(通称号:撃12098部隊)
編成地 | 編成時期 | 終戦時の上級部隊 | 終戦時の所在地 |
ハルピン | 昭和14年 | 戦車第2師団 | ルソン島・北部 |
戦車第十聯隊之碑 (滋賀県高島市今津町・陸上自衛隊今津駐屯地第1営舎) 第2代連隊長 木下武夫 書 (平成20年4月13日) |
碑文
聯隊は昭和14年創設 満洲東安警備に当った
19年中軽砲戦車等6ヶ中隊800余名で比島に出陣 戦車第2師団の中堅としてルソン島レイテ島で勇戦した
特に全戦車を失うも残存400余名は20年3月サラクサク峠で米32師団を迎え撃ち天王山等で果敢な攻防を繰り返し原田聯隊長以下全員死傷したが4ヶ月に亘り峠付近を確保し感状を授与された
会員相図り今津戦車隊内にこの碑を建て戦没の有志を偲び聯隊の武勲を後世に伝う
昭和44年夏
戦車第十聯隊会
建設委員長 牛山才太郎
同副委員長 神田八雄
撰
連隊の創設 |
昭和14年5月、戦車第10連隊創設委員が牡丹江郊外の戦車第5連隊内に設けられた。
同年7月、第1代連隊長・田中和一郎中佐(陸士27期)の着任にともないハルピンに移動。
同年8月、ハルピン郊外の南崗なんがんにあった旧商科大学の仮兵舎において編成を完結する。
連隊長 | 中佐 | 田中和一郎 | 陸士27期 |
副官 | 大尉 | 池田高元 | 少尉候補者13期 |
連隊付佐官 | 少佐 | 伊藤稔 | 陸士38期 |
連隊付 | 大尉 | 高橋清伍 | 陸士41期 |
連隊付 | 中尉 | 服部保朗 | 陸士49期 |
主計 | 中尉 | 宮内一郎 | |
軍医 | 大尉 | 目良敏一 | |
第1中隊長 | 大尉 | 森田一雄 | 陸士46期 |
第2中隊長 | 中尉 | 松田小一 | 陸士48期 |
材料廠長 | 中尉 | 小見門晴一 |
総員約400名
将校は戦車第5連隊から、下士官・兵は戦車第4連隊・戦車第5連隊から転入。
また、一般歩兵連隊から下士官が多数転入した。
戦車は八九式甲(ガソリンエンジン)で戦車第3連隊・戦車第4連隊の用済み廃棄の老朽車。
昭和14年12月、東安に移駐し、第1戦車団に属して東安国境の警備と訓練に当った。
概史 |
【昭和15年】
2月、連隊として初めての初年兵である14年次兵約120名が東安に到着。
8月、戦車第4連隊・戦車第11連隊と共に第2戦車団に属す。
11月、14年兵次兵のうち約80名が第1師団戦車隊要員(のちの戦車第15連隊)として孫呉に転出。
【昭和16年】
1月、15年次兵約200名が東安に到着。
3月、第3中隊が創設される。(中隊長:鹿江武平大尉、のち上野尚雄大尉)
関東軍特別演習により久留米の戦車第1連隊から永富中尉以下200名(予備役、補充兵半々)が編入された。
8月、第4中隊(軽戦車中隊)が創設される。後に第1中隊に名称変更。(中隊長:岡元功中尉、のち西田重二中尉、のち小松正俊中尉)
8月、少年戦車兵第1期生10名配属。
在満の歩兵連隊から准士官・下士官約40名が転入。戦時定員が概ね充足される。
戦車第4連隊から甲種幹部候補生10名が転入。
【昭和17年】
1月、第2代連隊長・木下武夫大佐(陸士33期)が着任。
4月、青野ヶ原の戦車第6連隊で教育を終了した16年次兵約300名が東安に到着。
8月、第5軍隷下の捜索連隊から初年兵約100名が転入。
9月、戦車第2師団の創設に伴い同師団の戦車第4旅団の隷下に入る。
第5中隊を創設(中隊長:君島亮介中尉)。将来砲戦車を装備予定だが、未だ生産されていないため57ミリ砲装備の九七式中戦車で編成された。
第1中隊(中隊長:服部保朗大尉)は第4中隊に、材料廠(廠長:池田高元大尉)は整備中隊に名称変更。
【昭和18年】
2月、ガダルカナル島撤退後の南方に対する数々の人員差出し命令により人員減少の一途を辿る。
4月、習志野の戦車第2連隊で初年兵教育を受けた17年次兵約300名が東安に到着。
8月、第3代連隊長・角健之大佐(陸士32期)着任。
【昭和19年】
1月、第24師団捜索隊から150名が転入。
2月、18年次兵役300名が東安に到着。これが連隊最後の初年兵となる。
北千島へ派遣された戦車第11連隊の残留者の一部が転入。
3月、第24師団捜索隊からの転入者全員が第14師団戦車隊要員としてパラオに転出。
4月、独立戦車第3中隊の編成を命ぜられ、第1中隊(軽戦車中隊)に動員を下令。中隊長(宇山福一中尉)以下94名がパラオに向かうが、輸送船が途中で米潜水艦の魚雷で沈没、海没生存者はサイパン島に上陸し後にここで玉砕する。
7月、第4代連隊長・原田一夫中佐(陸士32期)が着任。
連隊本部 | 九五式軽戦車×1両・47ミリ九七式中戦車×5両・装甲兵車×1両・自動貨車×1両 | 28名 | |||
連隊長 | 中佐 | 原田一夫 | |||
副官 | 大尉 | 君島亮介 | |||
指揮班長 | 少佐 | 今泉幸夫 | ルソン移動時に戦車第1師団兵器部員として転出 | ||
連隊付 | 中尉 | 蒲田明道 | のち、第2中隊長・生還 | ||
中尉 | 津守長治 | 津守軽戦車中隊へ中隊長として差出し | |||
中尉 | 魚形甚平 | のち第3中隊長 | |||
中尉 | 森田 茂 | ||||
中尉 | 角田正尹 | ||||
少尉 | 石破春実 | ||||
主計中尉 | 香川房夫 | ||||
主計中尉 | 松永信行 | ||||
軍医大尉 | 福岡 弘 | ||||
第1中隊 | 九五式軽戦車×10両・装甲兵車×2両・自動貨車×4両 | 約100名 | |||
中隊長 | 大尉 | 内田文夫 | レイテへ派遣・セブ島へ移動途中消息不明 | ||
指揮班長 | 中尉 | 足立正孝 | 津守軽戦車中隊へ差出し | ||
第1小隊長 | 少尉 | 大山 章 | 内田中隊としてレイテへ派遣される・生還 | ||
第2小隊長 | 少尉 | 矢野真治郎 | 内田中隊としてレイテへ派遣される | ||
第3小隊長 | 准尉 | 小川正則 | 内田中隊としてレイテへ派遣される | ||
第2中隊 | 九五式軽戦車×1両・47ミリ九七式中戦車×11両・自動貨車×4両 | ||||
中隊長 | 大尉 | 清水 徹 | 負傷後連隊指揮班長へ | ||
指揮班長 | 中尉 | 藤崎治平 | バシー海峡で海没・戦死 | ||
第1小隊長 | 少尉 | 三宅寿雄 | |||
第2小隊長 | 少尉 | 菅野 毅 | |||
第3小隊長 | 見習士官 | 吉田益美 | |||
第3中隊 | 九五式軽戦車×1両・47ミリ九七式中戦車×11両・自動貨車×4両 | ||||
中隊長 | 大尉 | 上野尚雄 | ルパオの戦闘で戦死 | ||
指揮班長 | 中尉 | 井上其治 | 魚形中隊長戦死後第3中隊長 | ||
第1小隊長 | 中尉 | 千島亀蔵 | ルパオの戦闘で体当たり自爆・戦死 | ||
第2小隊長 | 見習士官 | 新谷 猛 | 生還 | ||
第3小隊長 | 准尉 | 中西清重 | |||
第4中隊 | 九五式軽戦車×1両・47ミリ九七式中戦車×11両・自動貨車×4両 | ||||
中隊長 | 大尉 | 松枝賢亮 | |||
指揮班長 | 少尉 | 越後正男 | |||
第1小隊長 | 中尉 | 高田保雄 | のち、4中隊長・生還(平成18年没) | ||
第2小隊長 | 中尉 | 山本五三郎 | |||
第3小隊長 | 少尉 | 荒木義松 | バターン半島の永吉支隊に派遣され玉砕 | ||
第5中隊 | 九五式軽戦車×1両・57ミリ九七式中戦車×11両・自動貨車×4両 | ||||
中隊長 | 大尉 | 桜井隆夫 | バギオへ派遣・日本人墓地の戦闘で戦死 | ||
指揮班長 | 中尉 | 佐藤克己 | バギオにてゲリラの狙撃により戦死 | ||
第1小隊長 | 少尉 | 松下康治 | バギオの日本人墓地の戦闘で戦死 | ||
第2小隊長 | 少尉 | 山下博晉 | 任務終了後バギオ帰還途中で猛爆を受け戦死 | ||
第3小隊長 | 見習士官 | 藤田秀史 | 生還 | ||
整備中隊 | 47ミリ九七式中戦車×4両・自動貨車×14両(?) | ||||
中隊長 | 大尉 | 原口義隆 | |||
指揮班長 | 中尉 | 田中辰男 | |||
第1小隊長 | 少尉 | 木村成和 | |||
第2小隊長 | 少尉 | 村上勇三 | |||
第3小隊長 | 少尉 | 森 富男 | |||
整備小隊長 | 少尉 | 安藤一雄 |
(※ 各隊の戦車以外の車両数は戦車第6連隊を参考にして流用・実情とは不一致。)
8月14日、東安を出発し釜山を経て門司で船団を組みルソン島に向かう。
第2中隊乗船の「津山丸」がバシー海峡航行中に雷撃により海没。藤崎中尉以下40名を失う。
第5中隊は北サンフェルナンドに人員だけを揚陸、戦車だけをマニラに回航中に「大敏丸」が海没して戦車を失う。
10月、シブルスプリングに終結。
連隊付として秋山暉男少佐(陸士48期)が着任し、連隊本部指揮班長となる。
繰り上げ卒業でマニラに到着した少年戦車兵5期生のうち約30名が配属となる。
平地戦
昭和20年1月初旬、米軍のリンガエン湾上陸開始。
1月8日、戦車第2師団命令に基づきアグノ河河畔に向かって北進を開始し、1月末まで、サンマニエル東方のタユグ付近に位置する。
敵の南進に伴い、ルパオからサンイシドロの線に陣地を占領する旨の命令を受ける。
ルパオでは秋山部隊(秋山少佐指揮する第3中隊=長:上野大尉、戦車第7連隊の第2中隊=1個小隊欠、歩兵2個中隊、砲兵1個小隊、工兵1個小隊)が部落を拠点とする戦車のトーチカ用法で敵のM4戦車と戦闘。
1週間持久して2月8日に後方の山地に撤退。
3中隊長の上野大尉はM4戦車の砲を受け散華。
連隊主力(第2・第4・整備中隊)は、サンイシドロに陣地を占領し敵歩兵と戦闘。
2月6日、戦車第2師団命令を受け、後方山地に撤退。
2月15日頃、ドバックスに終結し、その後サンタマリアに位置して歩兵に改編。
この時の生存者は約420名。
連隊本部 | 連隊長 | 原田一夫 | 中佐 | 陸士32期 | 50名 |
本部付 | 秋山暉男 | 少佐 | 陸士48期 | ||
指揮班長 | 清水 徹 | 大尉 | 陸士54期 | ||
第2中隊 | 中隊長 | 蒲田明道 | 中尉 | 陸士56期 | 80名 |
指揮班長 | 林 秀夫 | 准尉 | |||
第1小隊長 | 三宅寿雄 | 少尉 | 16年甲 | ||
第2小隊長 | 吉田益美 | 少尉 | 17年甲 | ||
第3小隊長 | 山本俊一 | 准尉 | |||
第3中隊 | 中隊長 | 魚形甚平 | 中尉 | 少尉候補者22期 | 88名 |
指揮班長 | 沢田恭哉 | 准尉 | 3月20日負傷入院中の井上中尉が復帰交替 | ||
第1小隊長 | 柄沢寿明 | 見習士官 | |||
第2小隊長 | 阿部和一 | 少尉 | 少候23期 | ||
第3小隊長 | 中西清重 | 准尉 | |||
第4中隊 | 中隊長 | 高田保雄 | 中尉 | 陸士56期・現姓佐藤 | 51名 |
指揮班長 | 吉家善治 | 准尉 | |||
第1小隊長 | 八木正次 | 少尉 | 17年甲 | ||
第2小隊長 | 越後正男 | 少尉 | |||
整備中隊 | 中隊長 | 原口義隆 | 大尉 | 陸士55期 | 150名 |
第1小隊長 | 田中辰男 | 中尉 | 15年甲 | ||
第2小隊長 | 森 富男 | 少尉 | 16年甲 | ||
第3小隊長 | 木村成和 | 少尉 | 16年甲 | ||
整備隊 | 安藤一雄 | 兵技中尉 |
山地戦(サラクサク峠の戦闘)
3月4日以降、サラクサク第2峠の戦闘に参加。
当初はイムガン山西南方稜線のマツ陣地から、天王山に至る広正面に展開して敵を阻止。
大井工兵中隊、乾大隊(長:乾中尉=歩兵第39連隊第3大隊海没再編)、藤黒部隊(長:藤黒少佐・生還=独立歩兵第11連隊第2大隊)、鈴木部隊(長:鈴木少佐・生還のち平成3年没=捜索第10連隊)などが配属され、アキ(天王山周辺)、フユ(高田山・原口山)、ナツの各陣地を死守。
サラクサク第2峠頂上から見た”天王山”(米軍名504高地) (平成15年4月29日) |
”天王山”の頂上から見た”高田山”(米軍名505高地) (手前がサラクサク第2峠頂上) (平成15年4月29日) |
4月20日〜5月下旬、サラクサク第1峠の戦闘に移行。
徳永部隊(独立自動車第62大隊)、山下部隊(臨時第4野戦補充隊)などを配属され、神武山、スズメ陣地などを死守。
スズメ陣地周辺から見たサラクサク第1峠方向 (手前がスズメ陣地の一部か?) (遠方の山の辺りが第1峠) (平成17年5月4日) |
5月、バギオ派遣第5中隊の生存者(整備班他病人)約30名がイムガンに到着。
君島大尉が指揮して、アメ陣地を守備したが5月末玉砕。
6月4日、戦車撃滅隊の天城戦車隊に編入された第4中隊の川崎重信軍曹以下9名は、中戦車2両をもってボネで敵M4戦車を要撃し壊滅。
6月、戦車第2師団命令によりアンチポロに転進。
この時の人員は配属部隊を含め50名弱。
大部分が負傷者かマラリア患者。
途中、サリナスにおいて植山兵団の指揮下に入り「敵の後方攪乱」の命を受けるが、原田連隊長は植山兵団司令部の参謀長として転出。
連隊の指揮を秋山少佐が取るが7月から敵中に孤立。
(連隊長は7月21日にバンバン付近で戦死したとも、8月にタカログで消息不明ともいう)
連隊の輸送隊(=整備中隊:原口大尉)は秋山部隊と合流できず、連隊生存者は2つのグループに最後まで別れたままとなる。
7月末頃、秋山グループはバンバン北方高地での敵の後方攪乱を断念し、もとのサラクサク峠に引き返す。
途中、ルグルグでゲリラの襲撃に遭い、サラクサク峠に到着した時は14〜15名。
米軍が捨てていった食料を集め、この峠付近で戦死した戦友の遺体埋葬を毎日行っているうち、秋山グループ(生き残り11名)は10月末に終戦を知り武装解除された。
原口グループ(15名)は転進中、マラリアとゲリラに悩まされ、生き残り3名が終戦を知り武装解除されたのは昭和20年10月17日前後だったという。
各中隊生還者数(判明分)
第1中隊= 1名
第2中隊=18名
第3中隊= 7名
第4中隊= 1名
第5中隊= 5名
整備中隊= 4名
サイパン派遣第1中隊 |
昭和19年4月8日、独立戦車第3中隊(月12097部隊)の編成下令。
軽戦車の第1中隊を建制のまま派遣することになる。
中隊長 | 大尉 | 宇山福一 | 陸士55期 |
指揮班長 | 中尉 | 泉 聡吉 | 14年甲 |
第1小隊長 | 少尉 | 今出正雄 | 陸士56期 |
第2小隊長 | 少尉 | 波手大成 | 16年甲 |
第3小隊長 | 少尉 | 小林 謙 | 16年甲 |
人員:中隊長以下94名 |
昭和19年4月29日、パラオへ派遣のため東安を出発。
朝鮮を経由して釜山から下関に上陸。
陸路を移動し、横浜港から5月30日に出港。
高岡丸・勝川丸・はあぶる丸・玉姫丸(海軍船)・鹿島丸(海軍船)・海軍油槽船4隻・水雷艇鴻おおとりほか3隻が護衛。
サイパン派遣予定の独立臼砲第17大隊、パラオ派遣予定の独立臼砲第14大隊・独立戦車第3中隊・同第4中隊などが乗船。
輸送船は雷撃により次々と沈没。
独立戦車第3中隊は人員兵器の大部分を失い、生存者は海軍護衛艦と他の輸送船2隻に救助され、6月7日、サイパン島に上陸。
94名中、宇山中隊長・泉中尉・大城戸友善准尉・前田清秀曹長・難波繁雄軍曹・平井久彌軍曹・波手大成少尉など58名が海没。
生存者には兵器の支給なく、肉薄攻撃班としてサイパン島で全滅。
生還者は久保井(旧姓村尾)定美上等兵一人のみ。
レイテ派遣第1中隊 |
宇山中尉のサイパン派遣第1中隊が出発後、第1中隊は欠番となるが、戦車第11連隊から転入した千島移駐時の残留者200名を基幹に新たに第1中隊を編成。
昭和19年10月30日、レイテ島防衛に伴い、戦車第2師団(撃兵団)から軽戦車2個中隊(戦車第6連隊ならびに戦車第10連隊の各第1中隊)が輸送船4隻(能登丸・金華丸・香椎丸・高津丸)に分乗してマニラからレイテに派遣された。
これは榴弾砲牽引のため第1師団(玉兵団)に配属になったものである。
11月1日夕刻、全船オルモック港に到着。
オルモック港 (平成17年5月6日) |
中隊長 | 大尉 | 内田文夫 | 陸士54期 |
指揮班長 | 少尉 | 成田歳雄 | 少尉候補者第24期 |
第1小隊長 | 中尉 | 大山 章 | 16年甲種幹部候補生・生還・のち福島県白河第1小学校校長 |
第2小隊 | 少尉 | 矢野真次郎 | 陸士57期 |
第3小隊 | 准尉 | 小川正則 | |
整備班長 | 准尉 | 中川 清 | 生還 |
軽戦車×10両・装甲兵車×2両・自動貨車×4両(?) 人員:中隊長以下70名 |
第1師団野砲兵第1連隊の牽引任務終了後、歩兵第57連隊の戦闘に協力。
軽戦車3〜5両で歩兵・工兵と共に薄暮に乗じて敵陣に集中銃火を浴びせて突入。
敵陣を奪取すると、戦死傷者を装甲板上に積んで後方に下った。
11月26日、敵がM4を繰り出したのでカブラン方向に後退したが、途中で敵の待ち伏せ攻撃にあう。
リモン峠の最大の激戦は12月15日。
敵は空中から対戦車砲数門を投下して、攻撃を開始。
この戦闘は約5時間続き、第2小隊長矢野少尉・指揮班長成田少尉以下殆んどが直撃弾を受け戦車と運命を共にし、中隊は大半の人員を失う。
リモン峠 (平成17年5月6日) |
その後、中隊の生存者はレイテ島を脱出。
(土屋喜作軍曹)
単身でバンカーで出帆したがその後消息不明。
(内田大尉以下12名)
カルナサ島に到着後、内田大尉他3名がセブ島へ先発したが消息不明。
残留者は後に日本に向けて出帆するが、途中でゲリラや米軍の襲撃を受け、生存者は米軍に収容された浜田(旧姓中場)清軍曹と佐藤光裕伍長の2名。
(大山少尉以下10名)
船舶工兵隊の機帆船に便乗しセブ島に到着、2月中旬まで滞在。
ネグロス島に向かう途中で松永伍長以下3名が戦死。
ネグロス島到着後独立歩兵第172大隊に配属される。
(大山少尉は本部附、他の6名はそれぞれ中隊に配属)
ネグロス島の戦闘で石垣軍曹以下3名を失い、その後終戦を迎える。
第103師団派遣津守中隊 |
昭和19年10月、方面軍から第103師団(駿兵団)へ軽戦車1個中隊を配属する旨の命令を受ける。
よって、各部隊から差し出しの小隊をもって1個中隊を混成編成した。
中隊長 | 大尉 | 津守長治 | 戦車第10連隊より | 軽戦車×3両 |
指揮班長 | 中尉 | 足立正孝 | ||
第1小隊長 | 中尉 | 戸谷 芳 | 戦車第6連隊より | 軽戦車×3両 |
第2小隊長 | 少尉 | 大門英一 | 戦車第7連隊より | 軽戦車×3両 |
第3小隊長 | 少尉 | 磯貝武雄 | 師団整備隊より | 軽戦車×3両 |
第4小隊長 | 見習士官 | 岩井茂蔵 | 戦車第10連隊より | 軽戦車×3両 |
装甲兵車小隊 | 准尉 | 洞 良策 | 機動歩兵第2連隊より | 1個小隊 装甲兵車×1両 自動貨車×2両 |
師団整備隊より |
修理分隊1個 工作車×1両 |
戦車第10連隊からの差出し人員は17名。
昭和19年10月20日、師団内の各部隊から差し出された人員・車両はカバナツアンに集結して編成を完了。
直ちにアパリの駿兵団司令部に向かって出発し、11月初日、ツゲガラオに到着。
11月5日、ラロに到着してその後12月20日まで駐屯。
12月21日、ラロ東方山地に陣地を占領する旨の命令を受け、工兵隊が急造した戦車道を通って山上に向かうが、悪路のため僅か4〜5キロ進むのに4日間もかかる。
現地では昭和20年4月まで戦車壕の構築に専念。
4月11日、突然南進を命じられラロを出発。
移動は夜間のみのため、蚊取り線香を戦車の後部に吊るし、後続の戦車はそれを目印に前車に続くという方法。
このため一晩の移動距離は僅か10キロ。
6月下旬、イラガンに到着し、少し南下した小部落周辺に陣地を占領。
将校斥候でカワヤンに敵M4戦車が宿営しているのを発見。
現位置ではM4と交戦するには適していないためイラガンに戻る途中、イラガン河の橋梁の強度試験のため軽戦車1両が渡ったところ橋が崩れ河に落ち失う。
渡河が不可能になり北上を断念し、イラガン河の南側道を東進し、サンアントニオとハシエンダ間に分散遮蔽。
6月20日、M4戦車4〜5両が迫り、中隊陣地に砲撃を加えてきた。
敵は我が戦車を1両1両虱潰しに撃破。
2両を除き他の12両は全て破壊炎上。
この時の生存者は中隊長以下26〜27名。
M4に肉薄攻撃を敢行した車外員は全身蜂の巣のように機銃弾を浴びていたという。
翌日の夕方、残った2両を放棄して、東海岸を目指して転進。
山中に入り転進するが、徐々に脱落者や自殺者が出て、海が見えたときには生存者は12〜13名。
津守中隊長はその2〜3日後に死亡。
6月下旬〜9月上旬までの約70日をかけてシエラマドレ山脈を越えパラナン海岸に到着。
9月15日、米軍の投降勧告により収容される。
バギオ派遣第5中隊 |
昭和19年7月の動員時の編成では中隊長以下114名。
もともとは砲戦車中隊として創設されたが、砲戦車の生産が未だ緒についていなかったので57ミリ砲の九七式中戦車を装備した。
昭和19年9月30日、北フェルナンド港に入港したが、ウインチ能力不足のため中戦車の揚陸は不可能。
兵員と軽戦車、自動貨車(トラック)だけを揚陸し、中戦車はマニラ港に回航されたが、途中で雷撃により海没。
10月7日、シブルスプリングに到着。
10月末に第一次比島作戦当時使われて故障したまま倉庫に眠っていたオンボロ中戦車2両を含む10両の中戦車の補充を受ける。
12月2日、中隊は機動歩兵第2連隊第4中隊の1個小隊(中西一雄少尉指揮)を配属され、バギオに派遣された。
12月5日、バギオに到着し、東南の松林のある丘に陣地を構築。
数日後、中西少尉の歩兵小隊はマンカヤン銅山の警備のため出発。
配属工兵小隊(経遠少尉指揮・軽装甲車属す)は敵戦車に対する道路破壊等の任務のため、ベンゲット道(現:11号道路)へ向かう。
当時の桜井中隊長の最大の悩みは、殆んどの戦車が中古車だったため整備に大変苦労したことだという。
バギオ (平成15年4月30日) |
昭和20年1月〜2月、陣地構築。
3月10日、バギオ東南10キロのイトゴン付近のゲリラ討伐に行き、12日、トリニダットに引き揚げる時、ゲリラの狙撃により佐藤中尉が戦死。
その後も中隊は戦闘壕の補強と予備陣地の構築に明け暮れる。
山下小隊(第2小隊)
昭和20年3月14日、北サンフェルナンドを死守する林支隊(兵站部隊で編成)に撤退命令を伝える渡辺博方面軍作戦参謀(のち陸自中方総監)の護衛と、同地東方高地にある船舶砲兵連隊の野砲をバギオまで牽引後退するため北サンフェルナンドに向かう。
途中、地雷で戦車1両を失い、3両が現地に到着。
3月16日夜に戦車3両で野砲4門を牽引して陣地を出発、夜のうちにバギオの第一線友軍陣地に到着するはずだったが、川の橋梁が落されていたため渡渉に手間取り日の出となる。
北サンフェルナンド南側約1キロの国道上で、敵戦闘機の襲撃を受け全滅する。
北サンフェルナンド (平成15年4月30日) |
イリサンの戦車特攻(丹羽特攻隊)
昭和20年1月〜2月初め、バギオに対する敵地上部隊の攻撃は、主攻がベンゲット道とナギリアン道の両正面から指向され、特にナギリアン道方面の敵の攻撃が進捗。
昭和20年4月15日、バナンガン方面の陣地が突破され、翌朝にでも敵の戦車がバギオに突入し得る距離まで迫る。
このため軍命令により戦車による特攻隊が編成された。
戦車全面に爆薬を装着して敵戦車に体当たりするという特攻は、日本戦車隊初めてで最後のことである。
軽戦車 | 車長 | 准尉 | 丹羽治一 | 陸士54期 |
操縦手 | 軍曹 | 平野伊孝 | 体当たり後、敵に斬り込み戦死 | |
砲手 | ||||
銃手 | 伍長 | 末吉清一 | ||
車外員 | 伍長 | 黒川利美 | ||
兵長 | 中山誉雄 | 誘爆により砲塔と一緒に飛ばされ生還 | ||
中戦車 | 車長 | 曹長 | 西 利良 | 北海道の歩兵連隊から戦車隊に転入した人 |
操縦手 | 軍曹 | 平野国雄 | 体当たり後、敵に斬り込み戦死 | |
砲手 | 軍曹 | 浜野音蔵 | ||
銃手 | 兵長 | 四方 驥 | ||
車外員 | 軍曹 | 道清 茂 | 突入直前に負傷・生還 | |
兵長 | 田村平一 |
4月15日日没近く、特攻戦車(軽戦車×1・中戦車×1)がバギオを出発。
戦車の全面に約1メートルの架を作り、これに爆雷10キロを全面2箇所に装着。(爆薬計20キロ)
肉攻の車外員は布団爆雷を抱え、腰に数発の手榴弾の格好で戦車の背中に乗る。
イリサン橋通過後の道路屈曲部の竹薮の中に隠れ偽装。
4月17日午前9時30分頃、敵M4戦車群に突入。
敵戦車は浮き足立ってM4戦車1両が道路左側の谷地に転落。
軽戦車(丹羽)は先頭車の横を通り越して、その後方のM4に体当たり。
中戦車(西)は先頭のM4と刺し違えた。
突入の直前、車外員は戦車の背中から飛び降り布団爆雷を抱えてM4に突入したという。
M4戦車2両撃破、11名中2名が生還。
この丹羽特攻隊の戦車頭突き攻撃によって、米軍のバギオ攻略は1週間遅滞したが、既にイリサンの攻防は最終段階。
4月21日、方面軍から「日本人墓地付近へ出撃」の命が出る。
ナギリアン道からバギオに入ろうとする敵は、どうしても、この墓地の横を通らねばならないので、ここが我が軍にとってバギオ防衛の最後の拠点となる。
4月22日夜、桜井中隊は、中隊を戦車特攻班と肉攻班の2つに分け、歩兵第71連隊第10中隊(長:大山正一中尉)を指揮下に入れトリニダットから出撃。
中隊の戦力は中戦車2両、軽戦車1両(故障)、総員約60名。
墓地周辺に敵の姿がなかったので、戦車は敵から見えない山陰の窪地に、肉攻班は山脚に、車載機関銃の分隊は側方の山の頂上に配置。
4月23日午前8時、敵の猛砲撃。
夕方になって敵戦車が幹道から次々と墓地内に移動し始めたので、中隊は突撃を開始。
桜井中隊長は戦車と右側肉攻班を指揮し、藤田(現姓梅田)秀史少尉は左側肉攻班を指揮。
桜井中隊長は左胸部に機関銃弾を受けて戦死。
松下康治少尉の戦車は敵の焼夷徹甲弾により大爆発。
この戦闘で、中隊長以下約20名を失い、生存者は約40名。
バギオの日本人墓地 (平成15年4月30日) |
夜暗に乗じて敵から離脱し、翌朝、トリニダット帰還。
早速、方面軍から原隊復帰命令を受け、アリタオへ向かう。
ここで、戦傷者や悪性マラリアに罹っていた正木准尉以下7〜8名をサンタマリア錬成隊に残し、戦闘に堪え得る約20名はサラクサク峠で激戦中の連隊に帰るため、サンタフェを経てイムガンに向かった。
5月末、君島大尉が指揮してアメ陣地を守備したが玉砕。
サンタフェ (平成15年4月28日) |
イムガン (平成15年4月28日) |
バターン派遣・荒木小隊 |
昭和20年1月上旬、第4中隊第3小隊(長:荒木義松少尉)は師団命令により永吉支隊(歩兵第39連隊)の指揮下に入りバターン半島に派遣された。
小隊長車 | 車長 | 少尉 | 荒木義松 |
砲手1 | 軍曹 | 山本 賢 | |
砲手2 | 軍曹 | 山谷正郎 | |
操縦 | 軍曹 | 増田 清 | |
通信 | 兵長 | 前川 | |
予備 | 上等兵 | 白川源七 | |
第2車 | 車長 | 曹長 | 川上 宗 |
砲手1 | 軍曹 | 羽柴 | |
砲手2 | 伍長 | 松尾 正 | |
操縦 | 伍長 | 玉有 栄 | |
通信 | 兵長 | 進士信昭 | |
予備 | 上等兵 | 森川久男 | |
衛生兵 | 上等兵 | 伴 輝雄 |
永吉支隊は昭和20年1月上旬、戦車第2師団(撃兵団)の隷下に入るが、1月11日には指揮を離れ、建武集団の指揮に入る。
1月中旬、永吉支隊から荒木戦車小隊は配属を解かれたが、原隊復帰は状勢上困難と判断。
そのまま永吉支隊と行動を共にすることになる。
戦車小隊は吉連隊付中山少佐の指揮する臨時編成の中山大隊(飛行第15戦隊基幹)の第1中隊(長:永田中尉・生還)に配属され、金剛山(コロラド山)中腹に陣地を占領。
臨時第1大隊(飛行第15戦隊基幹)
大隊長 歩兵第39連隊付 中山少佐
第1中隊 永田雄一郎中尉(陸士56期)以下約100名・荒木戦車小隊
第2中隊 寄せ集めの兵で編成
背後のデナルビアン方面より来襲する敵を攻撃し、多大なる戦果をあげるが、2月13日頃、荒木小隊長戦死する。
戦車は爾後陣地内に復帰し、本道上の要点を占領し善戦奮闘するが玉砕。
生存者2名がその後も中山大隊と行動を共にしたが、その後の消息は不明。
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