島原城 しまばらじょう

(別称:森岳城・高来城)

島原市城内1−1183−1


寛永2年(1625年)に松倉重政まつくらしげまさが築いた平山城である。
重政は大阪の陣(1614年〜1615年)の軍功で元和2年(1616年)に4万石を領してキリシタン大名有馬氏の旧居城日野江ひのえに入った。
入部まもなく島原浜の城に移り、、一国一城令の発令後にも関わらず、幕府の九州外様大名への牽制と対キリシタン政策から特別許可を得て、元和4年から新城の建設に着手した。
日野江城、原はら城から石材を運び、寛永2年(1625年)三層五重の天守閣のそびえる平城が完成する。
新城に移った重政は領内のキリシタン取り締まりに努めたが、寛永7年に死没。
家督を継いだ勝家は父以上にキリシタンを弾圧し、年貢の取立てを強行した。
このため、寛永14年に島原半島と肥後国天草島の農民が相呼応して一揆を起こし、「島原の乱」へと発展した。
勝家は責任を問われて所領を没収され、以後、城主は高力こうりき、松平(深溝ふこうず)、戸田、再び松平(深溝)と4氏が続いた。


島原城

5月5日に訪問したので鯉のぼりやら旗などで飾られていました。

島原城天守閣

寛永2年(1625年)以来の天守は明治7年〜9年にかけて他の建物とともに破却されました。
新しい天守は昭和39年に外観復元されたものです。

二の丸の石垣

手前の石垣は二の丸の石垣です。
立派です。

二の丸から見た島原城





二の丸の方向から見た天守です。




(平成12年5月5日)


城内の施設

天守閣(キリシタン史料館)
島原の乱にまつわる数多くの史料が展示してあります。
観光復興記念館
噴火活動の経過をはじめ、島原の歴史・文化などを映像及び資料で紹介しています。
北村西望記念館
日本彫塑界の巨匠で、文化勲章を受賞した郷土出身の芸術家、北村西望氏の米寿を祝して、代表作60点を展示した他に類のない彫塑芸術の施設です。


共通入館料(天守閣・観光復興記念館・西望記念館)
大人520円  小・中・高生260円
(平成12年現在)

(島原城のパンフレットより)


天草四郎の銅像

北村西望氏作の天草四郎の像です。


【島原城と島原の乱】

島原城の位置するところは、古く森岳もりたけといった。
天正12年(1584年)、18歳の有馬晴信が島津氏の助勢を得て、大敵である龍造寺隆信りゅうぞうじたかのぶを沖田畷おきたなわてに討ち取ったとき、本営を置いた故地である。
その森岳に島原城を築いたのは、松倉重政である。

重政は大和(奈良県)の出身で、はじめ筒井氏に従っていたが、関ヶ原の合戦の戦功を認められて家康から大名に取り立てられた人物で、なかなかの名君だったと伝える。
重政が島原藩4万石に封じられたのは、元和2年(1616年)8月のことである。
当初、重政は有馬氏の居城であった日之江ひのえ城に入ったが、日之江城は島原半島の南に偏り過ぎ、城下町を営む余地も乏しかったため、元和4年に至って、森岳に新城を築くことになった。
重政は築城の名手でもあったようで、島原城の縄張、とりわけ堅固極まる本丸部分の精妙な構造や、大手門の南方に外海への門戸を開く舟入りを付属させた目配りなどによっても知ることが出来る。

島原城は、このような堅固さに加えて、城地の周辺が合計4キロに及ぶため、4万石には分に過ぎた城といえる。
その分に過ぎた城を完成させるため、松倉氏の領内では夫役ぶやくをはじめ苛酷な収奪が農民層を苦しめたと想像されている。
しかし、その実態、特に夫役については、もう一つはっきりしない。
だいたい城普請には費用がどのくらいかかったのか、何人ぐらいの労務者が徴発されたのかなど、今もって不明な部分が少なくない。

築城後まもなく島原城を見舞った「島原の乱」は、一説には、この乱の主要な原因は、築城時に領民に課せられた過重な労働負担(厳しすぎる夫役)にあったとも言われているが、島原城が完成したのは寛永2年(1625年)で、島原の乱が起こったのは同14年と、12年もの隔たりがあるので、夫役の過重負担ばかりを強調するのは、いささか行き過ぎと言えよう。

島原の乱の主力を形成したのは、農民層と手ひどい弾圧に晒された切支丹キリシタンたちであった。
一揆の火の手は島原半島と天草の2ヵ所から上がったが、決起は島原半島の方が10日ほど早く、その直接の原因は松倉重政の嗣子・勝家の苛政かせいにあったと言われている。
有名なのは、蓑みの踊りであろう。
年貢を納められない農民に蓑を着せ、手足を縛って木に括りつけたうえ、見せしめとして焼き殺すという刑罰である。
この蓑踊りはともかく、農民に対する苛政は、勝家だけでなく、諸国の大名がこぞって行なっている。
それなのに勝家だけが、ひとり暗君・暴君の悪名を背負わされることになったのは、寛永11年頃から領内に凶作が続き、餓死者も出るという窮状をかえりみず、収奪につぐ収奪を強行したことである。

ともあれ、島原の一揆は寛永14年10月なかばに勃発した。
この年は、夏が干ばつ続きで、秋に桜が咲くという異常気象で、人心の動揺はひとかたならぬものがあった。
そして更に、有馬村代官・林兵左衛門はやしへいざえもんが農民層を逆撫さかなでする言辞に及んだため、ついに彼らは代官殺害という挙に出たため、島原藩は内乱状態となる。
続いて一揆軍は加津佐かづさ、小浜おばま、千々石ちぢわなどでも代官を殺し、大挙して島原城に押し寄せた。
一揆軍には、旧主・有馬氏の転封に従わなかった土着の武士が多く加わっており、一方、島原城側は勝家が参勤交代で江戸に出ており、守りは薄かった。

だが、島原城は、さすがに攻め難く、一揆軍は島原藩領の3分の1を勢力下におさめながら、あえて強行策を取らなかった。
そして11月下旬、天草一揆と合流し、12月上旬には幕府軍の九州上陸を知って原はら城に立て籠もる。
こうして始まったのが、3ヵ月にわたり、江戸幕府の心胆を寒からしめ、「鎖国令」を発布させるに至った「島原の乱」である。

(参考:百瀬明治 著 『日本名城秘話』 徳間文庫 1995年1月初刷)

(令和2年7月16日 追記)


復元イラストと古絵図で見る 日本の名城
全国城郭管理者協議会/監修  碧水社  1998年改訂第2刷発行 1,600円+税
島原城の話
渋江鉄郎 著  昭和堂印刷総合企画  昭和63年第三版発行  1,480円
島原魂[しまばらこん]
渋江鉄郎 著  昭和堂印刷総合企画  昭和52年・1,000部限定版発行  1,900円
島原秘話
渋江鉄郎 著  昭和堂印刷総合企画  昭和54年発行  1,400円



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