戦艦 陸奥


戦艦「陸奥」

戦艦「陸奥」は、呉で建造された戦艦「長門」型の2番艦として横須賀海軍工廠こうしょうで建造されました。
しかし、主要な部材である主砲身・副砲身・装甲板・主舵・スクリューなどは、呉海軍工廠で製造されたものを運搬し、横須賀海軍工廠で取り付けられました。
戦艦「陸奥」は、太平洋戦争中、対空兵装強化のために呉海軍工廠へ入渠にゅうきょしています。
昭和18(1943)年6月、山口県柱島はしらじま沖の連合艦隊泊地に停泊中、原因不明の爆発事故により沈没しましたが、その際にも呉鎮守府ちんじゅふから救助隊や原因究明のための調査団が派遣されています。

(説明板より)

旗竿



旗竿

(広島県呉市・「大和ミュージアム」)





(平成18年3月19日)
主錨



主錨

(広島県呉市・「大和ミュージアム」)





(平成18年3月19日)
フェアリーダー



フェアリーダー

(広島県呉市・「大和ミュージアム」)





(平成18年3月19日)
41センチ主砲身



41センチ主砲身(4番砲塔左)
(広島県呉市・「大和ミュージアム」)





(平成18年3月19日)
スクリュー



スクリュー
(広島県呉市・「大和ミュージアム」)





(平成18年3月19日)
主舵



主舵
(広島県呉市・「大和ミュージアム」)





(平成18年3月19日)
大和ミュージアム



呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)

(広島県呉市)





(平成18年3月19日)
1階:「呉の歴史」展示
呉の歴史を、その背景となった世界・日本の動向とのかかわりのなかで紹介します。
写真や映像などに加え、10分の1戦艦「大和」や、零式艦上戦闘機、人間魚雷「回天」などの実物資料で戦争の悲惨さや平和の大切さを伝えます。
3階:「船をつくる技術」展示
船を中心とした科学技術の原理を体験・体感を通して分かりやすく紹介します。
操船シミュレータのほか、作った船を走らせることができる実験水槽、科学の不思議を体験するサイエンスショーや工作教室などで楽しく学べます。
「未来へ」展示
宇宙開発へと夢をはぐくみ広げてきた科学技術と、時空を超えた未来への希望を創造し続ける松本零士氏の世界などを紹介します。

開館時間 展示室 9:00〜17:00
休館日 火曜日(祝日の場合は翌日、7月21日〜8月31日は無休)
観覧料 一般 500円
アクセス JR呉駅から徒歩5分

(リーフレットより)


主砲



主砲
(広島県江田島市・海上自衛隊第1術科学校)





(平成18年3月20日)

戦艦「陸奥」の主砲

「陸奥」は、40cmの主砲を8門搭載していました。
これはその4番砲塔で新式砲と換装のため昭和10年(1935)撤去され、教材としてここに設置したものです。
弾の重量は1ton
最大射程距離は30kmです。

(パンフレット『江田島の海上自衛隊』より)

旧海軍兵学校跡


海上自衛隊
第1術科学校・幹部候補生学校
(広島県江田島市)

旧・海軍兵学校跡



(平成18年3月20日)

学校の歴史

江田島は、風光明媚な広島湾に位置して、東は呉市に、北は広島市に、西は那沙美島を隔てて名勝安芸の宮島に相対し、南は佐伯郡能美島に連なり、また、早瀬大橋、倉橋島、音戸大橋を経て呉市に通じています。
海軍兵学校は明治21年(1888)8月東京築地からこの江田島に移転以来、アメリカのアナポリス、イギリスのダートマスとともに世界3大兵学校としてその名は広く世界が知るところとなりました。
終戦により昭和20年12月1日、約60年の幕を閉じました。
以後の10年間は連合軍が教育施設等に使用しました。
昭和31年(1956)1月返還され、当時横須賀にあった術科学校が当地江田島に移転、その後、昭和32年5月10日に幹部候補生学校が独立開校し、現在に至っています。

(パンフレットより)


副砲



副砲
(東京・靖国神社遊就館)





(平成18年11月22日)

戦艦陸奥装備副砲
五十口径三年式十四糎センチ


海軍が研究を重ねて開発し、大正3(1914)年に制式化し、「陸奥」の副砲として搭載された。
陸奥は昭和18(1943)年6月8日瀬戸内海柱島はしらじまの艦隊警戒泊地で主砲火薬庫の原因不明の爆発により沈没した。
ここに展示してある副砲は昭和48(1973)年、遺骨収集の際に引き揚げられ、艦と共に殉職した乗組員1122柱の英霊を奉慰し、遺徳を顕彰するために軍艦陸奥引揚促進期成会・同遺族会、同生存者会により、昭和56(1981)年6月8日、靖國神社に奉納された。

砲身長 50口径
最大射程 17km.
初速 850m/秒
発射速度 10発/分
砲弾重量 38kg.

(説明板より)

小錨





小錨こいかり
(東京・靖国神社遊就館)







(平成18年11月22日)

ワシントン軍縮条約

戦艦「陸奥」は、大正6年の八四艦隊計画により長門型戦艦の2番艦として建造が決定された。
大正7年に横須賀海軍工廠で着工、大正10年10月24日に竣工した。
完成時に未装備艤装や未完成部分があったため、ワシントン軍縮条約で「完成艦」と見るか否かで論議を呼んだ。

爆発事故

昭和18年(1943年)6月8日正午過ぎ、広島湾柱島沖で後部3番砲塔付近の火薬庫の謎の爆発事故で沈没。
乗組員1,474名のうち生存者は僅か353名。
事故の2週間前に土浦海軍航空隊予科練習生235名が3週間の実習のため付き添いの下士官と共に「長門」と「陸奥」に分乗、「陸奥」に乗り込んだ組は乗艦後まもなくこの事故に遭遇している。
国民の戦意喪失を恐れた海軍により、その事実は秘匿され遺族にも知らされず、事故が明らかになったのは戦後のことである。

昭和24年から艦体の引き揚げが始まったが、残骸の一部が回収されたのみ。
昭和45年(1970年)から翌年にかけて大型の起重機船を投入して本格的な引き揚げ作業が始まり、昭和53年(1978年)まで続き艦体の半分以上が引き揚げられたといわれている。

参考:『歴史群像・2007年10月号』

(平成20年3月21日追記)


【爆沈と予科練生】

昭和18年(1943年)6月、瀬戸内海の柱島沖で戦艦「陸奥」が事故で爆沈した時、153名の予科練が乗艦中だった。
うち、139名もが死亡している。

(参考:『別冊歴史読本 零戦と日本航空戦史』 新人物往来社 1996年11月発行)

(令和元年11月27日 追記)


副砲



副砲
(愛媛県今治市・忠霊塔)





(平成19年11月10日)
副砲



副砲
(愛媛県今治市・忠霊塔)





(平成19年11月10日)
副砲



副砲
(愛媛県今治市・忠霊塔)





(平成19年11月10日)

陸奥副砲顕彰

これは 軍艦陸奥の両舷に9門づつ合わせて18門あった副砲の一つです
陸奥は 大正6年起工 同10年に完成された 日本海軍の誇る戦艦で 連合艦隊の旗艦 又は御召艦として その名を世界に轟かせたものです
しかるに 昭和18年6月8日正午過ぎ 山口県柱島沖で突然大爆発を起し 乗組の将兵千百二十一名と共に沈没
爾来30年間 42メートルの海底に眠っていましたが この度国民の熱意が実り 引き揚げられました
これを 特に譲り受け ここに設置し 過ぐる大東亜戦争の苛烈を偲び 併せて殉難の諸英霊の冥福を祈る次第であります

昭和48年10月吉日
慰霊顕彰陸奥副砲建設委員会

(碑文より)

忠霊塔



忠霊塔
(愛媛県今治市山方町・大谷墓地)





(平成19年11月10日)

今治市忠霊塔銘

凡そ人として 祖國のため 同胞のため 身を挺して危急におもむき 一死大義に殉ずるほど崇高な行為はなく また襲ひ来る戦火の中に防ぐ術さへ持たず 知らず ひたすら親を呼び子を案じ 夫に妻に心ひかれつゝ無慙な死を遂げた無辜の老幼男女ほど 悲しく痛ましい犠牲はない
我等は その人間最高の愛と勇気と犠牲に血を以て繋がるとの自覚に立てばこそ あらゆる艱難に耐へ營ことしで國に郷土に家に榮光をもたらす努力を怠ることが無いのである
今治市忠霊塔は 日清日露役から大東亞戦に至る幾多の戦争に散華せられた軍人軍属 警察消防殉職者並びに一般戦災死歿者等で本市に最もゆかり深い3千2百柱の霊をお納めして安らかな御冥福を祈ると共に その忠誠を永遠に記念するため全市民が満腔の感謝と祈りをこめて建立したものである

昭和34年3月
今治市

(銘版より)


直流電動機の表示板と電路接断器

直流電動機の表示板と電路接断器
(岩手県盛岡市・岩手護国神社

昭和18年6月8日12時13分
山口県岩国沖爆沈 戦艦陸奥(乗組員1474名)
昭和45年7月22日大阪深田サルベージ(株)に依り一部引揚げ
所蔵者(爆沈時配置副砲射手)
盛岡市 千葉利助

(平成21年11月4日)

第二次ソロモン海戦

昭和17年8月10日、連合艦隊司令部はガダルカナル島への陸軍の上陸作戦を支援するため、第2艦隊(前進部隊)と第3艦隊(機動部隊)をもって支援部隊を編成した。
8月11日、近藤信竹こんどうのぶたけ中将率いる第2艦隊(戦艦1・重巡5・水上機母艦1・軽巡1・駆逐艦9)が内地を出撃。
続いて8月16日、南雲忠一なぐもちゅういち中将が指揮する新編成の第3艦隊(正規空母2・軽空母1・戦艦2・重巡4・軽巡1・駆逐艦10)が内地を出撃する。

8月23日午前、一木支隊第2梯団(約1500名)と海軍陸戦隊(約500名)が乗る輸送船団と、護衛の第2水雷戦隊(司令官:田中頼三たなからいぞう少将)が、ガダルカナル島北方で敵索敵機の接触を受ける。
田中少将は、船団を敵機の空襲圏外に退避させる。
これを知らぬフレッチャー中将は「サラトガ」から艦載機を出撃させたが、日本船団が去った後で、肩透かしを食わされたが、その後の誤報で、敵はまだ遠方にあると判断してしまう。
このため当面のあいだは戦闘はないとして、空母「ワスプ」を燃料補給のため作戦海域から退避させてしまった。
これにより米軍側は迎え撃つ空母が3隻から2隻に減る。

南雲中将が率いる第3艦隊は、南雲中将が直率ちょくそつする「本隊」と原忠一はらちゅういち少将が率いる「支隊」の2つに分かれて行動をとっていた。
これは、最初に「支隊」の空母「龍譲」の航空隊でガダルカナル島の敵基地を攻撃させ、それに対して敵の機動部隊が進出してきたところを「本隊」の空母「翔鶴」「瑞鶴」の航空隊が攻撃するという、南雲中将と参謀長である草鹿龍之介くさかりゅうのすけの立てた作戦による。

8月24日午前10時20分、第3艦隊「支隊」はガダルカナル島の敵飛行場を叩くため攻撃隊(零戦15・艦上攻撃機6)を発進。
その前後、空母「龍譲」は敵機動部隊索敵機に発見される。
フレッチャー中将は空母「サラトガ」から攻撃隊を発進。
日本の直掩ちょくえん機はわずか9機。
空母「龍譲」は撃沈される。

ようやく事態を把握した南雲中将は、「本隊」の2隻の空母から攻撃隊を発進させ敵空母への攻撃を開始。
午後12時55分、第一次攻撃隊(零戦10・艦上爆撃機27)発進。
ついで午後2時、第二次攻撃隊(零戦9・艦上爆撃機27)発信。
しかし、2隻の空母に搭載されていた合計36機の艦上攻撃機(雷撃機)は、時間的に準備が間に合わず、攻撃に参加できなかった。
第一次攻撃隊は空母「エンタープライズ」に殺到し、250キロ爆弾3発を命中させる。
また空母「サラトガ」にも命中弾を与えたとされているが米側はこれは認めていない。
この時に日本側の損害は零戦3機、艦上爆撃機17機。
第二次攻撃隊は敵艦の姿を見つけられず帰投。
帰投が夜になったことと通信の不手際で艦上攻撃機4機が行方不明、1機が不時着という失態を犯す。

一方、フレッチャーは2隻の空母から攻撃隊を発進させたが、日本の第3艦隊を発見できず、一部が第2艦隊の水上機母艦「千歳」に至近弾を与えたのにとどまる。

その後、南雲中将は敵の追跡を諦め、8月25日午前0時、『第2次ソロモン海戦』は幕を下ろす。

第2次ソロモン海戦参加艦艇
日本 第3艦隊(機動部隊)本隊
司令長官:南雲忠一中将
空母 「翔鶴」「瑞鶴」 損失
軽空母「龍譲」
航空機59機
(零戦30機)
(艦上爆撃機23機)
(艦上攻撃機6機)

小破
水上機母艦「千歳」
戦艦 「比叡」霧島
重巡 「熊野」「鈴谷」「筑摩」
軽巡 「長良」
駆逐艦 8隻
第3艦隊(機動部隊)支隊
司令官:原忠一少将
軽空母 「龍譲」
重巡 利根
駆逐艦 2隻
第2艦隊(前進部隊)
司令長官:近藤信竹中将
戦艦 「陸奥」
重巡 「愛宕」「高雄」「麻耶」
妙高」「羽黒
水上機母艦 「千歳」
軽巡 「由良」
駆逐艦 9隻
米国 第61任務部隊
指揮官:フレッチャー中将
空母 「サラトガ」「エンタープライズ」
「ワスプ」
損失
航空機25機

中破
空母「エンタープライズ」
戦艦 「ノースカロライナ」
重巡 「ニューオーリンズ」「ミネアポリス」
「ポートランド」「サンフランシスコ」
「ソルトレイクシティ」
軽巡 「アトランタ」
駆逐艦 16隻


(参考:『歴史街道2009年3月号』)

(平成21年6月8日追記)


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