静岡県沼津市我入道蔓陀ヶ原517−1
平成18年4月15日
芹沢文学館は沼津市我入道で生れ、日本の文学界に大きな足跡を残した芹沢光治良を記念して建設されました。
95年の生涯と文学活動の貴重な資料が展示され、芹沢文学を知る上で欠かせない所となっています。
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芹沢光治良 (展示パネルより) (平成18年4月15日) |
芹沢光治良(せりざわこうじろう)1896〜1993
明治29年(1896)5月4日、沼津市我入道に生れる。
楊原小学校から県立沼津中学校に入学し、第一高等学校に進学、東京帝国大学経済学部を卒業。
在学中、高等文官試験に合格し、卒業後、農商務省に入ったが、官を辞してフランスに留学、スイスで療養生活を送り、帰国して書いた「ブルジョア」が『改造』に当選して、作家生活に入る。
「巴里に死す」「サムライの末裔」でフランス友好国際大賞を受賞、代表作である大河小説「人間の運命」で芸術院賞を受賞。
また、日仏文化交流の功労者としてフランス政府からコマンドール章を受賞。
昭和43年(1968)ユネスコ運動の功績で勲三等瑞宝章を受ける。
日本ペンクラブ会長、文芸家協会理事、ノーベル賞推薦委員、日本芸術院会員などを歴任。
昭和55年(1980)沼津市名誉市民となる。
89歳より「神の微笑」から始まるシリーズ8冊を執筆。
平成5年(1993)3月23日、東京都中野区東中野の自宅において死去。
享年96歳。
沼津市中瀬町、市営墓地に眠る。
(パネル説明文より)
1896年 | 明治29年 | 楊原やなぎはら村我入道に生れる。 3歳のころ両親と別れ祖父母と叔父叔母に育てられる。 |
1904年 | 明治37年 | 楊原小学校に入学。神童のほまれが高かった。 |
1910年 | 明治43年 | 旧制沼津中学校へ入学。特待生を続ける。 |
1915年 | 大正 4年 | 同校を卒業し、沼津町立男子小学校で一学期間代用教員を務める。 受験準備のため原町の豪族植松家の家庭教師として住み込む。 |
1916年 | 大正 5年 | 旧制第一高等学校に合格。 〜沼津を後に東京へ〜 |
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大正4〜5年 20歳頃 中学の校長先生の紹介で近郷原町の植松本家で住み込みの家庭教師をしていた頃。 大正5年、一高に合格して東京へ。 「この家庭で私は初めて食事らしい食事をし、家庭の団欒と安らぎを知った。・・・・」 〜芹沢光治良『わが青春』より〜 (パネル説明文より) (平成18年4月15日) |
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1階展示室 (平成18年4月15日) |
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展示資料 『人間の運命』 (平成18年4月15日) |
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2階展示室 (平成18年4月15日) |
芹沢光治良・人と文学
我入道に生を受けた芹沢光治良は、幾多の艱難を乗り越えながら、沼津中学校入学を果たした。
さらに第一高等学校から東京帝国大学、官吏、洋行とエリートへの道を歩むが、フランス留学時代に結核に罹ったことをきっかけとして作家になる決意を固めた。
昭和5年、国際情勢を反映した小説「ブルジョア」を発表し、鮮烈なデビューを果たす。
昭和17年、戦時下にありながら、まったく戦時色を感じさせない「巴里に死す」を執筆、生命の尊さと美しさ描いて多くの読者を魅了した。
戦後、主体的に生きる女性をいち早く描き、混乱した時代にあって、自立した女性像を提起した。
昭和37年、ライフワークたる『人間の運命』を執筆、明治・大正・昭和という激動の時代を生きる森次郎を主人公に、14巻に及ぶ大河小説を著して、芸術選奨文部大臣賞を受賞した。
また晩年は『神の微笑』に始まる連作において、生涯のテーマである神と魂の問題を追求し、多くの新たな読者を獲得した。
芹沢文学の特徴は、作品の題材を自身の生い立ちや体験に取材しながら、私小説になっていないことである。
作品の魅力はそのまま作者の魅力につながっているが、それは幼い頃から逆境のなかで育ち、その困難に負けることなく、未来を信じてひたむきに生きた人間の素晴らしさである。
その真摯な生き方に、多くの読者が感動と共感を覚えるのであり、さらには言語や国境越えて読者を魅了して、海外でも高い評価を受けているのである。
(展示パネルより)
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処女作『ブルジョア』を書いた机と椅子 1921年頃購入 (平成18年4月15日) |
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我入道公園 文学館は、この公園の中にあります。 (平成18年4月15日) |
ご案内
開館時間:(3月〜10月)10時〜5時 (11月〜2月)10時〜4時30分
入館料:大人500円
休館日:毎週水曜日(祝日の場合は翌日)・12月26日〜1月7日
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