志賀直哉像 平成19年4月10日

志賀直哉 しが・なおや

明治16年(1883年)2月20日〜昭和46年(1971年)10月21日

奈良県奈良市・志賀直哉旧居でお会いしました。


宮城県出身。
学習院を経て東大中退。
幼少期に実父母から引き離され、祖父母に溺愛され育つ。
明治43年(1910年)、学習院時代の友人武者小路実篤さねあつ・里美クとんや有島武郎たけおらと『白樺』を創刊。
『網走まで』『剃刃』『彼と六つ上の女』『濁った頭』『祖母の為に』『クローディアスの日記』『范はんの犯罪』などを発表する。
大正3年(1914年)『児を盗む話』発表後、人生観の動揺からしばらく筆を絶つ。
やがて調和的心境に落ち着き、大正6年(1917年)『城の崎にて』で文壇に復帰。
ついで長年の父との不和を解消し、『和解』を書いた。
大正10年(1921年)に唯一の長編小説『暗夜行路』の連載を始める。
”小説の神様”と呼ばれたが、後半生は実質上創作活動から退いた。
昭和24年(1949年)文化勲章受章。


志賀直哉胸像



志賀直哉胸像

(奈良市・志賀直哉旧居)





(平成19年4月10日)
志賀直哉邸



志賀直哉旧居
(奈良市高畑大道町)





(平成19年4月10日)

旧居



志賀直哉旧居

(広島県尾道市・千光公園)





(平成18年3月21日)

志賀直哉旧居

志賀直哉が尾道に移り住んだのは1912年11月、『白樺』のありかたへの居心地の悪さや父との不和から東京を離れ、友人がほめていたという場所(尾道)に住んだ。
住まいは『暗夜行路』そのままに「三軒の小さな棟割長屋の一番奥」で部屋は六畳と三畳に台所のつつましいものであった。
直哉は暖をとるために「ガスストーブ」をガス会社から借りており、ガスの使用料は尾道中で2番目であったというエピソードも残る。
やがて父との和解をみると、尾道での直哉は人々とのふれあいをとおして次第に心をなごませていった。
旧居からは、近代文学史上、白眉の文章とされる”景色はいい処だった”にはじまる風景そのままに、尾道水道の向こうに「造船所」「山の中腹の石切り場」跡をながめることができる。

(リーフレットより)

旧居内部


志賀直哉旧居・内部

三軒長屋の一番手前の部屋と二番目の部屋は記念室受付・展示場に改造されています。




(平成18年3月21日)
旧居内部



志賀直哉旧居・内部

三軒長屋の一番奥の部屋




(平成18年3月21日)

文豪志賀先生旧居

文豪志賀直哉先生は大正元年11月頃尾道にこられ翌年7月頃までこの三軒長屋東端(東土堂町411−2番)に居住されました。
そして名作「暗夜行路」の構想を練り起稿されたと言われて居ます。
尾道市では先生の偉業を偲び末永く保存するためこの三軒長屋を買収し原形に復旧し文学記念室として修築したものです。

(説明板より)


文学碑



文学碑

(広島県尾道市・千光寺公園文学のこみち)





(平成18年3月21日)

志賀直哉

六時になると上の千光寺で刻の鐘をつく。
ごーんとなると直ぐゴーンと反響が一つ、又一つ、又一つ、それが遠くから帰ってくる。
其頃から昼間は向島の山と山との間に一寸頭を見せている百貫島の燈台が光り出す。
それがピカリと光って又消える。
造船所の銅を溶かしたような火が水に映り出す。
(暗夜行路より)

宮城県の人、大正元年の秋から同2年の中頃まで、千光寺山の中腹に居を構えていた。
同10年から大作「暗夜行路」を発表、昭和12年に至って完成した。
その寓居は現存している。
この碑は、小林和作画伯が、特に筆をとられたものである。

(説明板より)


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志賀直哉


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