ち、一式徹甲弾を撃った「榛名」とともに、飛行場にあったグラマンF4Fワイルド・キャット戦闘機、カーチスSBD艦上爆撃機、陸軍のベルP39エアラ・コブラなど合計57機を破壊した。

(参考:木俣滋郎 著 『幻の秘密兵器』 光人社NF文庫 1998年8月発行)

(平成31年4月14日 追記)

 (平成22年11月20日)

ガダルカナル島・旧ヘンダーソン飛行場(現:ホニアラ空港)


ガダルカナル島飛行場砲撃(昭和17年10月13日)

昭和17年8月7日、敵のツラギ、ガ島奇襲上陸からその本格的反攻が始まった。
「金剛」「榛名」の第3戦隊は瀬戸内海に待機し、ミッドウェー、アリューシャン作戦後の諸工事、整備作業中だった。
9月6日に出撃し、10日にトラックに到着、先行して同地を根拠地として作戦中の艦隊(第2艦隊)に合流した。
翌11日から23日のガ島方面の作戦に応じる第2艦隊、第3艦隊の作戦行動に加わる。
その後、10月11日まで、9月中旬以来第3艦隊に実施を予定されていたガ島飛行場砲撃の準備に専念。

この砲撃の目的は、ガ島奪回の手掛かりとして10月15日に予定された高速輸送船団による陸軍増強の輸送を容易にするため、敵飛行場の機能を一時的に封殺することにある。
手段としては、適当な弾種の多数弾射撃で、敵航空機と基地施設を徹底的に焼夷破壊することであった。

10月6日、7日両日トラック環礁中の無人島を目標とする研究、予行射撃も成果は上々だった。
初めて飛行場攻撃に使用の一式徹甲弾(水柱着色の徹甲弾)及び三式弾(正しくは仮称三式通常弾―焼夷榴霰弾兼榴弾)の満足すべき性能が確認された。
三式弾は「金剛」に、零式弾は「榛名」に集中使用のため、他の同型艦(「比叡」「霧島」)との4隻の間で相互に積み換えの作業等、準備を行なう。

10月11日、前進部隊と共に挺身攻撃隊はトラックを出撃した。
22時20分、あっけないほど何ら妨害を受けることなく、サボ島の北8浬に達する。
22時47分、それまでの28ノットから射撃時の18ノット発令。
23時36分30秒、「金剛」が初弾を発砲(「榛名」は1分50秒後に初弾発砲)、距離約2万1千メートル。
修正を行ない3分後に4発発砲、直ちに一斉打方(8発宛)に移る。
以後、斉射間隔1分の標準で射撃を続けた。
23時46分、敵陸砲の砲撃が始まったが届かない。
「金剛」「榛名」は副砲で短時間反撃したが効果は不明。
副砲発射弾数は「金剛」27発、「榛名」21発。
23時48分、飛行場に火災を認め、たちまち一面火の海となる。
23時57分、「金剛」は三式弾を14斉射(104発)で撃ち尽くし、一式弾に移る。
10月14日午前0時12分、「金剛」は第一次30斉射を終え射撃を中止して反転。(「榛名」続航)
0時22分30秒、第二次射撃に移った。
0時56分、射撃は予定通りに終了し、速力29ノットでサボ島東側を北上して離脱する。

この射撃における主砲発射弾数。
「金剛」は三式弾104発、一式弾331発。
「榛名」は零式弾189発、一式弾294発。

被害は、「榛名」弾薬庫員に熱射病患者11名(うち1名死亡、2名重症)を出し、長時間射撃により各艦電路装置に若干の故障を生じたに止まる。

(参考:志摩亥吉郎 著 「戦艦「金剛」小柳冨次 ガ島飛行場砲撃の壮挙」・『歴史と人物 実録日本陸海軍の戦い』所収 中央公論社 昭和60年8月発行)

(令和2年10月12日 追記)




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