(通称号:先497部隊)
編成地 | 編成時期 | 終戦時の上級部隊 | 終戦時の所在地 |
満州国・斐徳 | 昭和15年 | 戦車第2師団 | 北千島・占守島 |
昭和15年3月1日、戦車第5連隊、戦車第9連隊から要員を抽出して満州国東安省斐徳にて編成。
戦車第2師団の隷下に入り、東部国境の警備に当る。
昭和19年2月10日、戦車第2師団の隷下を離れ、北千島への転進が決定。
2月26日、北海道小樽に集結。
主力部隊は千島列島最北端の占守島に駐留し、一部は幌延島、松輪島、得撫島に分散駐留する。
昭和20年8月9日、ソ連軍参戦。
8月18日、ソ連軍が武装解除の準備をしていた日本側の停戦交渉に応じず、砲撃を加えながら上陸してきたため戦闘状態に陥る。
戦車第11連隊は全軍の先頭に立って応戦したが、多大な損害を被り、池田連隊長以下96名が戦死、21両の戦車が失われた。
8月19日、停戦協定成立。
停戦後は占守島第9作業大隊に編入されウラジオストクへ護送された。
戦車第11連隊 士魂碑 (愛知県幡豆郡三ヶ根山・比島観音霊場) (平成17年4月3日) |
士魂之碑由来
この碑は過ぐる太平洋戦争中皇土最北端の占守島をはじめ大東亜の各戦場において護国の英霊と化した戦車第11聨隊(士魂部隊)関係者の霊を慰めその武勲を永く後の世に顕彰するとともに、在りし日の戦友が冀った祖国の繁栄と人類の平和を祈願して、元士魂部隊関係生存者が浄財を寄進し由緒深い三ヶ根山太山寺住職小笠原芳戒師の御懇篤な御配慮に依ってこの地に建立したものである。
士魂部隊は昭和15年3月満州国東安省斐徳に創設され満ソ国境警備の任に服すること4年、昭和19年2月転進命令により千島列島に上陸して皇土防衛に当った。
昭和20年8月15日部隊はポツダム宣言を受諾し一旦は矛を収めたが8月18日未明ソ聨軍が不法上陸攻撃を試みるに及び、自衛の為敢然起って敵を迎え撃ち敵に多大な損害を與えてソ聨軍の野望を粉砕し、終戦の歴史に光輝ある一頁を飾った。
然しながらこの戦斗に於て士魂部隊は96名将兵の犠牲を出すに至った。
また、ひとたび士魂部隊に入隊しながら或いは中隊単位で又は単身他部隊に転属した戦友の中には、比島、沖縄をはじめ各地の戦場に於て士さむらいの魂こころを発揮して勇戦奮闘、或いは敵弾に倒れ、或いは戦傷病等により若い生命を散らしたのである。
この碑を建立するにあたり士魂碑と銘し、後世に伝える所以である。
昭和52年11月23日
士魂碑建立委員会
士魂碑の碑文 元戦車第3師団長 山路秀男閣下 謹書
(説明銘板より)
編成表(昭和20年6月30日現在)
本部 | 装備:九五式軽戦車×1輌・九七式改中戦車×2輌 総員:78名 | ||
連隊長 | 大佐 | 池田末男 | |
指揮班長 | 少佐 | 丹生勝丈 | |
築城係 | 大尉 | 高石長四郎 | |
連隊副官 | 大尉 | 緒方静雄 | |
通信班長 | 大尉 | 佐藤三男 | |
動員主任 | 中尉 | 米田岩夫 | |
連絡係将校 | 中尉 | 吉田重行 | |
主計 | 主計大尉 | 服部英雄 | |
主計見習士官 | 時国範夫 | ||
軍医 | 軍医少佐 | 木下不二夫 | |
軍医大尉 | 加藤次郎 | ||
軍医中尉 | 永尾重男 | ||
軍医中尉 | 竹森忠 | ||
第1中隊 | 装備:九五式軽戦車×3輌・九七式中戦車×4輌・九七式改中戦車×4輌 総員:93名 | ||
中隊長 | 大尉 | 船水達夫 | |
指揮班長 | 中尉 | 岡部孝男 | |
第1小隊長 | 見習士官 | 芦田章 | |
第2小隊長 | 見習士官 | 草野輝夫 | |
第2中隊 | 装備:九五式軽戦車×2輌・九七式中戦車×5輌・九七式改中戦車×4輌 総員:99名 | ||
中隊長 | 大尉 | 宮家儀 | |
第1小隊長 | 中尉 | 篠田民雄 | |
第2小隊長 | 准尉 | 佐藤 | |
第3小隊長 | 少尉 | 渡辺要 | |
指揮班長 | 見習士官 | 田中章雄 | |
第3中隊 | 装備:九五式軽戦車×3輌・九七式中戦車×4輌・九七式改中戦車×4輌 総員:94名 | ||
中隊長 | 大尉 | 藤井和夫 | |
第1小隊長 | 中尉 | 小島康雄 | |
第2小隊長 | 見習士官 | 高木弘之 | |
第3小隊長 | 見習士官 | 内田弘 | |
第4中隊 | 装備:九五式軽戦車×11輌 総員:105名(独立戦車第2中隊主力) | ||
中隊長 | 大尉 | 伊藤力男 | |
第1小隊長 | 中尉 | 岡田健造 | |
第2小隊長 | 少尉 | 阿部久三 | |
第3小隊長 | 少尉 | 佐藤浩一 | |
段列 | 見習士官 | 鈴木三郎 | |
第5中隊 | 装備:九五式軽戦車×2輌・九七式中戦車×4輌・九七式改中戦車×4輌 総員:99名 | ||
中隊長 | 中尉 | 古沢薫 | |
第1小隊長 | 中尉 | 上ノ山清二 | |
第2小隊長 | 見習士官 | 大橋輝二 | |
第3小隊長 | 見習士官 | 藤井利夫 | |
第6中隊 | 装備:九五式軽戦車×3輌・九七式中戦車×2輌・九七式改中戦車×2輌 総員:107名 | ||
中隊長 | 大尉 | 小宮要 | |
第1小隊長 | 中尉 | 吉原林八 | |
第2小隊長 | 少尉 | 中村敬三 | |
第3小隊長 | 見習士官 | 吉原大 | |
第4小隊長 | 見習士官 | 横山昌巳 | |
整備中隊 | 総員:89名 | ||
中隊長 | 大尉 | 石山定夫 | |
修理小隊長 | 中尉 | 本間孝一 | |
附 | 技術少尉 | 緒方武資 | |
附 | 技術見習士官 | 葛西芳 | |
附 | 技術見習士官 | 栗林謙三 |
兵員は少年戦車兵(第1期〜第5期)出身が44名。
その他の下士官兵は15年徴集(新潟・福島・宮城・四国4県)、16年徴集(新潟・福島・宮城・北海道)、17年徴集(静岡・愛知・岐阜)が主体。これに各地からの補充召集入隊があった。
参考:川村温夫著『偲び草』
(平成18年1月20日追記)
占守島の対上陸戦 |
昭和20年8月18日、占守島東北端の竹田浜にソ連軍が艦砲射撃の援護の下に上陸する。
沿岸警備担当の独立歩兵第282大隊が反撃を開始する。
午前2時半、戦車第11連隊は第91師団長より攻撃命令を受領。
午前5時、戦闘準備を完了し、天神山に集結。
午前6時過ぎ、池田連隊長は各隊に攻撃命令を発令し、四嶺山南麓の台地に進出。
午前6時50分、堤師団長・杉野旅団長に対し訣別通信を発信。
午前7時50分、攻撃前進を下令。
左から第4中隊、第3中隊、第1中隊、連隊本部、第6中隊、第2中隊の横一線で約40両の戦車を展開して前進。
ソ連軍第一線より対戦車砲・対戦車銃の攻撃を受け混戦となる。
擱座した戦車の乗員による肉弾戦も展開。
約2時間後、ソ連軍は100名以上の死体を残し竹田浜へ退却。
戦車第11連隊は池田連隊長、丹生指揮班長、緒方副官以下、船水大尉、宮家大尉、藤井大尉、小宮中尉など各中隊長を含む96名と戦車21両を失う。
以後、第4中隊長・伊藤大尉が連隊の指揮を執り戦闘を続行。
午後4時、攻撃中止の師団命令を受領し、そのままソ連軍と対峙。
その後停戦協定が成立し戦闘を終了した。
展示パネル(札幌護国神社・遺品殿)
(平成22年5月26日)
『国土を護った最後の戦い』
昭和20年8月18日〜21日
北千島の対ソ連防衛戦闘
(展示パネルより)
(平成25年7月28日)
ロシア共和国・ウラジオストク要塞博物館
九五式軽戦車 | 九七式中戦車 |
九五式軽戦車 | 新型砲塔の九七式中戦車 |
九七中戦車 |
【関連慰霊碑】
北千島 慰霊碑 (札幌護国神社) (平成22年5月26日) |
【碑文】
千島列島ノ最北端ニ位置スル占守 幌莚ナド北千島ノ諸島ハ、大東亜戦争ニオケル本土防衛ノ北東方面第一線ニシテ コレヲ守ル第5方面軍第91師団ヲ基幹トスル陸海軍将兵及ビ民間産業戦士等ハ、北洋ノ孤島特有ノ酷烈ナル自然ノ重圧ト、戦況ノ悪化ニ伴ウ補給途絶ノ報告ニ耐エツツ 長期ニ亘リテ志気些カモ衰エルコトナク、迎撃ノ闘魂ニ燃エテ防衛任務ヲ遂行セリ。
然乍ラコノ間ニオイテ、或イハ空中戦ニ、或イハ米軍ノ艦砲射撃ヤ空爆、輸送中ノ雷撃ヤ疾病等ニヨリ 任務ニ殉ゼル者モ、ソノ数少ナカラズ。
昭和20年8月18日未明 時既ニ終戦ノ大詔ハ煥発サレ全軍矛ヲ収メタル後ナルニ、突如、ソ連軍ハ猛烈ナル砲爆撃ノ支援ノモト、全北千島占領ノ企図ヲモッテ、占守島国端ノ竹田浜ニ攻撃シ来レリ。
予期セザル奇襲ニ対シ自衛ノタメ直チニ反撃ニ立テル我ガ軍ハ、激闘数時間ニシテ敵ニ壊滅的打撃ヲ与エテソノ行動ヲ頓挫セシメ、更ニ敵ヲ一挙ニ水際ニ殲滅スルノ態勢ニ至レルモ、軍命令ニヨリ、同日16時攻撃ヲ停止、停戦協定ヲ締結シ、23日武装ヲ解ク コノ戦闘ニオケル我ガ軍ノ戦死約7百名ナリ。
コノ後 全将兵ハソ連領内ニ抑留サレ、酷寒ト飢餓ト恥辱ノ境ニ彷徨シツツ強制労働ニ服スルコト数歳、遥カニ祖国ヲ望ミナガラ非命ニ倒ルルモノ多キハ、痛恨ノ極ミナリ。
戦後時移リテ三十星霜 未ダ戦跡ヲ訪ネテ弔ウヲ得ズ、シカモ北千島戦史ノ世ニ埋没シユクヲ悲シム。
茲ニ戦友遺族相倚リ、殉国ノ英霊神鎮マリマス札幌護国神社ノ境内ニ碑ヲ建テ、ソノ武勲ヲ讃エテ、英魂ノ永遠ニ安ケキヲ祈念スルモノナリ。
昭和50年8月23日
北千島関係戦歿者慰霊碑建立者 識
碧血留魂 北千島 占守島 四嶺山の石 (平成22年5月26日) |
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