戦車第2連隊

(通称号:顕12385部隊)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
千葉 昭和8年改編 独立戦車第2旅団 神奈川県・戸塚

大正14年、千葉歩兵学校戦車隊として創設。
昭和8年、戦車第2連隊に改編。
昭和16年、南方軍命令により第55師団に配属され、カムラン湾に進出。
昭和17年3月、第15軍の戦闘序列に入り、ビルマへ転戦。
ペグー北方で英印軍M3戦車と戦火を交え、軽戦車1個小隊が全滅する。
同年8月、独立戦車第1中隊を編成完結し、ガダルカナル島作戦に参加。
昭和20年4月、独立戦車第2旅団隷下に入り、神奈川県戸塚で終戦を迎えた。


戦車第2連隊跡の碑



『戦車第2聯隊跡』の碑

(千葉県習志野市・日本大学生産工学部)





(平成18年8月31日)

戦車第2聯隊の跡

戦車第2聯隊は昭和8年8月千葉陸軍歩兵学校教導隊戦車隊を強化改編して、国軍最初の戦車聯隊として創設され、騎兵第14聯隊駐屯の跡に移駐した。
その練習部は、全国歩兵聯隊から派遣された将校・下士官の教育に専念し、後に陸軍戦車学校に発展した。
昭和12年7月動員下令、聯隊の主力は北支に出動。
保定会戦、黄河以北戡定作戦、徐州会戦等に赫々たる武勲を揚げた。
13年7月、部隊は戦車第8聯隊に改編され、中原会戦、満州、北支警備等の後、17年秋、南海のラバウルへ転進した。
戦車第2聯隊は昭和13年7月留守隊を強化し、此処習志野で再編成された。
16年秋再び動員され、蘭印作戦に参加し各地に善戦した。
分遣された第1中隊はビルマ、第4中隊はガダルカナルに於て悪戦苦闘した。
聯隊は17年秋習志野に帰還した。
この間、習志野で編成した戦車第4大隊は昭和9年奉天に、支那駐屯軍戦車隊は11年天津、戦車第17聯隊は17年綏遠省平地泉、独立戦車第7・第8中隊は19年夏フィリッピンに派遣された。
河野第7中隊はレイテ島に、岩下第8中隊はマニラ飛行場周辺に三度壮烈な出撃戦を展開、戦車魂を発揮して全員華と散った。
戦局緊迫するや、動員令により戦車第2聯隊は昭和19年相模地区に移動、その補充隊は20年4月新たに6個の戦車聯隊を編成し、相共に配備につき本土決戦に備えたが、8月終戦を迎えた。
この度、日本大学当局より理解ある御協力を戴き、有志相図り、幾多戦友の偉勲を偲びつつ、此処戦車第2聯隊駐屯の跡に、この碑を建て聯隊の事蹟を永く伝う。

昭和63年8月1日
戦車第2聯隊会

戦車第2連隊跡



戦車第2連隊跡
(千葉県習志野市・日本大学生産工学部)





(平成18年8月31日)
日本大学生産工学部



日本大学生産工学部(津田沼キャンパス)
(戦車第2連隊跡)

(千葉県習志野市泉町1−2−1)



(平成18年8月31日)

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