戦争裁判 殉国烈士之碑

(山口県護国神社)


戦争裁判殉国烈士之碑



戦争裁判 殉国烈士之碑

山口県護国神社境内に建立されています。



(平成15年7月27日)

戦争裁判殉国烈士之碑由来記

昭和16年12月に起った大東亜戦争は、日本が民族の興亡とアジア諸民族の独立自存の戦いでありましたが、激闘3年有余のすえ、昭和20年8月ついに無条件降伏の止むなきに至りました。
この結果、連合国は戦争の責任を問うという名のもとに、戦争史上にかつて例を見ない軍事裁判を強行しました。
このため多くの人々が無実、または誤認のまま罪なき罪を負わされて、家郷を遥かな異国の地で、祖国日本の再建を信じ、愛する肉親の幸せを念じながら刑場の露と消えられました。
まことに痛ましい限りで、実に今次戦争のなかでも類例のない犠牲者であります。
この碑は、こうした殉国烈士のうち、本県出身三十三柱の御霊の永遠とわに鎮まりますことをお祈りするとともに、その遺徳を顕彰して永く後世に伝えるため、山口県世話人会が中心となって、昭和32年11月10日、広く県民各位の暖かいご協力と、浄財をもって建立されたものであります。

昭和50年11月10日

山口戦争裁判殉国烈士之碑奉賛会

(説明板より)


碑文

わが日本が自存自衛の為興亡を賭して断固敢行した大東亜戦争は利あらずして遂に敗れた。
その結果戦勝國はいわゆる戦争裁判を強行し敗戦國家の責任を多く個人に帰した。
しかも無実あるいは誤認あるをも顧みざる一方的裁判により死刑に処せられまた自決獄死した山口縣関係者はここに誌す三十三烈士に及ぶ。
征戦幾春秋萬死に一生を得て終戦を迎えたるも突如戦争犯罪人の名のもとに囚われ従容死についた諸烈士の哀情を憶う時眞に断腸の念にたえず実に戦争最高の犠牲というべきである。
これら烈士の遺芳を顕彰して永く後世に伝うるはわれわれの責務であり祖國再建に寄与するゆえんである。
ここにおいて一同相図り広く縣下並びに在京有志に訴え縣及び関係市町村自衛隊等の協力を得てこれら烈士の碑をこの聖地に建立した。
碑石は材を仁保経塚山の頂きに求め題字は縣出身の元法相岩田宇造翁の揮毫にかかる。
もって芳名遺烈を千載に伝うるの資たらしめんとする。

昭和32年11月

山口縣世話人會
山口縣郷友會
山口縣憲友會
法務関係者一同


碑文には33名の殉国烈士のお名前が刻まれていますが、名前だけしか刻まれていないので、私の勝手で、少し得られた情報も付記して一覧表として下記に載せます。

青井眞光 詳細不明 津穐孝彦 絞首刑
井川忠雄 絞首刑 富田堯人 詳細不明
石川正一 拘禁中病死 中村秀一 絞首刑
岩田光儀 絞首刑 長安 守 絞首刑
岩政文久 詳細不明 原田國市 絞首刑
岩政眞澄 拘禁中自決 廣谷義雄 詳細不明
岩本三枝 拘禁中事故死 藤井 豊 拘禁中自決
宇内文治 絞首刑 舛田仁助 拘禁中自決
越智義光 銃殺刑 松岡洋介 拘禁中病死
兼石 績 詳細不明 向井敏明 銃殺刑
川村伍郎 詳細不明 村上正吾 銃殺刑
久保江保治 詳細不明 村上誠毅 絞首刑
河野 毅 詳細不明 森本 勇 絞首刑
島崎繁一 絞首刑 山岡 繁 絞首刑
多田初治 銃殺刑 山本正一 絞首刑
田中秀雄 絞首刑 吉岡 信 銃殺刑
田中政雄 詳細不明

【殉難者】 

津穐孝彦海軍大尉(39歳・山口出身・9捜海艇=第9号掃海艇のことか?)

昭和26年6月11日早朝、ラバウル関係最後の処刑が、世の多くの人々には知られないままに、5名がマヌス島で執行された。
マヌス島の最初で最後の執行である。

6月11日午前3時から急に暴風雨となり、雷鳴も加わってものすごい状況になった。
刑場は高い土堤を築き、その一端から2メートルくらいの板が、電流を通じると、合わせ目から下方に向かって開くようになっていた。
間もなくジープが到着し、上って来たのは、黒い木綿の頭巾を被かぶせられ、両側から腕を支えられた素足で半ズボンの津穐大尉だった。
「お先に参ります。いろいろとお世話になりました」といって、静かに白ペンキの印の上に立った。
1人の兵が両足を黒いリボンで二重に巻き、他の兵が上から垂れ下がっている径1センチの麻ロープの先を輪のようにして、2回首に巻いた。
兵が両手を後ろで縛った。
とたんに板が二つにわれ、大尉は“さようなら”の声と共に姿を消した。
その間わずか30秒くらいだった。
約5分後、下方では軍医の検視が始まり、刑は15分で終わった。

  遺書
「―ポツダム宣言を受諾した日本は、戦犯者を、戦勝国に引き渡さなければなりません。戦犯者を相手国に引き渡すことが、日本存続の要件でありました。―
  日の光受けてかげなき朝の露」

国と自らの置かれた立場を、これほど明哲に把握していた津穐さんは、また「かげなき朝の露」をも、しっかり鑑照できる透明、繊細な眼と感覚の持ち主でもあった。

山岡繁大尉(特設水上勤務第17中隊長)

昭和21年(1946年)5月25日、ニューギニアの特水勤17中隊長の山岡繁大尉と同隊の松浦軍医少尉が、インド人俘虜殺害の訴因で共に絞首刑の宣告を受ける。
山岡大尉は40歳前後の応召中隊長。
下関の人。
夫人は郷里で学校の先生をしていらっしゃるとか。
面会できる時間は短く、初めてあった人なので、詳しい身上は知るに由なしだが。
「浜までは海女も蓑みのきる時雨かな。―この瓢斉の心境です」と、自然な態度で淡々と語った。
何の衒てらいも力みもない。
とても死刑囚とは思えない沈着自然な態度だ。
「私は中隊長ですから、ニューギニアで戦死した部下たちのところへ参ります。ただ、松浦軍医は、まだ若いし、こんなことで死なせるのは・・・」と、初めて顔を曇らせた。
山岡君は、部下思いのいい中隊長だったろう。
インド人にも温かい心をもっていたと思われるが、あのニューギニアで、インド人労務隊の中隊長だったのだ。
当時の錯雑混乱の飢餓戦線で、むろん問題も起こっただろう。
山岡君はその年齢を労いたわれて、第一線の戦闘部隊ではなく、後方部隊の中隊長に補せられたのであろう。
だが、それが今はあだになった。
何とも言葉がない。

あの毅然として動ずることのなかった山岡大尉は、最後に壮烈な遺書を遺した。
「ラバウル最後の死を承る
祖国再建の礎ここに全きを自負す
栄誉これに過ぎるものなし
嗚呼ああ、快なるかな!
天を仰いで我は絶叫せん
神州不滅 信而不己」

この日の確認で、彼の心に懸かっていた部下の松浦軍医少尉が無罪になった。
山岡君の念願は遂に叶った。
「私の中隊の者が、全員帰国できることを最大の誇りとして喜びます」と、彼は同囚者に晴れやかに述懐したという。

辞世
 死生彷徨幾山河
 餘世寸瞬白亜牢
 神州不滅信不己
 独座遥拝北方天
かねてより捧げし命惜しからめ永遠に栄えん国をしぞ思う
 昭和23年10月28日
 午前7時30分 絞首刑トナル   陸軍大尉 山岡繁

殿をつとめてラプン
此處に在り
すがすがし暁気すみて白けゆく
天地と共に我は生きなん
  28日午前5時作歌
大いに書きました心ゆくまで   山岡繁(花押)

山岡君は、終夜睡ねむらず生涯を回想し国を思い、そして心ゆくまで壁に書いた。
その中でラプンというのは、ニューギニアの奥地で、酋長とかボスを指す言葉だという。
この最期の時に、すべての部下を帰国させて、独り自らラバウルの殿しんがりとして刑場にたつことに、かつての酋長の純乎たる気高さを追懐したのであろうか。
山岡君は、透徹した眼と深い愛情、それに三分の侠気さえ持っていた。
それが豊かな人間味となって、得難い魅力の人であった。

山本正一大尉(43歳・山口出身)

昭和21年(1946年)10月19日に処刑。
山本大尉は先任者として大隊長職に在った。

  遺書
「昭和21年1月28日、ボルネオ・ラブアン島の豪軍軍法会議において、小生は絞首刑、阿部大尉ほか9名は銃殺刑、1名のみ無期禁錮の判決を受け、刑務所においてあらゆる迫害を受けありしところ、3月4日モロタイ島に移管され、依然としてあらゆる虐待を忍び、刑の執行の一日も早からんことを切望しありしも、5月3日、最終服役地たるラバウル戦犯収容所に収容され、再審の結果、小生と阿部大尉は絞首刑、3名無罪、その他7名は10年の禁固に改められました。
第1回のボルネオの公判判決後は、小生の不徳の至りで、いかにしてお詫びしようかと日夜苦慮しておりましたが、ここの裁判で多くが幸いにして死刑をまぬかれ、この上なき喜びとなった次第です。
阿部大尉は一時小官の指揮下に入りたる者にて、まったく不慮の災難と同情しています。小生は部隊長として、責任上やむを得ず責を負い死を期しておりますが、小生の死が祖国再建の礎石ともなるのですから、喜んで刑場の露と消えます。
事件の内容は、戦況の変転に伴い、サンダカン(英領ボルネオ)の豪軍俘虜約500名をラナウまで護送中、病に倒れたる者百十数名ありたるため、俘虜を虐待死に至らしめたるものなりとして告発せられたものであります。
今まですでに祖国の礎となった英霊は、モロタイですでに十四、五名。小生もいよいよラバウルで絞首台に登ります―」

この事件は転送中の栄養失調による病死だとばかり思っていたが、事情を知る者によれば、そのうちの何人かは日本兵に銃殺されたのだという。
苦しさの果てに生命がけの脱走を試みた俘虜と、それを撃った護送兵。
それを撃つことは万国公法に認められた戦闘行為で犯罪ではないが、悲惨な戦況下での地獄図絵ではあった。
阿部一雄大尉(39歳・新潟出身・山本大隊に臨時配属の機関銃中隊長)は、その事件当時にその現場にはいなかったという。
だが、自分の部下が撃った。
任務通りで何の悪意もなかった部下を救けるため、彼はそのとき現場にいて、自らやったのだと証言し、独りでその罰をかぶったのだという。

(参考:松浦義教 著 『真相を訴える―ラバウル戦犯弁護人の日記―』 元就出版社 1997年7月第1刷発行)

(平成29年7月29日 追記)



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