千利休像 平成19年4月14日

千利休 せんのりきゅう

大永2年(1522年)〜天正19年2月28日(1591年4月21日)

大阪府堺市・市博物館前でお会いしました。


法名は宗易。抛筌斎ほうせんさいと号した。
父は納屋なや衆田中与兵衛。
能阿弥の茶を継ぐ北向道陳きたむきどうちんに茶道を学び、のちに道陳の紹介で武野紹鴎に師事した。
禅宗にもあつく帰依し、大徳寺宗套そうとう・古渓宗陳らに参禅。
織田信長の茶頭さどうとして津田宗及そうぎゅう・今井宗久とともに仕えた。
信長没後は豊臣秀吉に側近として仕え、茶道界を指導したほか、政権人事に関する隠然たる勢力をもったという。
天正13年(1585年)9月、秀吉がそれまで前例のなかった禁中小御所で正親町おおぎまち天皇への献茶のさいにも、利休が後見を勤めた。
その功により利休居士号が勅許され、「茶の湯天下一の名人」と讃えられた。
しかし主君秀吉の反感を買い、天正19年(1591年)2月、切腹を命じられた。
茶道史上の功績は、草庵の小座敷で完全に自然と一体化して簡素でおごらぬ美の創造を主張し、精神の深淵を追及しようとした侘茶わびちゃの完成にある。


千利休像



千利休像
(大阪府堺市・市博物館前)





(平成19年4月14日)

碑文

千利休
大永2年(1522)堺市今市(宿院町西)に会合衆魚屋千与兵衛の長男として生まれる
幼名与四郎
幼少より北向道陳に書院台子の茶のち武野紹鴎 茶湯を学ぶ
宗易と改名
抛筌斎と号す
織田信長 豊臣秀吉の茶頭
天正13年(1585)正親町天皇から利休居士号を勅賜
創意にすぐれわび茶を完成

昭和53年5月24日
堺ライオンズクラブCN 20周年記念

堺市博物館



堺市博物館
(大阪府堺市堺区百舌鳥夕雲町2丁 大仙公園内)





(平成19年4月14日)

千利休屋敷跡



千利休屋敷跡
(大阪府堺市堺区宿院町西1−17−1)





(平成19年4月14日)
千利休屋敷跡



千利休屋敷跡
(大阪府堺市堺区宿院町西1−17−1)





(平成19年4月14日)

千利休屋敷跡

堺の豪商魚屋ととやの長男として生まれた与四郎は初め北向道陳きたむきどうちんに茶湯を学んだが、更に道陳の師武野紹鴎に師事し、遂に「わび茶」を大成させた。
千与四郎は、茶名千宗易せんそうえきといい、織田信長・豊臣秀吉に茶頭として仕え、正親町おおぎまち天皇より利休居士号りきゅうこじごうを賜った。
また、壮年時には抛筌斎ほうせんさいとも号していた。
天正15年(1587)10月秀吉の北野大茶会をつかさどり、秀吉に次いで二番の席をもうけるなど天下一の茶人として、茶器などにも種々工夫をこらし、わび・さびの境地をきりひらいた。
その根底には、大徳寺の禅師に深く禅を学び、茶禅一味の悟りに達していたことが考えられる。
その後天正19年(1591)2月秀吉の怒りをかい京都から追放され堺にて謹慎していたが、京都に呼び戻され同月28日尼子三郎左衛門らを検使として切腹させられた。
この屋敷跡には、利休が茶湯に常用していたといわれる椿井が、また南宗寺なんしゅうじには実相庵じっそうあんと称する二畳台目の茶席(塩穴寺より明治9年南宗寺に移築、第二次大戦で焼失昭和35年7月復興)がある。

堺市

(説明板より)


利休追遠塔



利休追遠塔
(東京都品川区北品川4−11−8・東海寺大山墓地)





(平成20年5月18日)

 (関連商品のご紹介)

千利休



 トップページに戻る   銅像のリストに戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送