戦艦 金剛 こんごう


金剛の碑



『金剛』の碑

(長崎県佐世保市・佐世保東山海軍墓地





(平成20年11月23日)

軍艦金剛戦歴

大正3、8、第一次世界大戦青島攻略戦参加
昭和13、日中事変にて南支方面出動
昭和16、12、大東亜戦争勃発するや馬来半島攻略戦支援ジャワ攻略戦支援東印度洋機動戦英領クリスマス島砲撃印度セイロン島攻撃ミッドウェイ沖海戦アリューシャン作戦又第一艦隊前進部隊として数次ソロモン海戦に参加
昭和17、10、挺身攻撃隊としてガダルカナル島砲撃を敢行し敵機48機を撃破多大の損害を与えたり
昭和19、6、サイパン沖海戦参加
昭和19、10、レイテ作戦(捷一号)発動されるや急遽リンガより北上ボルネオ島ブルネイに移動直ちにレイテに向かう
この作戦中に於けるシブヤン海の死斗こそ言語に絶するものあり
対空戦斗は10月24日18回を数え延々日没に及ぶ
金剛右艦に至近弾をうけ浸水右傾斜10度戦死12負傷36の被害
翌10月25日敵機動部隊とサマール島沖にて遭遇
数千米の至近距離にて一大砲撃戦を展開
空母1駆逐艦2を撃沈せり
第二部隊40隻中ブルネイに帰投せるもの10隻
昭和19、11月16日修理のためブルネイ発内地に向う
11月21日午前2時59分米潜シーライオン号の魚雷2発左舷中部に命中
乗員必死の防水作業効なく2番砲塔火薬庫誘爆し一瞬にして波高き東支那海にその姿を没す
時に11月21日午前5時24分地点基隆北方40浬
戦死者第3戦隊司令官海軍大将鈴木義尾艦長海軍中将島崎利雄以下1250名

戦艦金剛艦歴

明治44年 1月17日 英国ヴィッカース社にて起工
明治45年 5月18日 進水
大正 2年 8月16日 引渡
大正 2年11月 5日 横須賀帰着
昭和4年9月より昭和6年3月まで   第一次改装工事
昭和10年6月より昭和12年1月まで 第二次改装工事
第二次改装前横須賀より佐世保所轄となる

装備
排水屯    32,156頓
全長         220米
幅           29米
速力        30.5節
飛行機         3機
カタパルト       1基
航続距離  10,000浬

主砲     36糎砲   8門
副砲     15糎砲  14門
高角砲  12.7糎砲  12門
機銃       25粍  94門

定員 士官        77名
    下士官兵  1,319名
    合計     1,396名

昭和47年11月21日之建

(碑文より)

軍艦金剛戦没者慰霊碑

明治44(1911年)11月17日巡洋戦艦として英国ヴィカース社にて起工
大正2年(1913年)竣工
大改装のうえ昭和6年から戦艦に類別
佐世保に入籍したのは昭和10年6月1日である

第一次大戦、支那事変に従軍
大東亜戦争においてはマレー半島攻略支援をはじめミッドウェー海戦、ソロモン海戦、、ガ島攻撃、サイパン沖海戦に従事、さらにレイテ作戦(捷一号作戦)において戦果を挙げた。

連合艦隊第一遊撃部隊の戦艦大和ほか2隻、巡洋艦1隻及び駆逐艦5隻は、昭和19年11月16日午後6時30分、修理のため内地に向け、ブルネイを出港。
航行序列は矢矧、金剛、大和、長門と大艦が単縦陣に並び、その両側を駆逐艦群が占位して護衛につく。
翌17日午前2時55分、突如として魚雷命中。
米潜シーライオンの放った魚雷4本のうち1本は直衛の駆逐艦浦風に命中し、同艦は轟沈、全員戦死。
さらに2本が金剛に命中。
1本は左舷前部錨鎖庫付近で一区画が満水に止まる。
あとの1本は左舷機械室に孔をあけ満水させてしまった。
すでに金剛の艦齢は30年を過ぎていたため、リベットがゆるみ外板からの浸水が増加。
傾斜復原の努力が重ねられたが、午前5時30分、「総員上甲板」が令せられた時には傾斜は45度。
「軍艦旗おろし方」が令された時には既に60度にも達していた。
ついに左舷に転覆し、前部に大爆発が起こる。
やがて艦首を突込み、艦尾を挙げて金剛は沈んでいった。
時に11月22日午前5時40分頃。
場所は基隆(台湾)の北東60浬。
当夜は暗夜で荒天であった。
駆逐艦磯風と浜風が救助に当ったが、風浪強く救助は困難を極めた。
金剛の全乗員1600名のうち、生存者は250名のみ。
3戦隊司令官鈴木義尾中将、艦長島崎利雄少将以下1250名は艦と運命をともにした。
碑は昭和47年11月21日建立された。

(参考:社団法人 佐世保東山海軍墓地保存会発行 『佐世保東山海軍墓地 墓碑誌』 平成20年第3刷)

 佐世保東山海軍墓地休憩所展示写真


金剛

弩級艦の登場によりイギリスの建艦技術が飛躍的に発展したためその技術習得のためにヴィッカース社に発注された巡洋戦艦。
『金剛』は英国海軍の『ライオン』級をベースにした設計だが、当時の英海軍の主砲口径が13.5インチとして計画されているのを知り、急遽14インチ(35.6センチ)砲装備艦として計画された。
昭和6年(1931年)の第一次改装では、主砲仰角の増大による遠距離砲戦への対応と、装甲の充実による防御力の強化が行われた。
しかし、それに伴い速力は25ノットに低下。
巡洋戦艦から戦艦に艦種を変更。
昭和12年(1937年)完成の第二次改装は、『金剛』型を巡洋艦と駆逐艦で構成された夜戦部隊に加える目的で高速化を主眼に施された。
昭和19年11月21日に台湾沖で米潜水艦『シーライオン』の雷撃を受けて沈没。
潜水艦に撃沈された唯一の日本戦艦となった。

【要目】(昭和12年)

公試排水量:3万6314トン
機関出力:13万6000馬力
速力:30.3ノット
航続力:18ノットで9800海里
乗員数:1437名
兵装:35.6cm連装砲×4
    15.2cm単装砲×14
    12.7cm連装高角砲×2
    25mm連装機銃×10
飛行機:射出機×1、水上偵察機×3

(参考:『歴史群像2006年2月号別冊付録 帝国海軍艦艇ガイド』)


大改装

大正13年から昭和14年末にかけ、10隻の主力艦すべてに近代化の大改装を施した。
大正13年3月より、まず巡洋戦艦「榛名」の第一次改装を開始する。
本クラスは防御力が薄弱だったからである。
これら「金剛」型巡洋戦艦は第一次改装で、準高速(25〜26ノット)戦艦となった。

第二次改装では、根本的なリニューアルが行われた。
毒ガス防御、応急注排水装置、副砲の仰角引き上げ、飛行機射出機の改正などである。
通風装置や居住区改善も、この改装時かその前後に改良されるか新設されている。
「金剛」型の第二次改装は「榛名」が昭和9年9月に完成し、続いて「霧島」「金剛」の順に昭和12年初頭までに完成した。

さらに「金剛」は、昭和16年10月に舷外電路の装備、バルジ内への水密鋼管の充填などを実施し、間接防御をさらに充実させている。

(参考:雨倉孝之著『海軍ダメ・コン物語』・『丸 2012年5月号』所収)

(令和2年3月9日 追記)


36センチ一式徹甲弾


36cm一式徹甲弾

(広島県江田島市・海上自衛隊第1術科学校)

この砲弾は、昭和17年(1942年)10月13日夜ガダルカナル島飛行場の砲撃に参加した挺身隊の第3戦隊(「金剛」「榛名」)が発射したものである。


(平成18年3月20日)

砲弾の戦歴

日本海軍が1942年8月ガダルカナル島に建設した飛行場は わが航空部隊が進出する直前に連合軍の奇襲上陸により奪取された
この飛行場の確保が大東亜戦争の天王山と判断した両軍はその争奪を巡って死闘を繰り返した
日本海軍は陸軍のガ島総攻撃用の兵員及び軍需品の高速輸送を支援するため艦砲射撃による飛行場の制圧を計画した
1942年10月13日夜半挺身攻撃隊として編成された軽巡「五十鈴」駆逐艦「親潮」「早潮」「黒潮」「海風」「江風」「涼風」「高波」「巻波」「長波」戦艦「金剛」「榛名」はガ島に肉迫し「金剛」「榛名」の主砲をもって合計918発にのぼる砲撃を加えた
この猛攻によりガ島飛行場は一面火の海となりわが高速輸送船団は無事ガ島に突入し揚陸に成功した

砲弾の祖国帰還の経緯

本砲弾は 1983年8月 ガダルカナル島を訪れた赤沢璋一氏(比叡)及び永末英一衆議院議員(五十鈴)が川村庸也氏の案内により島内の戦跡を見て回った際に発見された
その後 関係者により本砲弾を祖国に帰還させるための努力が重ねられ 特に 川村氏の熱意と懸命な尽力とにより 1985年2月 40余年振りにガ島から祖国に帰ってきたものである
帰還後 海上自衛隊が調査を行った結果 本砲弾は「金剛」又は「榛名」が発射した一式徹甲弾であることが確認された
そこで挺身攻撃隊として 当時の作戦に従事した有志が集って保存会を結成し多くの会員の協力を得て 本砲弾を日本海軍ゆかりの地 江田島に展示し 永く後世に伝えることとした
なお この砲弾が損傷しているのは 不発弾処理によるものであり また 傾けてあるのは ガ島の方向を示すためである

1986年7月
ガダルカナル島砲撃弾保存会

(碑文より)


【九一式徹甲弾】

「ある程度の距離に、一定の角度で落ちた砲弾は水中を突き進む」ということを知った日本海軍は、“水中砲弾”の研究に取り組んだ。
その結果、砲弾が着水すると、先端がポロリと落ち、残り8割の長さの砲弾が、水中弾となって直進するように工夫された。
日本海軍は、この水中砲弾を昭和6年に制式化。
「九一式徹甲弾」と命名し、戦艦と巡洋艦用に4種の大きさが生産された。
九一式徹甲弾は着水後、直径の約200倍、すなわち40センチ砲なら80メートルほど水中を直進するから、敵潜水艦に対しても効果があると信じられていた。
ちなみに太平洋戦争では、零式通常弾が主として使用され、九一式徹甲弾はあまり使用されていない。

(参考:木俣滋郎 著 『幻の秘密兵器』 光人社NF文庫 1998年8月発行)

(平成31年4月11日 追記)


【三式弾(三式焼夷弾)】

太平洋戦争が勃発する前、すでに艦政本部では戦艦の対空砲火を強化することを考えていた。
考案された「三式焼夷弾」(いわゆる三式弾)は、内部に小さな焼夷弾子がいっぱい詰まっている。
発射後、時限装置で砲弾が炸裂すると豆焼夷弾があたりに飛び散り、敵機を損傷させるのである。
内部の豆焼夷弾は直径2センチ、長さ10センチの筒状で、火災を起こさせる薬品としては、硫黄とゴムなどの粉が用いられた。
三式弾はズングリと太った砲弾で先端には信管がついており、これが起爆装置となって火が伝火薬を伝わって内部の焼夷弾に伝わる仕組みである。
また後部には放出火薬が入っていて、頭部を吹き飛ばして豆焼夷弾をばらまくのだ。

三式弾が正式採用になったのは昭和18年で意外に遅いが、それ以前すでに一部の軍艦には搭載されていた。
昭和17年10月13日、日本海軍はソロモン諸島ガダルカナル島に艦砲射撃を加えた。
同島のヘンダーソン飛行場には、米軍機が勢ぞろいして、日本の船団の接近をはばんでいたからだ。
当時、三式弾はまだ少ししかなかったので、トラック島基地や弾丸輸送船からかき集めて、戦艦「金剛」に載せた。
暗夜、「金剛」は2万メートルの距離から三式弾104発14斉射で撃ち、一式徹甲弾を撃った「榛名」とともに、飛行場にあったグラマンF4Fワイルド・キャット戦闘機、カーチスSBD艦上爆撃機、陸軍のベルP39エアラ・コブラなど合計57機を破壊した。

(参考:木俣滋郎 著 『幻の秘密兵器』 光人社NF文庫 1998年8月発行)

(平成31年4月14日 追記)

 (平成22年11月20日)

ガダルカナル島・旧ヘンダーソン飛行場(現:ホニアラ空港)


ガダルカナル島飛行場砲撃(昭和17年10月13日)

昭和17年8月7日、敵のツラギ、ガ島奇襲上陸からその本格的反攻が始まった。
「金剛」「榛名」の第3戦隊は瀬戸内海に待機し、ミッドウェー、アリューシャン作戦後の諸工事、整備作業中だった。
9月6日に出撃し、10日にトラックに到着、先行して同地を根拠地として作戦中の艦隊(第2艦隊)に合流した。
翌11日から23日のガ島方面の作戦に応じる第2艦隊、第3艦隊の作戦行動に加わる。
その後、10月11日まで、9月中旬以来第3艦隊に実施を予定されていたガ島飛行場砲撃の準備に専念。

この砲撃の目的は、ガ島奪回の手掛かりとして10月15日に予定された高速輸送船団による陸軍増強の輸送を容易にするため、敵飛行場の機能を一時的に封殺することにある。
手段としては、適当な弾種の多数弾射撃で、敵航空機と基地施設を徹底的に焼夷破壊することであった。

10月6日、7日両日トラック環礁中の無人島を目標とする研究、予行射撃も成果は上々だった。
初めて飛行場攻撃に使用の一式徹甲弾(水柱着色の徹甲弾)及び三式弾(正しくは仮称三式通常弾―焼夷榴霰弾兼榴弾)の満足すべき性能が確認された。
三式弾は「金剛」に、零式弾は「榛名」に集中使用のため、他の同型艦(「比叡」「霧島」)との4隻の間で相互に積み換えの作業等、準備を行なう。

(出撃前の様子)
「金剛」艦長・小柳冨次大佐の「私記」より。
敵機約100機が常駐するその飛行場の膝元に迫って、戦艦2隻で砲撃して来いというのであるから、随分無茶な話である。
どうしてこのような着想が、艦隊司令部に生まれたのかその経緯は知らないが、ガ島作戦が暗礁に乗り上げ、切羽詰まって高速戦艦2隻を犠牲にしてもと、思いつめた窮余の策ではなかったかと憶測する。
従って、これに参加した第3戦隊の2艦は、生きては帰らぬ悲壮な決心であった。
1500人の乗員を持つ艦長として一番いやな事は、敵機の攻撃により、飛行場の直前で動けなくなり、立ち往生して敵から、なぶり殺しに遭うことであった。
万一の場合は海岸に乗り上げて陸上砲台となり、陸戦隊を編成して敵陣に斬り込むことまで考えた。

10月11日、前進部隊と共に挺身攻撃隊はトラックを出撃した。
22時20分、あっけないほど何ら妨害を受けることなく、サボ島の北8浬に達する。
22時47分、それまでの28ノットから射撃時の18ノット発令。
23時36分30秒、「金剛」が初弾を発砲(「榛名」は1分50秒後に初弾発砲)、距離約2万1千メートル。
修正を行ない3分後に4発発砲、直ちに一斉打方(8発宛)に移る。
以後、斉射間隔1分の標準で射撃を続けた。
23時46分、敵陸砲の砲撃が始まったが届かない。
「金剛」「榛名」は副砲で短時間反撃したが効果は不明。
副砲発射弾数は「金剛」27発、「榛名」21発。
23時48分、飛行場に火災を認め、たちまち一面火の海となる。
23時57分、「金剛」は三式弾を14斉射(104発)で撃ち尽くし、一式弾に移る。
10月14日午前0時12分、「金剛」は第一次30斉射を終え射撃を中止して反転。(「榛名」続航)
0時22分30秒、第二次射撃に移った。
0時56分、射撃は予定通りに終了し、速力29ノットでサボ島東側を北上して離脱する。

この射撃における主砲発射弾数。
「金剛」は三式弾104発、一式弾331発。
「榛名」は零式弾189発、一式弾294発。

被害は、「榛名」弾薬庫員に熱射病患者11名(うち1名死亡、2名重症)を出し、長時間射撃により各艦電路装置に若干の故障を生じたに止まる。

(参考:志摩亥吉郎 著 「戦艦「金剛」小柳冨次 ガ島飛行場砲撃の壮挙」・『歴史と人物 実録日本陸海軍の戦い』所収 中央公論社 昭和60年8月発行)

(令和2年10月12日 追記)




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