紫電改


【局地戦闘機「紫電しでん改」】

海軍は零戦以後の次期主力戦闘機の開発に手間取っていたが、川西飛行機が開発していた水上戦闘機「強風」の陸上戦闘機化を海軍航空本部に提案し、これが局地戦闘機「紫電」となった。
しかし、「紫電」は「強風」の中翼式をそのまま引き継いでいたため、脚が長く、離着陸時の事故などが多発した。
このため、「紫電11型」を基に低翼式を採用した機体の開発を設計することになり、「紫電改」が誕生した。
制式には「紫電21型」と呼ばれている。
昭和20年1月、制式採用後、「紫電改」は横須賀航空隊や松山基地に置かれた343航空隊などに配備され、関東、四国、中国、九州方面の防空戦闘に活躍した。

採用時期:昭和20年(1945)1月
製造:川西飛行機
搭乗員:1名
発動機:誉21型(空冷複列18気筒・1990hp)
最大速度:594キロ/時・高度5600m)
上昇時間:高度6000mまで7分12秒
上昇限度:10,780m
飛行時間:全力で0.5時間、巡航で2.3時間
武装:胴体に7.7mm×2、翼に20mm×4、搭載可能爆弾60kg×4または250kg×2
生産機数:1007機

(参考:『歴史読本』 2012年8月号)

(平成29年4月6日 追記)


紫電改 平成19年11月6日

紫電改しでんかい

この紫電改は、南宇和郡城辺じょうへん町久良ひさよし、長崎鼻ながさきばな約2百メートルの海底 41メートルのところに眠っていたが、昭和53年11月城辺マリンクラブ会員によって確認された。
愛媛県は、機体を引き揚げ、慰霊の誠を捧げ、恒久平和を祈念することとした。
「紫電改」は、当時最も優れた局地戦闘機「紫電21型」で、その全容は、
全長9.34メートル
主翼11.99メートル
高さ3.9メートル
装備重量4.86トン
時速620キロメートル
エンジン2千馬力
20ミリ機銃4門
を備え、独特の自動空戦フラップを駆使できる海軍航空の掉尾ちょうびを飾る優秀な戦闘機であった。
この「紫電改」は、旧第343海軍航空隊に配属され、昭和20年7月豊後水道ぶんごすいどう上空で空戦したなかの1機であると言われている。
県から委託を受けた藤田海事工業株式会社は、地元漁業関係者等の協力を得て、昭和54年7月14日引き揚げた。
機体は全面フジツボに覆われ、破損箇所も見受けられたが、原形をとどめていた。
県は、紫電改の製作に当たった旧川西航空機株式会社、現新明和工業株式会社航空機製作所に委託し、一部補修、防錆塗装を行った。
終えんの地、久良湾が望見できるここ南予レクリエーション第3号都市公園内に、永久保存する。

(説明板より)

この紫電改は昭和53年11月18日、久良湾で養殖イカダのアンカーを捜していたダイバーにより、久良湾の長崎鼻沖200m海底41mの地点で発見された。
翌54年7月14日、県から委託を受けた藤田海事工業(株)と地元漁業関係者等の協力により34年ぶりに引き揚げられた。
機体はフジツボに覆われ、破損箇所が随所にみうけられたものの原形はとどめていた。
水中墜落でプロペラが4枚とも内側に90度に曲がっていることから、高度な操縦技術を持ったパイロットにより、海面上に不時着させられたと考えられる。
紫電改を製作した新明和工業(株)(旧川西航空)により、一部補修・防錆塗装が施され、久良湾が一望できる南レク馬瀬山山頂公園で永久保存することとなった。
この紫電改は、旧海軍第343航空隊に配属し、終戦間近い昭和20年7月24日、豊後水道上空で米軍機と交戦したうちの1機といわれている。
その日、土佐沖に進攻してきた米機動部隊艦載機、戦闘機・爆撃機連合約200機が、呉・広島方面攻撃に来襲。
これを迎撃するため大村基地から鴛淵大尉の指揮する紫電改21機が発進。
宇和海上空で3倍の敵機と交戦し、わずか10分たらずで16機を撃墜した。
しかしこの交戦で6機が未帰還となった。

海軍大尉 鴛淵 孝(戦闘701維新隊隊長) 長崎県出身 享年25歳
海軍少尉 武藤金義(戦闘301新撰組) 愛知県出身 享年29歳
海軍上飛曹 初島二郎(戦闘701維新隊) 和歌山県出身 享年22歳
海軍上飛曹 米田伸也(戦闘301新撰組) 熊本県出身 享年21歳
海軍一飛曹 溝口憲心(戦闘407天誅組) 広島県出身 享年21歳
海軍二飛曹 今井 進(戦闘301新撰組) 群馬県出身 享年20歳

(説明板より)

 (説明板より)

34年間の空白を物語る操縦席内部 無事、船越駐車場に陸揚げされた紫電改
尾翼部分は各所が破損しており網を張って補強し引き揚げられた
発電器他



右から
発電器2個・電動燃料ポンプ2型





(平成19年11月6日)
スロットルレバー他



右から
エンジン系スロットルレバー・分電器・燃料ろ過器





(平成19年11月6日)
3式空1号無線電話器




3式空1号無線電話器





(平成19年11月6日)
空戦フラップ発信器




空戦フラップ発信器





(平成19年11月6日)
消火器他



右から
炭酸ガスボンベ(消火器)3本・酸素ボンベ4本





(平成19年11月6日)
紫のマフラー




紫のマフラー






(平成19年11月6日)

「紫のマフラー」の由来
(元紫電改搭乗員 笠井智一氏の手紙より)

昭和19年(1944年)12月、301航空隊の菅野隊長以下12〜3名は、横須賀基地から松山基地に移動した。
当時は301飛行隊のみで、407・701飛行隊は他の基地にいた。
松山基地に移動と共に転勤者と合流、20名余の搭乗員は、12〜3機の紫電改で猛訓練に励んだ。
松山着任後の初めての外出で、大街道の小さな食堂へ4〜5人で入った。
食堂とは名のみで、食べる物は何もなく、持参の弁当のみだった。
奥から優しい顔のおかみさんらしい中年の人が来て、「兵隊さん何もないのよ」と独得の松山弁。
「はい、弁当を持っていますのでお茶を下さい」と。
「お茶ならいいよ」と。
弁当を食べながら、私達は紫電改の優秀さやフィリピンの特攻の話をした。
横で聞いていたおかみさんは、「兵隊さんたち苦労したんやね。よく生きて帰れたね」と。
「これから何処にいくの。変な遊ぶところなんか行ったらいけんよ。よかったら私の家でゆっくりしていったら」とのことで一服させてもらうことにした。
畳の部屋に案内され、久し振りに畳の上での親切なおもてなしに感謝して帰隊した。
このことが隊で一躍評判になり、隊長以下、多くの搭乗員が行くようになった。
このおかみさんが「紫のマフラー」の主であり、通称「コトちゃん」こと今井琴子さんで、戦中戦後を通じ、大変お世話になった人である。
昭和20年1月1日に戦勝祈願で琴平の金比羅宮に空中参拝をした。
このとき着陸に失敗して死亡事故が発生、正月早々に不吉な予感がした。
正月の特別外出で、早速、新年の挨拶に今井家を訪問した。
この時おかみさんが「皆様は紫電改だから紫のマフラーを作ってあげよう。マフラーの布は、私が結婚のときに持参した白無垢の布がある。これを紫色に染めて、そのマフラーには、済美高女の生徒さんに刺繍をしてもらう。校長先生に私が頼んであげる」とのことで、私の編隊4機は、1番機杉田上飛曹の座右の銘、「ニッコリ笑えば必ず墜す」に決定。
他の編隊は、各自の思う文句を刺繍してもらうことにした。
1月の下旬、早くも38枚のマフラーが完成した。
度重なる空襲に「紫のマフラー」と共に戦死した者多数。
私の4機の編隊も4月15日鹿屋上空の空戦で1番機の杉田上飛曹、3番機の宮沢一飛曹は戦死、4枚の内の2枚は遺体と共に焼失、38枚の「紫のマフラー」は、今3枚を残すのみとなり、その1枚がこれである。
今井琴子さんは数年前に他界され今は亡く、この「紫のマフラー」は、今井琴子さんの霊と共に永く生き続けることであろう。
今般、南レク(株)のご発案で、南宇和郡愛南町の馬瀬山の紫電改展示館内に紫電改の雄姿と共に「紫のマフラー」が甦ろうとしている。
多くの見学の皆様に見ていただくことは「以って瞑すべし」多くの戦死者と共に永遠の供養になることでありましょう。

合掌

平成19年6月21日
笠井智一

(展示パネルより)

ジオラマ



343航空隊・松山基地のジオラマ
(昭和20年2月頃・当時の様子を再現)





(平成19年11月6日)

第343海軍航空隊・・・・通称「剣」部隊

軍令部の航空主務参謀・源田実大佐が自ら司令となり制空権の奪回を目的に精強な航空隊の編成を計画、近代的な編隊空戦の実現を目指した。
「紫電」・「紫電改」の戦闘機と偵察機「彩雲」から編成された。
343空の特長は偵察隊を設けたことである。
戦闘機隊が独立した偵察専門の隊を持つのは当時珍しいことだった。
通信と情報網の整備に必要な器材を確保すると同時に、最新鋭の「紫電改」、当時集められるだけの優秀なパイロットを集め、他部隊から羨望の声があがるほど強力な、日本海軍の切り札となるべき「剣部隊」であった。
本土防空が任務であり、特攻には徴用されなかった。
戦闘301は「新撰組」、戦闘701は「維新隊」、戦闘407は「天誅組」、彩雲の偵察隊は「奇兵隊」というように各隊にサブネームを付けていた。
搭乗員だけでも120名、整備員他部隊全体では3,000名を数えていた。
昭和19年12月25日松山基地で開隊いらい終戦まで約170機の敵機を撃墜したとされる。
昭和20年3月19日の松山上空での大空中戦はあまりにも有名。

(展示パネルより)

松山上空の大空中戦

昭和20年3月19日午前5時、松山基地指揮所前に全搭乗員が整列。
源田司令が訓示。
「今朝、敵機動部隊の来襲は必至だ。わが剣部隊は、この敵機を迎え撃って痛撃を与える。目標は敵の戦闘機隊だ。爆撃機などには目もくれるな。一機でも多くの敵戦闘機を射ち落とすようにこころがけてくれ。」
午前5時45分、4機の偵察機「彩雲」暁の闇に発進。
午前6時50分、「彩雲」より「敵機動部隊見ユ、室戸岬ノ南30浬」、「敵大編隊、四国南岸ヲ北上中」との情報が相次いで入電。
待機中の「紫電改」54機「紫電」8機が発進。
午前7時10分頃、松山上空において呉方面に向かう敵大編隊(300機以上)と激しい空中戦を展開。
大乱戦の末、確認された戦果はF6FおよびF4U戦闘機5機撃墜合計57機の大戦果をあげた。
当方の損害は自爆・未帰還16機・大破5機であった。

「彩雲の壮烈な最期」
この華やかな戦果のかげにいくつかのエピソードがある。
そのひとつは偵察機「彩雲」の4番機の活躍である。
この機には高田少尉を機長に、操縦員遠藤上飛曹、電信員影浦上飛曹の3人が乗っていた。
高田機は敵大編隊を発見して第一報を送り、エンジン不調のため帰路についたが、さらに数を増した敵大編隊に遭遇し送信後空中戦となった。
単機で大編隊に立ち向かったが、敵の集中砲火をあび被弾した高田機は、白煙をはきながら敵戦闘機に体当たりを敢行、さらに余勢をかって他の一機にも体当たりし散華した。
見事に刺しちがえた高田機の壮烈な戦いぶりは地上からも望見され、当時の感銘を忘れえぬ人々によって、昭和49年春、自爆あとに記念碑が建てられた。
愛媛県境に近い高知県高岡郡東津野村。
「三魂の塔」と名づけられた自然石のその碑は、四国カルストの天狗高原を背景に、太平洋に向かっていまなお厳然と立っている。

(展示パネルより)

343空剣部隊年表
昭和19年(1944) 12・25 松山基地にて343航空隊(剣部隊)開隊
昭和20年(1945)  3.19 松山上空大空戦
 4・ 4 鹿屋基地進出
 4・12〜16 喜界島制空(特攻機の空路敬開)
 4・17 第一国分基地に転進
 4・18〜25 南九州上空におけるB29迎撃
 4・25 松山基地復帰
 4・30 大村基地に転進
 5・ 4
  〜
 7・ 5
喜界島制空・北九州方面B29迎撃
南九州艦載機迎撃など
 7・24 豊後水道艦載機迎撃
 8・ 1 九州南部上空迎撃
 8・ 8 九州北部上空迎撃
 8・15 終戦

(展示パネルより)

紫電改展示館




紫電改展示館

(愛媛県南宇和郡愛南町御荘平城・南レク内)

入場料:無料


(平成19年11月6日)
紫電改展示館




紫電改展示館

(愛媛県南宇和郡愛南町御荘平城・南レク内)




(平成19年11月6日)

久良湾 紫電改が沈んでいた久良湾


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