幣原喜重郎 しではら・きじゅうろう

明治5年8月11日(1872年9月13日)〜昭和26年(1951年)3月10日


東京大学卒。
大阪府出身。
大正8年(1919年)駐米大使。
ワシントン会議の全権を務める。
ワシントン・ロンドン両海軍軍縮条約締結にあたり、ワシントン体制下の国際協調に努力した。
大正13年(1924年)加藤高明内閣で外務大臣となり、その後4回外相を務める。
対中国政策では経済進出に重点を置いた、いわゆる『幣原外交』を展開したが、戦時色が強まると共に第一線から退いた。
大東亜戦争終戦後、政界に再登場し、内閣総理大臣となり、民主化政策、とくに新憲法草案の作成を巡ってGHQとの交渉にあたった。
新憲法第9条の戦争放棄規定は幣原の思想に一起源があるという。
衆議院議長在任中に78歳で死去。


【外務省きっての英語使い】

幣原には、妙な癖があった。
彼自身、外務省きっての英語使いといわれるくらい、英語が上手だった。
若いころ、ロンドン勤務となった幣原は、タイムズの社説を日本文に訳し、さらにその日本文を英語に訳して、原文と対照比較することを日課とした。
また、本省勤務になると、米国人顧問のデニソンにつききりで習った。
デニソンが散歩に出れば自分もいっしょに散歩に出るといった調子であった。

それくらいの勉強家だった幣原は、そのために、外国語の上手なものをとにかく重用しがちだった。
少し極端にいうと、語学ができないものに対しては、きわめて冷淡だった。
語学の下手な吉田茂などは、そのために、冷やめしをくわされたのである。
後年吉田は、幣原には、英語の上手なものは有能、下手なものを無能と思いこむ癖があった、と批判している。

(参考:三好 徹 著 『松岡洋右 夕陽と怒濤』 1999年 人物文庫 学陽書房 発行)

(平成27年10月24日 追記)


【シベリア出兵・失敗談】

米国は最初、日本に勧誘してシベリアへ共同出兵したにもかかわらず、大正9年1月になって、突如、日本政府には何ら通告もせず、自分だけサッサと撤兵してしまった。
そこで駐米大使・幣原喜重郎は国務長官・ランシングに抗議し、「あなたは撤兵命令を出したのだから、今さら取り消せぬというのなら、これから後、日本はシベリアに軍隊を留めておこうが、もっと増兵しようが、あるいはまた撤兵しようが、日本が単独決定しても米国政府に異議はないと諒解する」ときつく釘をさした。
ランシングは「その通り」と確認した。
幣原としては、これで日本は名誉をもって自発的に撤兵できる、と得意になっていたところ、東京はアベコベにとって、反対にシベリアに増兵してしまった。
これが1月22日で、2か月後に尼港惨劇事件が起こってしまった。

これが幣原の合理主義外交というか、上手の手から水が漏れるというか、外交官が国内情勢に疎いというか、この結果、大正11年10月、シベリア撤兵が完了するまで、足かけ5年、派遣兵員7万、経費7億円という大義名分のないバカな戦争をして、のちに軍部に強いコンプレックスを植え付け、その反動としてファッショ化を招いた結果となった。

(参考:岡田益吉 著 『危ない日本史(上巻)〜事件臨場記者の遺言〜』 光人社 昭和56年4月第1刷)

(令和元年10月6日 追記)


【日支紛争】

ワシントン軍縮会議の全権委員であった幣原は、帰国後の大正13年から昭和6年まで、その間2年2ヶ月を除いて、5年3ヶ月の長い間、外務大臣であった。
幣原はヴェルサイユ条約とワシントン条約を忠実に守り、あくまで対米英協調を主眼としていた。
日支紛争が抜き差しならない泥沼に陥ったのも、その責任の一半は幣原にあるといわれたほど、満洲問題には内政不干渉を唱えて、何一つ根本的に解決を図ろうとしなかった。

これに業を煮やした陸軍の幕僚たちが、政党政治の打倒と満洲問題を一挙に解決しようとして企てたのが、満洲事変と十月事件である。
昭和6年9月18日の深夜、奉天郊外の柳条溝における満鉄線の爆破をきっかけにして、全満洲から武力によって張学良軍を追い出した。
これが満州事変である。
十月事件は、この満洲事変に呼応して、国政改革を旗印に計画されたが、不発に終わった。
不発ではあったがその後の昭和史の動向に大きな影響を及ぼすのである。

(参考:須山幸雄 著 『二・二六事件 青春群像』 芙蓉書房 昭和56年第1刷発行)

(平成29年2月3日 追記)


【失言問題】

昭和5年4月、ロンドン条約成立後の第59議会において、浜口首相が凶弾にたおれ、幣原喜重郎外相が首相代理になったとき、翌6年2月3日、衆議院予算総会において、政友会は執拗にロンドン条約を追及し、中島知久平議員(当時は1年生議員、のちに政友会の代表委員)が幣原首相代理に、ロンドン条約について国防上の責任と、安保海相の答弁との矛盾をなじった。
これに対して幣原は不用意にも、「この条約はご批准になっている。ご批准(つまり天皇の勅許)になっていることをもって、このロンドン条約が国防を危うくするものではない」と答弁した。
幣原の答弁が終るか終わらぬ一瞬間に、委員会の後方で和服姿で傍聴していた森恪が、幣原の方を睨みつけ、右手を上げて指さし、「幣原!取り消せ・・・取り消せ・・・」と絶叫した。
途端に、森恪幕下の若手連中が川島正次郎(のち自民党副総裁)を先頭に、“取り消せ”と怒号した。
この日の委員会は滅茶苦茶な紛擾ふんじょうのうちに流れ、幣原は守衛に守られて、辛うじて退場するという空前の騒ぎに終わった。

森恪幹事長は声明書を発して「幣原の答弁は、ロンドン条約の責任を天皇に転嫁したもので、責任内閣の反逆者である」ときめつけた。
民政党も反対声明を出したので、ますます事態は紛糾し、衆議院の議事は一切停止してしまった。

中二日おいての予算総会も流会となり、幣原首相代理はこの日も危険な空気の中を退場した。
このとき、民政、政友両党の院外団が代議士を交えて大乱闘になり、数十名の負傷者を出した。

この幣原失言問題が、のちに宇垣一成大将の一生の汚点となった「三月事件」の導火線になったことは事実である。

幣原がいきなり「ご批准」を頭から持ち出したのは、答弁としてはおもしろくなかった。
森恪の憤激を買ったばかりでなく、世間一般にも誤解を与え、その後長く「統帥権」の問題が尾を引いて、軍部の深刻な反感を買い、二・ニ六事件にまで発展したことはいうまでもない。

(参考:岡田益吉 著 『危ない日本史(上巻)〜事件臨場記者の遺言〜』 光人社 昭和56年4月第1刷)

(令和元年10月8日 追記)


【幣原外交】

幣原喜重郎の外交は「幣原外交」(外相就任期間は中断をはさみ大正13年6月〜昭和6年12月)と呼ばれ、協調外交とも軟弱外交ともいわれますが、少なくともシナ人に対しては「ご機嫌取り」に見える紳士的な対応は、よい結果をもたらさないのが常でした。

昭和2年(1927年)に起きた南京事件では、コミンテルンのボロジンの指揮を受けた中国国民革命軍が南京の外人居住地区である租界を襲いました。
そのとき、揚子江にいたイギリスやアメリカの軍艦は砲撃をしましたが、当時の若槻礼次郎内閣の幣原喜重郎外相は徹底的な平和主義者で中国不干渉を唱え、砲撃を禁じていたので、日本の軍艦は砲撃もできず、なんら攻撃を加えませんでした。
そのため日本の領事館は徹底的に荒らされ、婦女子たちは辱めを受け、そうした事態をみすみす見過ごし、在留邦人を守れなかった責任をとって、軍艦「檜ひのき」から名ばかりの兵員と共に派遣されていた荒木亀雄海軍大尉は、軍艦「利根」に戻ってから自決を図っています。
また、日本もアメリカやイギリス艦のように大砲を撃てばよかったのですが、日本だけ攻撃をしなかったので、英米の中に、「日本だけ抜け駆けをしてシナに取り入り、利益を独占する気か」という無用の疑念を引き起こす結果となりました。

それ以外にも幣原は、諸外国に打診することなしに、単独で日中関税協定(昭和5年)に調印して、中国に関税自主権を認めるなど、宥和のために、いろいろ好意あふれる政策を取りました。
これも日本の「抜け駆け」として欧米諸国の疑惑を招きました。

(参考:渡部昇一 著 『東条英機 歴史の証言』 祥伝社 平成18年8月第3刷発行)

(平成29年5月2日 追記)


【公職追放指令】

昭和21年(1946年)1月4日に、最初の公職追放指令が発せられた。
その結果、閣僚のうちの5名が戦前、戦中に軍国主義者だったという理由で罷免される事態となりそうだった。
日本側は反発し、特に当時の首相だった幣原喜重郎と吉田茂は、追放に抗議して、内閣の総辞職を発表しようと考えた。
幣原の意向を受けて、吉田はマッカーサーと会見し、内閣が天皇に辞表を提出する予定だと告げた。
マッカーサーは冷たい視線で吉田を見据え、もし内閣が明日総辞職すれば、日本国民は内閣が自分の指令を実行できないのだと解釈してしまう。
たとえ、天皇が再組閣を命じてもこれを承認しないと答えた。
結局、内閣は辞職しなかった。
追放指令を目の前にして、幣原は、「裁判よりひどい。裁判には再審というものがある」と、マッカーサーに訴えたが、全く相手にされなかった。

この事件の後は、日本の首相をはじめとする首脳部は、マッカーサー司令部にお伺いを立てずに、何か重要な政策を決定するような危ない真似は一切しなくなった。

(参考:工藤美代子 著 『マッカーサー伝説』 恒文社 2001年11月第1刷発行)

(平成29年5月4日 追記)


【マッカーサー偽憲法】

敗戦翌年の昭和21年に、幣原喜重郎がマッカーサーから偽憲法を押し付けられんとしたときに、首相幣原も、彼の古巣たる外務省の現役幹部たちも、それがいかにとんでもない「対米独立放棄条約」なのか重々承知していた。
およそ自然権(自衛権)のない個人は自由な独立人ではあり得ぬ。
自然権(自衛権)がない国家も、そもそも独立国ではない。
これは近代西欧法精神の、いたって初歩的な話だからだ。
「マック偽憲法」は、明瞭に、日本国が自衛権を放棄すると謳わせていた。
外国軍に占領されていた国家の政府が、その国民の安全をすべて外国人(具体的には米国政府)に委ねたい、と誓わされた。
だが、幣原以下、昭和21年の天皇の官僚らは、それら一切合切を承知でマック偽憲法を丸呑みすることにした。
外務官僚には、わくわくするような打算があったのだ。

(参考:兵頭二十八 著 『北京は太平洋の覇権を握れるか』 草思社 2012年第1刷発行)

(平成29年2月4日 追記)


幣原喜重郎の墓


幣原喜重郎墓
(東京都豊島区駒込・染井霊園)




(平成22年2月9日)



幣原家の墓所
左:妻・雅子(岩崎弥太郎の四女)の墓
(東京都豊島区駒込・染井霊園)



(平成22年2月9日)



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