シーボルト像 平成19年3月27日

シーボルト Philipp Franz Jonkheer Balthasar von Siebold

1796年2月17日〜1866年10月18日

長崎県長崎市・シーボルト宅跡でお会いしました。


シーボルトは文政6年(1823年)オランダ商館付き医師として長崎に着任しました。
日本の歴史・地理・言語・動植物などを研究しています。
診療のかたわら、鳴滝なるたき塾を開き、高野長英など数十人の門人に医学・博物学を教授して蘭学発展に大きく貢献しました。
文政11年(1828年)帰国の際に「大日本沿岸輿図全図」などの禁制品を持ち帰ろうとしたことが発覚し、翌年国外追放となりました。これがいわゆる”シーボルト事件”といわれているものです。
安政6年(1859年)オランダ商事会社の顧問として再来日し、江戸幕府の外交にも参画しました。
文久2年(1862年)帰国、4年後にミュンヘンで亡くなりました。


シーボルト像



シーボルト像
(長崎市・シーボルト宅跡)





(平成19年3月27日)

頌シーボルト先生

本邦近代文化の芽は先生の手でこの地に培われ繚乱の華を咲かせた
日独両政府及び心ある人々によってここに温容を復元しこの花園を永遠に清く美しく保たん

1962年秋
シーボルト先生史跡保存會々長 北村精一
長崎市長 田川 務

(碑文より)

シーボルトと鳴滝塾なるたきじゅく・アジサイ

1823年(文政6)出島オランダ商館医として来日したシーボルトは、翌年長崎奉行の許可を得て、この鳴滝の地に学塾を開きました。
シーボルトは、鳴滝塾で患者の治療や、全国各地から集まった多くの門弟たちに西洋の進んだ学問や科学的な思想を教え、その一方で、門弟たちの協力を得ながら積極的に日本研究を行いました。
ここで学んだ門弟達の中には、その後幕末に活躍した蘭方医らんぽういも多く、鳴滝塾は我が国における西洋科学発祥の地として、日本の近代化に大きな役割を果たしました。
シーボルトは、日本の植物について積極的に研究を行っており、ヨーロッパに帰った後『日本植物誌にほんしょくぶつし』を出版しましたが、このなかでアジサイ属に関して多く取り上げています。
特に、日本における妻お滝たきさんにちなんで、アジサイの学名を「ハイドランゲア・オタクサ(Hydrangea Otakusa Sieb.)」と名づけたことは大変有名な話です。
美しく咲くアジサイに最愛の人の面影を重ねたのか、シーボルトの人柄が偲ばれるエピソードです。

平成17年3月
贈 (財)十八銀行社会開発振興基金

(説明板より)

シーボルト宅跡



シーボルト宅跡
(長崎市鳴滝2丁目・シーボルト記念館脇)





(平成19年3月27日)

国指定史跡
シーボルト宅跡


指定年月日 大正11年10月12日
所在地    長崎市鳴滝2丁目
所有者    国ほか

文政6年(1823)出島和蘭商館でじまわらんしょうかん医として来日したシーボルトは、翌年鳴滝なるたきに塾を開き、患者の診療や、門弟もんていに対する教育活動、日本研究活動などを行いました。
全国各地から集まった門弟達は、西洋の進んだ学問や科学的な思想を学び、中には幕末に活躍した蘭方医や、日本の近代化に大きく貢献した人物も少なくありません。
その一方で、動物や植物をはじめとする日本のあらゆるものを対象として科学的に調査・研究を行い、後年その成果をまとめ、ヨーロッパにおいて日本を正しく紹介することに努めました。
また、開国後の安政6年(1859)再来日を果たしたシーボルトは、この地を日本における住まいとし、日本各地の珍しい植物を取り寄せて植物園を造るなど、再び鳴滝を拠点として日本研究を継続しました。
この地は、我が国における西洋近代科学発祥の地であると共に、日本が広くヨーロッパに紹介された研究活動の拠点であり、日本の近代化並びに国際交流に大きな役割を果たしました。

(説明板より)


鳴滝塾・塾長

【美馬順三】
最初に塾頭となったのは美馬順三みまじゅんぞう(1795〜1825)で、この人はシーボルトの質問に答えて、『日本産科問答』という、ヨーロッパ語で日本人の発表した最初の医学論文を書いた。
この論文は、形式としてはシーボルトと美馬との一問一答となっており、日本で当時行われていた賀川流の産科の方法を全体としてつかんで解説したものである。
1826年にドイツの医学雑誌に転載され、また1830年にはフランスのアジア学雑誌に翻訳発表された。
この論文が出来た時、シーボルトは喜んでウェイランドの辞書を順三に与えたという。
美馬順三は、阿波の岩脇に生まれ、曽祖父の代から蜂須賀侯の家老・池田登に仕えた。
順三は長崎に来て通詞の家にとまってオランダ語、天文学、医学を学び、シーボルトが来ると、すぐに彼に近づいてその教育を受けた。
石坂宗哲著『鍼灸知要一言』をオランダ語に訳し、ヨーロッパに日本の鍼はりと灸きゅうについて紹介した論文もある。
シーボルトはヨーロッパでこれらを発表する時にも美馬順三の名を残したぐらい彼を大いに重んじた。
その著書『日本植物志』のアサガオの項には、「この所属の植物は順三が私のために、あまたの新種植物と共に肥後の金峰山から採ってきたものである」と記した。
順三は文政8年(1825)6月11日、コレラに罹って長崎で急死した。
わずか30歳だった。

【岡研介】
岡研介けんかい(1799〜1839)は、周防の熊毛郡平生ひらお村の人である。
代々農家であったが、父の代に長崎の吉雄耕牛について学び、はじめ京都で、のちに平生で医者を開業し、特に眼科で名をあげた。
研介は兄・泰安と共にシーボルトに学び、塾内部で重きをなした。
兄の岡泰安(1796〜1858)は1827年3月2日(文政10年2月5日)付で、シーボルトから証明書をもらってドクトルとなって郷里に帰り、開業医として大いに成功した。
弘化1年(1844)に岩国藩に呼ばれ、安政4年(1857)に至って藩侯の侍医(御手廻役)となり、あくる年の安政5年に死んだ。
岡研介は、兄が眼科医として故郷の平生村と岩国藩で大いに成功したのに比して、社会人としては振るわず、精神病を発して天保10年(1839)、40歳で亡くなった。
シーボルト門下にあった頃に、彼の才能はその盛りにあったらしく、岡研介訳『日本に於ける学芸、すべてのものの起源』というオランダ語の論文が残されている。
これは貝原益軒編『大和事始やまとことはじめ』の抄訳であって、同じくオランダ語で記された伊藤圭介の『勾玉記まがたまき』、美馬順三訳『日本古代史』(『日本書紀』神代巻および神武天皇紀の意訳)と共に、シーボルトの大著『ニッポン』の神話研究の部分の資料として、ヨーロッパに伝えられた。

【高良斎】
高良斎こうろうさい(1799〜1846)は、阿波徳島の人である。
藩の中老・山崎好直の庶子で、徳島の眼科医高錦国の後継ぎとしてもらわれた。
文化14年(1817)、18歳の時に長崎に出てオランダ語および医学を学ぶこと5年余り、文政6年(1823)、シーボルトの到着後にその門下に入った。
シーボルトの文書の中には、高良斎の書いたオランダ語の論文『生理問答』が残っている。
これは美馬順三の『日本産科問答』と同じく、日本人の健康についての、シーボルトと著者との一問一答の形をとっている。
また『日本疾病志』というオランダ語論文も書いており、これにはシーボルトの加筆本と、それに基づいて高良斎が書き直した本とが残っている。
高良斎は、文政11年(1828)10月、シーボルトが禁制の地図を持っていたのを咎められて訴えられた時、投獄された23人中の主だった門人として、二宮敬作と共にいた。
良斎は木を噛んで筆を作り、炭を墨にかえて、恩師のための弁明を紙に書いて出した。
良斎と敬作はこのために奉行所に呼び出されて訊問されたが、良斎はひるまず、その翌日には、先の23人はみな許されたという。
文政12年12月5日に日本を去るにあたって、シーボルトは、遊女其扇そのぎ(お滝)との間に生まれた女子オイネの今後を高良斎と二宮敬作に託した。
高良斎の著書は50〜60巻を超えたが、刊行されたものは『窮理飲食術』『薬能識』『蘭薬語用弁』『駆梅要方』だけである。
『眼科便用』と『女科精選』も、良斎は刊行しようとしたが、シーボルトの名を多くあげていることから、幕府は刊行を許さなかった。
シーボルトの日本退去後、良斎は徳島に帰り、しばらく大坂で開業してから、天保11年(1840)に明石侯の眼病を治療して成功し、その医員となった。
弘化3年(1846)に47歳で亡くなった。

【戸塚静海】
高良斎はシーボルト事件後、長崎町払いを命じられて退去したので、鳴滝塾校舎はその後、戸塚静海が中心となって1年ほど持ちこたえた。
さらにその後の鳴滝塾については消息がわからない。
戸塚静海(1799〜1876)は遠州掛川の人で、祖父の代からの医者である。
文政7年(1824)、25歳の時に長崎に行き、まず和蘭通詞・吉雄権之助の塾に入り、次にシーボルトについて学んだ。
シーボルト事件に際しては、高良斎、二宮敬作らと共に入牢した。
天保2年(1831)、長崎を去り、掛川にしばらく住んだ後、江戸に出て茅場町で開業した。
太田侯、薩摩侯に仕えた後、安政5年(1858)に徳川将軍家の侍医となり、同じシーボルト門出身の伊東玄朴・竹内玄同と並んだ。
戸塚静海には『海塩の製法について』と題するオランダ語の訳文が残っている。

(参考:鶴見俊輔著 『評伝 高野長英 1804−50』 藤原書店 2007年発行)

(平成23年4月20日追記)

シーボルト像 平成19年3月27日

長崎県長崎市・シーボルト記念館でお会いしました。

若き日のシーボルト像

「若き日のシーボルト」像

(長崎市・シーボルト記念館)

富永直樹 作

医療法人昭和会 理事長吉田秀雄
恵美須町病院(旧シーボルト記念病院)
平成4年11月吉日 寄贈

(平成19年3月27日)

シーボルト像 平成19年3月27日

長崎県長崎市・シーボルト記念館でお会いしました。

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト像
「フィリップ フランツ フォン シーボルト」像

(シーボルト記念館)

木像は林津恵氏の遺志により、平山スワ・田崎正治・池田フキ氏からの寄附金で製作されました。

制作者 松田安生
平成元年9月吉日


(平成19年3月27日)
常設展『シーボルトの生涯』

1 生い立ち
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Ph.Fr.von Siebold)は、1796年2月17日、南ドイツのヴュルツブルク(現在のドイツ連邦共和国バイエルン州ヴュルツブルク市)に生まれた。
彼の一族は、祖父・父をはじめ多くの大学教授をだした医学界の名門だった。
シーボルトが1歳のとき、ヴュルツブルク大学医学部教授だったクリストフが死に、その後、伯父ロッツに育てられて、ヴュルツブルク大学に入学した。
シーボルトは、大学で医学をはじめ動物学・植物学・民族学などを学んだ。
彼は、父の友人だったドリンガー教授の家に下宿し、教授の実験を手伝ったり、教授の家に出入りしていた学者から自然科学の知識を得た。

2 渡航経路
シーボルトは、外科・産科・内科の博士号を取得して大学を卒業し、近くの町で開業した。
しかし、彼は、自然科学への関心がつのり、これまであまり調査されていない地域の研究がやりたかった。
やがて、彼は、叔父たちの協力でオランダ領東インド陸軍の外科少佐に任命され、オランダの東洋貿易における中心地バタビア(現在のインドネシア共和国ジャカルタ市)へ行くことになった。
彼は、1822年9月23日、オランダのロッテルダムを出発した。
バタビアに着いたシーボルトは、オランダ領東インド政庁の総督ファン・デア・カペレンに自然科学の深い知識と探究心を認められ、日本の長崎・出島にあるオランダ商館の医師に任命された。
当時、オランダと日本の貿易が落ち込んでいた。
そこで、オランダ領東インド政庁は、日本の国土と産物をくわしく調査し、必要とされる商品を取りそろえて貿易を改善するとともに、ヨーロッパの学問・芸術を日本に広めてオランダの善意を幕府に知らしめる必要があった。
シーボルトは、まさにこの仕事に適した人物であった。
彼は、1823年6月28日、バタビアを出発した。

3 出島商館
シーボルトは、文政6年7月6日(1823年8月11日)、長崎に着いた。
彼は、出島のオランダ商館で商館員の健康管理にあたりながら、阿蘭陀通詞おらんだつうじ(通訳)たちと交流を深め、日本についての知識を得た。
当時、長崎には、医学をはじめとする西洋の進んだ学問を学ぶために多くの医師たちが集まっていた。
シーボルトは、彼らに出島で医学や植物学の講義を行なった。
また、商館長の働きかけにより、出島の外で活動することを長崎奉行所から許された。
シーボルトは、長崎の町で日本人の診察を行ない、「名医あらわれる」という評判が広まった。
やがて、日本人の女性滝たきと結ばれ、文政10年(1827年)には娘いねが生まれた。

出島の模型



出島の模型

(長崎市出島町・「出島」)





(平成19年3月27日)
4 鳴滝塾なるたきじゅく
シーボルトは、日本の調査・研究を進めるとともに、日本人の医師に医学の講義を行なうために、文政7年(1824年)、長崎郊外の鳴滝にあった民家を手に入れた。
彼は、ここに数人の門弟を住まわせ、研究の手伝いや他の医師たちへの講義を受け持たせた。
そして、多くの人びとがここを訪れ、鳴滝から科学的な思想の新しい光が日本全国に広がった。
シーボルトの門弟たちは、日本の歴史や産業、動植物などに関するさまざまな課題を与えられ、オランダ語でまとめた論文を提出した。
また、遠くに住む者は、各地の動植物を集めてシーボルトのもとに送った。
シーボルトは、これに対して、西洋医学修得の証明書や医療器具、学術書を与えて彼らの労に報いた。
シーボルトは、こうして集められた資料をもとに日本の調査・研究を進めていった。

5 江戸参府えどさんぷ
当時、出島のオランダ商館長は、4年に一度江戸に行き、将軍に拝謁はいえつして多くの品物を献上した。
シーボルトは、この商館長の旅行「江戸参府」に同行し、日本各地の地理・動植物・産業・風俗習慣などを調査することになった。
シーボルトは、文政9年1月9日(1826年2月15日)に出島を出発し、各地で動植物を採集したり、人びとの暮らしぶりを観察した。
また、多くの医師や学者に面会して、日本に関するさまざまな情報を得た。
江戸に37日間滞在したあと、同年6月3日(7月7日)、出島に帰り着いた。

6 シーボルト事件
シーボルトは、5年の任期を終えて文政11年(1828年)に帰国することとなった。
同年8月彼が乗船することになっていたコルネリウス・ハウトマン号は、長崎を襲った暴風雨により、長崎港内の稲佐いなさの海岸に乗り上げて出港が延期された。
また、江戸では、幕府・天文方てんもんかたの役人高橋景保たかはしかげやすが、シーボルトは長崎奉行所命令で蝦夷えぞ・千島ちしまの地図を差し出し、家宅捜査を受けて持っていた禁制品を没収された。
こうして、シーボルトは出島に拘禁され、厳しい取り調べを受けることになった。
彼は、多くの協力者に罪がおよぶことを恐れて、その名前は一切あきらかにしなかった。
シーボルトは、文政12年9月(1829年10月)、国外追放を申し渡された。
シーボルトが日本を去ったあと、多くの協力者が処罰された。

7 別れ
シーボルトは、日本に残す妻滝と娘いねの身を心配して、彼女たちに財産を残し、2人の世話を門弟の二宮敬作にのみやけいさくや高良斎こうりょうさいらに頼んだ。
文政12年12月5日(1829年12月30日)、シーボルトを乗せたオランダ船は出島を離れていった。
シーボルトは、やり残した日本の調査・研究を助手ビュルガーや門弟たちに頼んでいった。
オランダに帰り着いたシーボルトは、滝といねの安否を気遣って手紙を送り、滝も手紙や母子の姿を描いた螺鈿合子らでんごうすの嗅ぎ煙草入れを送った。

8 ヨーロッパでの30年
オランダに帰り着いたシーボルトは、オランダの政府と学会から大歓迎を受けた。
帰国後、シーボルトが生涯を通じて打ち込んだ仕事は、日本を科学的に研究し、その成果を世界に紹介することだった。
幸い優秀な助手にも恵まれた。
シーボルトは、日本から持ち帰った数多くの資料を整理して、日本に関する論文をつぎつぎに発表した。
また、博物館を開設して集めた資料を公開した。
こうして、シーボルトの名声はますます高まり、オランダから爵位が与えられ、ヨーロッパ各国から数々の勲章が授与された。
シーボルトは、1845年にドイツの貴族令嬢ヘレーネ・フォン・ガーゲルンと結婚し、3男2女が生まれた。

9 日本開国運動
1840年に中国でアヘン戦争が起こった。
そのころ、日本近海には外国船がさかんに来航していた。
シーボルトは、日本がこのまま鎖国を続けると、世界情勢からみて日本が外交上不利益を受けると考えた。
そこで、シーボルトは、日本が開国することでこうした危険をさけることができると考え、オランダ国王ウイルレム2世にそのことを進言した。
ウイルレム2世は、日本が開国すればオランダが日本との貿易を独占することができなくなるが、日本の将来を考えてこれに同意した。
こうして、シーボルトが起草したウイルレム2世の親書は、特使コープスにより1844年に長崎奉行所を通じて幕府に渡された。
幕府は、オランダの申し出はありがたいが、あくまで鎖国を続けると回答したので、シーボルトの努力は実らなかった。
シーボルトは、ロシアの宰相やアメリカのペリー提督にも日本との平和的な開国を進言した。

10 再び日本へ
シーボルトは、オランダ商館長ドンケル・クルチウスの願い出により国外追放を解かれた。
シーボルトは、安政6年(1859年)、オランダの貿易会社の顧問の肩書きで、長男アレクサンダーを連れて、再び日本に旅立った。
このとき、シーボルトは63歳になっていた。
長崎にたどり着いたシーボルトは、滝やいね、そしてかつての門弟たちと再会し、旧交を暖めた。
滝は、シーボルトが日本を離れたあと再婚して子供もできたが、その子供はすでに亡くなっていた。
別れたときにはまだ2歳だったいねも、門弟たちに育てられ、医学の手ほどきを受けて、長崎で産科医として修業していた。
シーボルトは、貿易会社の仕事をする一方、鳴滝の住居を買い戻して住み、ここで、日本研究や日本人の治療を行ない忙しい日々をすごした。
シーボルトは、文久元年(1861年)、幕府に呼ばれて江戸へ行くことになった。
江戸では、自然科学の講義をしたり、幕府に外交上の進言をしたりしたが、4ヵ月で職を解かれた。
シーボルトは、在日イギリス公使館の通訳となった長男を残し、文久2年(1862年)に日本を離れた。
わずか2年7ヵ月ほどの日本滞在であった。

11 シーボルトの死
シーボルトは、1863年にオランダの公職を辞めて、翌年、家族とともにヴュルツブルクへ帰った。
そのあと、日仏貿易会社の設立を考えて、フランス皇帝ナポレオン3世に会ったが、設立することはできなかった。
また、彼が2度目の来日で収集した日本の資料をバイエルン政府が購入して民族学博物館を設立する計画が持ち上がり、ミュンヘンで資料の整理にあたっていたが、病気にかかり「私は美しき平和な国に行く」と言い残して、1866年10月18日に亡くなった。
「日本研究家」を自負するシーボルトは、死の直前まで日本研究に没頭し、彼の墓は日本の石塔をもとにつくられた。

12 人生の遺産
その生涯を日本の研究と紹介にささげたシーボルトは、数多くの著作を発表した。
そのなかでも代表的なものが、『日本』、『日本植物誌』、『日本動物誌』である。
これらは、シーボルトが日本で収集した資料をもとに学者の協力を得て出版したもので、現在でもその学術的価値は失われていない。

13 子孫の姿
シーボルトと滝との子どもいねは、父の門弟石井宗謙いしいそうけんや二宮敬作、さらにオランダ人医師ポンペ・ファン・メールデルフォールトやボードウインに学び、日本最初の西洋医学の女性産科医となった。
明治6年(1873年)、明治天皇の若宮が誕生するときには、宮内省くないしょう御用掛りとなり、出産に立ち会っている。
シーボルトとヘレーネとの子どもには、3男2女がいる。
長男アレクサンダーは、12歳のときに父に連れられて来日し、15歳で在日イギリス公使館の通訳となった。
そのあと、ローマやベルリンにある日本の公使館などに勤務し、約40年間、日本の役人として働いた。
次男ハインリッヒは、兄アレクサンダーに連れられて1869年に来日した。
彼は、在日オーストリア=ハンガリー公使館の代理公使などを勤めた。
シーボルトの子供たちは、父の偉業を受け継ぎ、日本の医学や外交において活躍した。

(シーボルト記念館発行『常設展・シーボルトの生涯」パンフレットより)

シーボルト記念館



シーボルト記念館

(長崎市鳴滝2−7−40)





(平成19年3月27日)

本館は、日本の近代化に貢献したシーボルトを顕彰するために長崎市が設置したもので、平成元年10月1日に開館しました。

【外観】
建物はオランダ・ライデン市にあるシーボルト旧宅を、玄関はシーボルトの祖父カール・カスパル宅を、それぞれイメージ化したものです。
館のまわりには、シーボルトにゆかりのあるある植物のうちで、かん木を中心に植えています。

【1階 ホール・ロビー】
ロビーでは、ビデオでシーボルトの生涯を簡単に紹介しています。

【2階 常設展示室】
シーボルトの生涯を6つのコーナーに分け、展示を構成しています。
吹き抜けの壁面では、シーボルト家の紋章をレリーフとステンドグラスで表現しています。

【3階 企画展示室・収蔵庫】
企画展示室では、年に数回の企画・特別展を開催します。

ご利用案内
開館時間 9時から17時まで(入館は16時30分まで)
休館日 月曜日、12月29日から1月3日まで
入館料 常設展示 一般:100円
特別展示 その都度定める

シーボルト事件

日本滞在の任期が終わって帰国しようとしていたシーボルトが乗船を予定していたコルネリウス=ハウトマン号は、文政11年(1828)8月9日夜に暴風雨に襲われ、渚に打ち上げられ、深く泥にはまって動けなくなった。
シーボルトはやむを得ず日本滞在を延ばしているうちに、同年12月23日(1828年1月28日)に、日本国外への出発を禁じられ、出島に禁足を申し渡された。
文政11年3月28日、幕府天文方を勤める高橋景保のところに小包が一つ届いた。
差出人は長崎のプロシアの医師某とあり、その中に御普請役・間宮林蔵におくる分も入っていたので、高橋から間宮に届けた。
間宮は、外国人に関わることだからと言って勘定奉行・村垣淡路守定行に立ち会ってもらって内容を調べたところ、更紗一反(シーボルトの証言では、てぬぐい1枚)と手紙が一通入っていた。
高橋のほうは荷物をもらっていながら幕府に届けなかった。
このことから見張られるようになり、文政11年10月10日夜、町奉行所に引かれて行き、翌文政12年2月16日に牢内で病死した。
その死体は塩漬けにされて裁判の判決が待たされた。
判決はその翌年に下り、存命なら死罪ということだった。
判決の理由は、高橋景保がシーボルトに国禁の日本地図を渡したことである。

高橋景保の長男・小太郎と次男・作次郎は遠島。
部下の岡田東輔は獄中で自殺。
長崎でもシーボルトにつながりのあるもの23人が牢屋に入れられた。
そのうち高橋と親しくなる機縁を与え、江戸参府に同行した二宮敬作は江戸おかまい、長崎ばらい。
同じく同行した高良斎は居所ばらい、同じく同行した画家・川原登与助は、しかりおくということになった。
シーボルトに便宜をはからった大通詞・馬場為八郎は永牢を申しつけられ、佐竹壱岐守に預けられた。
小通詞末席・稲部市五郎は永牢を申しつけられ、上州甘楽郡七日市城主・前田大和守利和に預けられ、小通詞助・吉雄忠次郎は永牢を申しつけられ羽州米沢新田城主・上杉佐渡守勝義に預けられた。
高野長英は事件の起ったのを聞いて、いち早く熊本に逃れたため、この時は逮捕を免れた。
シーボルト事件の糸口を作った間宮林蔵は、その後、蘭学者から警戒心をもって見られるようになり、その死にいたるまでの時期を幕府の密偵となって過ごした。

(参考:鶴見俊輔著 『評伝 高野長英 1804−50』 藤原書店 2007年発行)

(平成23年4月24日追記)

シーボルト胸像 平成15年5月24日

東京都中央区築地7丁目の「あかつき公園」でお会いしました。

あかつき公園



あかつき公園





(平成15年5月24日)

(説明板より)

シーボルト (1796〜1866)

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、オランダの商館医員として文政6年(1823)7月、長崎に到着し、診療の傍ら長崎の鳴滝に塾を開くなどして活躍した。
同9年正月、商館長と共に江戸へ向かい、3月4日、日本橋の長崎屋に止宿し、4月12日出発するまでの間、江戸の蘭学者に面接指導し大きな影響を与えた。

しかし、同11年シーボルト事件が発生し、12月に日本から追放された。
後に安政6年(1859)幕府顧問として再来日したが、まもなく帰国しミュンヘンで没した。

彼の江戸における指導は、江戸蘭学発展のために貢献するところが大きかった。
この地が江戸蘭学発祥の地であり、且つ彼が長崎でもうけた娘いねが築地に産院を開業したこともあり、また明治初期から中期にかけてこの一帯に外国人居留地が設けられていたことから、ここに彼の胸像を建て、日本への理解と日蘭の橋渡し役としての功績に報いるものである。

中央区教育委員会


シーボルト記念碑



シーボルト記念碑

(長崎県長崎市・長崎公園)





(平成20年11月22日)
シーボルト記念碑



シーボルト記念碑

(長崎県長崎市・長崎公園)





(平成20年11月22日)

シーボルト記念碑とツュンベリー記念碑

一番右側の施福多君記念碑は、わが国の医学・博物学の発展に寄与したシーボルトの功績をたたえ、明治12年(1879)3月に建立。
撰文は当時の長崎県知事・大森惟中おおもりただなかで、篆書体てんしょたいの題字と碑文の揮毫きごうは小曽根乾堂こそねけんどうです。
中央の碑には、約150人の個人名と6団体の寄付者が刻まれています。
左側のツュンベリー記念碑は渡来200年を記念して建立。
スウェーデンの植物学者でリンネの高弟であった同氏は、安永4年(1775)オランダ商館医として来日しました。
帰国後、日本産植物の学名を定め、リンネの植物体系で分類し、植物学の近代化に貢献しました。

管理者 長崎市

(説明板より)


【オランダからの国書】

オランダは、海外貿易はしないという幕府の基本方針の中で、中国や朝鮮などを除けば唯一の例外であった。
オランダとの貿易は徳川家康の頃から切れ目なく行われていたために、先祖の決めたことはみだりに変えてはいけないという「祖法効果」で続けられていたのだ。
そのオランダ国王ウィレム二世(在位1840〜49)が日本に対して、「このまま鎖国を続けていては危険だ」という内容の好意溢れる国書を送って来た。
1844年、日本では天保15年、ペリーの黒船より9年前のことだ。

実はこの国書の仕掛け人がいた。
フォン・シーボルトである。
シーボルトはドイツ人だったが、日本に憧れオランダ人と偽って長崎出島に勤務した。
そこで日本人女性との間に子供も作った。
帰国の際、シーボルトは海外へ日本地図を持ち出そうとしたのがバレて、永久追放の処分を受けたが、日本という国はこのままでは大変なことになるとよくわかっていたのだろう。
つてを求めてオランダ国王に忠告の手紙を出してくれるように工作し成功したのだ。

だが、翌年、幕府はこの国書に実に無礼な回答をした。
言葉は丁寧だがその中身は「オランダとは貿易をしているが通信(外交)はしていない。これは祖法に反する。以後このような手紙は御無用に願いたい」というものだった。
要するに門前払いを食わしたのである。

(参考:井沢元彦 著 『動乱の日本史〜徳川システム崩壊の真実』 角川文庫 平成28年5月初版発行)

(令和2年3月13日 追記)


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