戦艦 霧島 きりしま


戦艦霧島慰霊碑



慰霊碑 戦艦霧島
(長崎県佐世保市・佐世保東山海軍墓地





(平成20年11月23日)

碑文

巡洋戦艦霧島は明治42年3月17日長崎三菱造船所に於て起工
大正4年4月19日進水
第一次第二次の大改装を経て沈没時その主なる要目次の如し
全長219.61米常備状態に於ける屯数36601屯最大速力30.5ノット航続距離18ノットにて1万浬乗員1430名兵装主砲36糎砲8門副砲15糎砲14門その他高角砲機銃及水偵3機搭載す
昭和5年10月26日神戸沖特別大演習観艦式には御召艦の光栄に浴し大東亜戦争中旗艦比叡と共に作戦に従へり
(艦長山口次平大佐後少将)
昭和17年11月12日ガダルカナル飛行場砲撃の為ルンガ沖に突入せり
此の時比叡は敵の集中砲火を受け舵機故障航行不能となりたる処更に米軍機の雷爆撃を受け13日1305サボ島沖に自沈す
明けて14日第2艦隊に合同の命を受け霧島は長官近藤信竹中将の指揮下に入り旗艦愛宕を先頭に高雄長良川内他駆逐艦6隻と共に再度ガダルカナル飛行場砲撃を企図し突入せんとしたるもその南西方向を西航する米戦艦ワシントン及サウスダコダの2隻を発見之と交戦初弾よくサウスダコダをして戦列を離脱せしむるの損害を與え之を撃破するも霧島も又ワシントンの16吋砲弾6発5吋砲弾40発の集中砲火を受け舵機故障大破航行不能に陥り艦長岩渕三次大佐(後中将マニラにて散華)は総員退去を命じキングストン弁を開いてサボ島の265度11浬の地点に自らその栄光の生涯を閉ず
時に昭和17年11月15日0130噫
茲に艦と共に散華せる英霊を顕彰してその勲を永久に欽仰するものなり

昭和55年11月14日
霧島乗組生存者一同
有志一同

施工 香川県仁尾町 (株)木下石材

戦艦霧島戦没者慰霊碑

金剛」型巡洋戦艦として大正4年4月19日三菱長崎造船所において竣工
大改装のうえ昭和6年から戦艦に類別
昭和11年6月佐世保工廠で最後の大改装を実施
竣工の日付をもって佐世保を本籍と定められた

大東亜戦争においては、ハワイ作戦、インド洋作戦、ミッドウェー作戦、ソロモン海戦等に参加。
昭和17年11月12日以降15日までのソロモン海域で展開された海戦を第3次ソロモン海戦と呼称するが、これはガダルカナル島への我が船団による緊急輸送と、それを支援する我が水上艦艇の行動を阻止しようとする米艦隊との闘いである。
11月12日夜、戦艦2隻(比叡、霧島)を主力とする我がガ島飛行場砲撃部隊はルンガ沖に達したのち、米艦隊と遭遇。
敵巡洋艦2隻、駆逐艦4隻を撃沈したものの、我もまた戦艦「比叡」及び駆逐艦2隻を失った。
ついで、11月13日、我が重巡4隻を基幹とするガ島飛行場制圧部隊はショートランドを出撃し、深夜ガ島砲撃に成功。
しかし、翌14日早朝、米機の攻撃を受け、重巡「衣笠」が沈没。
この戦闘で我が方は輸送船団に大被害を受けたが、それでも残余の船をもってガ島輸送を強行。
その支援としてガ島砲撃部隊(戦艦霧島、重巡2隻基幹)が14日早朝から南下を始めた。
サボ島を回った午後8時52分、我が軍は米艦隊のレーダーに察知され、我もまた敵を午後9時12分に視認した。
我が兵力は戦艦1、重巡2、軽巡2、駆逐艦9、合計14隻。
米艦隊の兵力は戦艦2、駆逐艦4、合計6隻であるが、米戦艦は40センチ砲9門を持つ最新型(ワシントン型)であった。
我が攻撃により米駆逐艦3隻を沈め、また戦艦サウスダコダを大破せしめたが、残念ながら我が霧島の撃った弾は飛行場制圧の為の三式弾であった。
これが徹甲弾であったなら霧島の36センチ砲弾43発を蒙ったサウスダコダは沈没していたと思われる。
霧島は遂に米戦艦ワシントンのレーダー射撃により40センチ砲弾6発以上の命中弾を受け、3番、4番砲塔水圧機が停止。
舵機も故障して航行不能、舵機室に満水し、舵は面舵10度のまま動かない。
火災を抑えるため弾火薬庫に注水。
あらゆる救難手段を講じたが功なく、艦の傾斜は大となり、右に横転し、やがて海中にその姿を没した。
時に昭和17年11月15日午前1時25分。
場所はサボ島の西11浬。
艦と運命を共にした将兵は212名。
碑は昭和55年11月15日に建立された。

(参考:社団法人 佐世保東山海軍墓地保存会発行 『佐世保東山海軍墓地 墓碑誌』 平成20年第3刷)


霧島

「金剛」型の4番艦として民間の三菱長崎造船所に発注された巡洋戦艦。
三菱長崎では初めての大艦に備えて、船台の延長やガントリークレーンの整備など設備の拡充に加えて、建造に携わる幹部技術者を英ヴィッカース社に派遣するなどしている。
第1次、第2次の近代化改装は「金剛」「榛名」に準じた内容。
改装工事が終わった昭和11年(1936年)6月には高速戦艦として生まれ変わる。
太平洋戦争開戦時は空母機動部隊の一艦としてハワイ作戦に参加。
インド洋作戦を経て、ミッドウェー作戦では「榛名」と共に空母部隊の直衛任務に就いた。
空母中心の第3艦隊編成後は、同艦隊第11戦隊に編入。
昭和17年8月、米軍のガダルカナル島上陸以降は戦場をソロモン方面に移し、第2次ソロモン海戦、南太平洋海戦の両海戦では前衛部隊として参加。
11月13日〜15日の第3次ソロモン海戦の第一夜戦では、敵の攻撃が探照灯を照射した「比叡」に集中する間に米巡洋艦戦隊に壊滅に近い打撃を与えている。
「比叡」なきあとの15日の第二夜戦では、「ワシントン」」「サウスダコタ」の2隻の米戦艦と砲撃戦を展開。
50発以上の命中弾を受けて航行不能になり自沈した。

【要目】(昭和11年時)
公試排水量:3万6668トン
機関出力:13万6000馬力
速力:29.8ノット
航続力:18ノットで9850海里
乗員数:1440名
兵装:35.6cm連装砲×4
    15.2cm単装砲×14
    12.7cm連装高角砲×4
    25mm連装機銃×10
飛行機:射出機×1、水上偵察機×3

(参考:『歴史群像2006年2月号別冊付録 帝国海軍艦艇ガイド』)


大改装

大正13年から昭和14年末にかけ、10隻の主力艦すべてに近代化の大改装を施した。
大正13年3月より、まず巡洋戦艦「榛名」の第一次改装を開始する。
本クラスは防御力が薄弱だったからである。
これら「金剛」型巡洋戦艦は第一次改装で、準高速(25〜26ノット)戦艦となった。

第二次改装では、根本的なリニューアルが行われた。
毒ガス防御、応急注排水装置、副砲の仰角引き上げ、飛行機射出機の改正などである。
通風装置や居住区改善も、この改装時かその前後に改良されるか新設されている。
「金剛」型の第二次改装は「榛名」が昭和9年9月に完成し、続いて「霧島」「金剛」の順に昭和12年初頭までに完成した。

さらに「霧島」は昭和14年11月、第三予備艦となって後檣や砲術系統の改装を行っている。

(参考:雨倉孝之著『海軍ダメ・コン物語』・『丸 2012年5月号』所収)

(令和2年3月9日 追記)


【鬼の金剛、地獄の霧島】

「霧島」の乗員は、他の艦船部隊に比べて優越感をもち、気性が荒く勇猛さで鳴らしていた。
とくに軍紀は厳正を極め、海軍小唄にも「鬼の金剛、地獄の霧島」とまで唄われていた。
新任の水兵は朝に夕に往復ビンタを浴びる。
警泊中は勿論、たとえ作戦行動中でも「巡検終り」「たばこ盆出せ」のラッパと号令が鳴り止むと、待っていましたとばかり各分隊ごとにストッパーで海軍精神注入の洗礼を受け、全く生きた心地はしなかった。
こうした厳しい軍律と猛訓練のため同期の桜、数人が犠牲となった。
だが、「四面海なる帝国を守る海軍軍人は戦時平時の別ちなく勇み励みて勉むべし」と容赦なく猛訓練は続行された。

(参考:堀之内士郎 著 「手記 戦艦「霧島」の最期」・『歴史と人物 実録日本陸海軍の戦い』所収 中央公論社 昭和60年8月発行)

(令和2年10月15日 追記)


サボ島




戦艦「霧島」沈没地点

遠くに見えるのが、ガダルカナル島



(平成22年11月19日)

【戦艦「霧島」の最期】

昭和17年11月14日午後、「霧島」は第2艦隊、巡洋艦「愛宕」「高雄」、ほかに駆逐艦数隻と合流し、ガ島を目指して南進した。
午後10時10分ごろ、左前方にサボ島を発見。
スコールが来る。
駆逐艦はスピードを増し、勇躍、サボ島沖を通過してルンガ沖に突入し、米艦と遭遇したようである。
「高雄」「愛宕」「霧島」は、その砲声を聞きながら、満を持してサボ島を通過した。
「霧島」は速力18ノットで進む。
「高雄」「愛宕」の距離は1500メートル、「霧島」と「愛宕」の距離は2000メートル。
スコールが過ぎ去る。
ルンガ沖泊地を目指し、「霧島」が前方の「愛宕」にならって右へ方向を転換して数分前進したとき、左斜め前方の島影に大型戦艦らしき艦影を認めた。
「霧島」の各砲門は、一斉に火を吐いたが、「霧島」の発砲と米艦の発砲はほとんど同時だった。
数秒後、「霧島」の周囲には無数の砲弾が落下し、巨大な水煙が上がった。
3〜4分後、「霧島」の主砲弾は米一番艦、ノースカロライナ型大型戦艦の前部3連装砲塔に命中。
しかし、敵の2番艦、3番艦、4番艦が現われ、「霧島」めがけて猛烈な集中砲撃を開始。
しかも3000〜4000メートルの至近距離である。
「霧島」は全く不利な態勢となった。

集中砲火はいよいよ烈しくなる。
艦橋後部の煙突の周囲に巻いてあるマットレスにも火がつき、真っ黒な夜空に赤々と燃えあがり絶好の目標となる。
ただちに応急員たちが煙突によじ登って燃えているマットレスを切り離し、海中や下部甲板へ投げ捨てた。
しかし、まもなく「後部副砲塔火災」の悲報が飛んだ。
大野副長の指示により後部副砲塔に注水。
砲戦は続く。
「舵故障」操舵室よりの悲痛な声が伝声管を走る。
「霧島」は最大戦速で走っているが、真直ぐには進めない。
グルグル回り始めた。
「後部砲塔火災!」「前部副砲塔火災!」
ただちに注水。
健全な砲塔は前部主砲のみとなった。
そのとき、「機関故障」の声が起こった。
「霧島」が動けなくなり、静止してしまったころには敵の砲撃も一段落を告げた。
「霧島」は少し右舷に傾きかけたため左舷に注水をしたが、今度は左舷に傾き出した。
右舷に注水をし、ようやく元に戻った。
艦橋から暗黒の海面を見渡すと、すでに米艦の姿は見えない。
「霧島」の受けた敵弾は、主砲二十数発、副砲数十発、魚雷5〜6本で満身創痍となった。

岩淵艦長は、「駆逐艦に曳航させてガ島的飛行場の正面にのし上げ、残った前部主砲で米飛行場を砲弾のある限り撃ちまくり、砲弾がなくなったら総員で斬り込む」と決断。
駆逐艦が近づいてくる。
運用長が前甲板から太いワイヤロープを駆逐艦に投げ込み、曳航に取りかかったが、「霧島」は泰山のごとく動かない。
「曳航不能」との駆逐艦からの信号がくる。
ついに、総員退去となる。
右舷後部に、まず横付けになったのは、駆逐艦「朝雲」で、横木が「霧島」の舷側に渡された。
御真影を捧持した士官が先頭に横木を渡り、次いで右舷後部の分隊から移乗した。
さらに艦は左舷への傾斜を増す。

昭和17年11月15日午前1時23分、「霧島」はその艦尾を海面に突っ込み、艦首を高く突き立て、そのまま一挙に海中に没していった。
艦長以下1128名が救助され、212名が戦死した。

(参考:高戸顕隆 著 『海軍主計大尉の太平洋戦争』 光人社NF文庫 1999年3月発行)

(平成29年4月29日 追記)


【情況判断のミス】

昭和17年11月12日、ガ島砲撃のため第11戦隊(司令官:阿部弘毅中将)の「比叡」「霧島」はルンガ沖に突入し、まさに敵飛行場の砲撃を開始しようとしていた時、敵艦隊と交戦となり、11月13日夜、「比叡」は沈没した。
連合艦隊司令長官・山本五十六大将から「愛宕」の第2艦隊司令長官・近藤信竹中将に対し緊急電で「前進部隊は第2艦隊司令長官直率のもと特別挺身攻撃隊となりガダルカナル飛行場砲撃を決行せよ」の命が下った。
11月14日夜、いったん北上し、隊形を整えたわが特別挺身攻撃隊は、再びガ島に向けて南進を開始した。
艦隊は「霧島」、重巡「愛宕」「高雄」、軽巡「長良」「川内」、駆逐艦9隻であった。
第3水雷戦隊の旗艦「川内」がサボ島を背に約1万メートルにおいて敵影を捉えたが、戦艦を巡洋艦と誤認。
近藤長官は敵を巡洋艦と思い込み、わが軽巡2隻、駆逐艦9隻で充分に処理できると、極めて楽観的ムードであった。
「霧島」「愛宕」「高雄」の主力艦が出る幕ではないとして、一意ガ島砲撃に直進するのが本筋であるとしてサボ島北水道から突進を開始した。
同じ頃、敵が新鋭戦艦「ワシントン」「サウスダコタ」とは知らず、軽巡「川内」、駆逐艦「敷波」「浦波」、そしてサボ島西方を迂回し前進中だった駆逐艦「綾波」も敵影に向かって突撃したが、敵戦艦の砲力は物凄く、我が水雷戦隊では全く蟷螂の斧に等しかった。

やがて事態を知った近藤長官は「霧島」に砲撃を命じ、一大砲撃戦が開始された。
戦艦は少なくとも1万メートル以上の距離をおいて砲撃するのが普通であるが、この時は真っ暗闇であり、距離の判断を誤って敵艦はわずか5,000メートル以内に接近していた。
この砲戦で「サウスダコタ」が大破して北方に離脱逃走し、わが方も「綾波」が沈没した。
米艦隊の直衛駆逐艦4隻のうち「ウォーク」と「プレストン」は沈没、「ベナム」が大破、「グイン」は炎上、残るは旗艦の「ワシントン」唯1隻となった。

突如、軽巡「長良」から「戦艦2隻見ゆ」との通報。
そこで近藤長官は飛行場直行の方針を断念し、まず敵艦隊を撃破して後、ガ島砲撃を遂行しようと、急遽主力部隊を直角に右転させて北上し、そしてまた反転した。
情況判断のミスである。
重大なる戦場を行ったり来たり、ウロチョロしたわけで、この再三にわたる反転が、わが「霧島」を悲劇に追いやる原因となった。

(参考:堀之内士郎 著 「手記 戦艦「霧島」の最期」・『歴史と人物 実録日本陸海軍の戦い』所収 中央公論社 昭和60年8月発行)

(令和2年10月15日 追記)


【「霧島」の最期】

米艦隊のうち唯一残った戦艦「ワシントン」は無傷のまま、正確なレーダー射撃によって、闇の中からいきなり40センチ砲弾を「霧島」に叩きこんできた。
「霧島」はこの思いがけない不意打ちにより、敵の巨弾を浴び、あたかもハチの巣の如く大穴を開けられ、遂に力尽きたのである。

砲戦は約10分くらいで終わり、やがて艦が停止した様子。
伝声管で先任士官が戦闘艦橋に戦闘状況を問い合わせたが応答なし。
この頃、機関室に悪性のガスが発生し、全体に充満し防毒マスクを着用していてもその効なく、身の危険を感ずる状況となった。
しばらくして艦橋より「総員上甲板」の通報。
中甲板に出てみると幅2メートルの通路が脛まで浸水して電灯も消えている。
中央ラッタル付近は副砲の兵だろう、顔面を叩き割られた上に大腿部を切断された戦友が倒れているなど、足の踏み場もない無惨な状態で酸鼻を極めた。
上甲板に出てみると艦橋下、中央部右舷側にあった前部電信室は畳十帖ほどの大穴がポッカリと開き全滅、人の気配はない。
艦橋下後部付近及び2番砲塔付近は高角砲、探照灯、機銃等の兵士たちだろう、多くの死体が折り重なっており、艦内いたるところ阿鼻地獄の巷と化していた。

「ワシントン」が発射した40センチ砲弾75発の中、9発がわが「霧島」に命中し、3番・4番砲塔は破壊され旋回不能。
そして1弾が重要な舵機に命中したため航行不能となった。
戦闘開始後わずかにして、わが「霧島」の艦上、艦内はいたるところ、身体各部の裂けた死体がゴロゴロして、まるで生き地獄である。
「霧島」は左へ旋回を続け、遂に戦列から脱落。
岩淵三次艦長は人力操舵に切り換えて戦列に復帰しようとしたが、約40発の5インチ砲弾が引き続き命中炸裂した。
そのため艦内いたるところ大火災となり、パイプ破壊、蒸気噴出、ガス発生、通風不良という大事故が続出した結果、機関科はほとんど戦死して艦は停止してしまったのである。

激闘が終り、軽巡「長良」を近接させ、曳航を依頼した。
やがて「長良」の艦尾に渡されたロープとワイヤーがピンとなり、「長良」が前進微速をかけたところ、直径10センチほどの太いワイヤーとロープが音もなく切断した。
そこで2本のワイヤーとロープを折り曲げて計4本として再度試みたが、またもや完全に失敗し、最後の望みが絶たれた。
何しろ大量の海水を含み、すでに4万トン以上に増大している「霧島」を、わずか5,000トンの軽巡「長良」ではとても無理な曳航であった。
こうして曳航作業は、林紫郎運用長(応急指揮官)以下の運用科員の献身的努力も空しく断念せざるを得なかった。
一方、舵取り機に対しては、工作科潜水夫を入れて修理を企図したが、厚い防水区画を打ち破ることが出来ず、望みは絶たれた。

艦の傾斜は刻一刻と増加。
岩淵艦長は、遂に第16分隊長・宮本五郎大尉に対し、注水弁を開き右舷に注水を命じた。
また、駆逐艦「朝雲」と「照月」に横付けを依頼し、御真影を駆逐艦「朝雲」に無事に移乗せしめたが、駆逐艦「照月」は左舷1番砲塔の舷側に衝突、艦首がペチャンコになり横付けできず、後退して去って行った。
傾斜が左舷に相当厳しくなり、まともに直立していることが出来ない状態となった。
沈没は時間の問題である。
ここにおいて岩淵艦長は軍艦旗を降ろし乗員に退去を命じた。

(参考:堀之内士郎 著 「手記 戦艦「霧島」の最期」・『歴史と人物 実録日本陸海軍の戦い』所収 中央公論社 昭和60年8月発行)

(令和2年10月15日 追記)


【その後の岩淵艦長】

その後の「霧島」艦長・岩渕三次大佐は海軍少将となり、舞鶴鎮守府人事部長に任ぜられた後、マニラの第31根拠地司令官としてフィリピンに渡り、リンガエン湾に上陸来攻した敵米軍を迎撃、激戦よく敢闘されたが、遂に昭和20年2月26日、玉砕された。

(参考:堀之内士郎 著 「手記 戦艦「霧島」の最期」・『歴史と人物 実録日本陸海軍の戦い』所収 中央公論社 昭和60年8月発行)

(令和2年10月15日 追記)




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