渋江抽斎 しぶえ・ちゅうさい

文化2年11月8日(1805年12月28日)~安政5年8月29日(1858年10月5日)


江戸時代後期の医師・考証学者。
名は全善かねよし、字は道純、抽斎は号。
江戸の生まれ。
家は代々陸奥国弘前藩医。
医学を伊沢蘭軒らんけんに、儒学を狩谷えき斎(「えき」は木へんに夜と書く)らに学び、考証学に長じた。
弘化元年(1844年)江戸医学館講師となる。
森枳園きえんと漢籍の解題書『経籍訪古志』を共撰する。
安政版『医心方』の校刊事業に携わり、『医心方』影写の様子を書き綴った『手控』を残す。






「抽斎渋江君碣銘」碑

(東京都台東区・感応寺)




(平成23年3月10日)

【碑文】

澁江道純墓碣銘

     上緫海保元侑製文
          ■後小島知■書弁篆額
嗚呼問其名即醫也問其攷古博渉之力則吾儒猶有愧焉是冝以尋常醫流目之乎以吾所親交惟
弘前澁江道純其似之矣道純少受學於市野迷庵迨長■■狩谷■齋遊盖近今之論古與者必推
二■而道純晨夕浸灌其中以故其學具有端緒遂推以切劘醫方冝乎其立論大與世醫■■庭乎
世毉謂醫事自有心得非関于書乃■讀書求之輓近而■矣不用追古人既■之迹■道純乃謂毉
之妙■心自讀書中得来■必自古書中得来如素問之陰陽結斜斜字前人難其■道純謂斜當糾
字訛引説文糾瓜瓠結■為證云結糾即結■其於七損八益引玉房秘訣謂其言與■■■洵為古
来相傳之■靈樞之不精則不正當人言■人人■道純謂正當連文援華沱為證識者■其明確其
醫方之傳得之伊澤蘭軒而復受治痘之訣於池田京水然亦未敢軽為人施治毎謂徴古善本校古
毉経以味古毉道吾事畢矣何必屑屑焉與世毉争長乎故友丹波君■庭■歎迷庵■齋之没卋窂
能毉別古夲者唯道純及森立之獨能得其真傳乃相與謀使其撰経籍訪古志余亦甞寓目其間為
之序列學者傳録稱為不可少之種意者道純之力居多焉家多儲古夲一莫不精善所藏各書一莫
不■點校學者欲考古者必借觀■正性■黙■言■視如不見其所長迨其為人有■辨證各獲其
益始■其精博■弘化甲辰
官命■毉経於躋壽舘■有賞賜嘉永己酉始奉
朝見既又例賜■米凡舘中■挍各書必経道純再勘■■為完所著有素問識小靈樞講義及雑録
若干巻皆蔵于家道純諱■善■抽齋道純其字也祖日夲皓考日■成世為弘前侍醫妣岩田氏其
生在文化乙丑十一月八日以安政戌午八月廿九日病■得年五十有四葬于江戸谷中感應寺有
三子長恒善尾島氏出■■次優善岡西氏出出為矢島氏後三成善山内氏出継一女平野氏出三
子皆託余受學越己未将勒石墓道而属文於余嗚呼吾所親交如小島寶素君丹波■■暁湖二君
及堀川舟庵數年之間皆相継歸道山今復遇道純之奄歿執筆以志墓石能無嘅■三歎矣乎遂■
録其生平■為之銘銘曰
以醫家而治毉書     與儒者治経一■   ■是古者之■徴  何間今人之有■  嗟矣乎
其人而■   此理也其誰與議
    萬延紀元歳次上■■灘八月廿九日建          廣■鶴刻字

※ ■はパソコン内に無い文字もしくは判読不可の文字

渋江抽斎墓

台東区谷中6丁目2番4号 感応寺

江戸末期の医師・儒学者
いみなは全善かねよし、字は道純、抽斎は号である。
文化2年(1805)、弘前藩医の子として江戸神田に生まれる。
弘化元年(1844)、現在の浅草橋4丁目の地にあった医学館(東京大学医学部の前身)の講師になる。
医学を伊沢蘭軒らんけんに、儒学を市野迷庵いちのめいあん・狩谷■斎かりやえきさいに学ぶ。
友人の医師森枳園きえんとの共著『経籍訪古志けいせきほうこし』(全8巻)は名高く、日本に伝わる漢籍の所蔵・伝来・体裁等を記したもので書誌学者・蔵書家としての抽斎の見識の高さが窺える。
医師としての業績に、種痘治療法を記述した『護痘要法ごとうようほう』の著書がある。
安政5年(1858)コレラに罹り、54歳で没し、当寺に葬られた。
境内の「渋江道純墓碣銘ぼけつめい」は、抽斎の事蹟を刻むもので、漢学者海保漁村かいほぎょそんが撰した文を、書家小島成斎せいさいが記し、ともに生前の親交が深かった。
没後、森鴎外の史伝『渋江抽斎』によって、初めて抽斎の名が一般に知られるようになった。

平成4年11月

台東区教育委員会

(説明板より)





感応寺

(東京都台東区谷中6-2-4)




(平成23年3月10日)



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