椎名悦三郎像 平成21年11月8日

椎名悦三郎 しいな・えつさぶろう

明治31年(1898年)1月16日〜昭和54年(1979年)9月30日

岩手県奥州市水沢区・生誕の地でお会いしました。


後藤新平の甥。
東大卒。
5年半の満州国勤務などを経て商工次官・軍需次官を歴任。
第二次大戦後の公職追放解除後、昭和30年(1955年)衆議院議員に当選。
自民党の有力議員として通産相・外相などを務めた。
後継首班を三木武夫とした昭和49年(1974年)の「椎名裁定」は有名。


椎名悦三郎先生像



椎名悦三郎先生像
(岩手県奥州市水沢区吉小路・生誕の地)

大韓民國前外務部長官 李東元謹書



(平成21年11月8日)

従二位勲一等
椎名悦三郎氏顕彰碑

前尾繁三郎

椎名悦三郎氏は明治31年水沢市に生れ東京大学法学部卒業後 直ちに商工省に奉職 昭和20年まで 一貫して商工行政に尽瘁し わが国産業の発展に多大の貢献をされた
昭和30年 衆議院議員に初当選以来 連続8期 25年の久しい間政界に情熱を傾け 岸 池田 佐藤 田中 三木の5代の内閣にわたり 内閣官房長官 通産大臣 外務大臣 自由民主党の政調会長 総務会長 副総裁などの要職を歴任された
生来豪放洒脱 「不如省事」の哲理に徹し 小事にこだわらず 大局をみて事を処し 外務大臣として 日韓条約を成立させてアジアの平和に大きく寄与し 副総裁としていわゆる「椎名裁定」により混乱する政局の危機を救うなど 国政に幾多不滅の輝かしい足跡を印された
椎名氏逝って1年 今ここに悠揚たる人柄と透徹した識見を偲び 81年の生涯を通じて 激動期のわが国の産業政策 外交政策 政党政治に残された偉大な業績を顕彰して 亡き友にこの拙文を捧げる

昭和55年9月30日
大森巻山謹書
椎名後援団体連合会
椎名悦三郎追悼録刊行会
                  建立

(顕彰碑・碑文より)

椎名悦三郎生誕地



椎名悦三郎生誕地
(岩手県奥州市水沢区吉小路・椎名素夫後援会清和会事務所)





(平成21年11月8日)

【青年官僚】

戦後、通産大臣や外務大臣になった椎名悦三郎は、1933年、商工省の青年官僚として欧州に留学し、たまたまジュネーブに遊んで国際労働局の友人を訪ねた。
ところが、その友人は椎名に「今日、日本は国際連盟を脱退した。いよいよ日本は世界の孤児になった。これは大変なことだ。君もこんなところにブラブラしていてはいけない。早く日本に帰ってしっかりやらなければならない」と深刻にささやいた。
椎名も「これはえらいことになった」と思い、悄然とジュネーブを去ってロンドンに行った。
ロンドンに着くと、松岡洋右全権以下、日本の代表が引き揚げて来ていて、今夜、日本人クラブで連盟脱退に関する報告会があるというので、椎名は出かけて行った。
まず松岡洋右が、「敗軍の将、兵を語らず」と言いながら、景気のいい演説を2時間もぶった後、随員だった陸軍の石原莞爾大佐が登壇した。
石原は、松岡以上に意気昂然な気焔を吐いた。

椎名はジュネーブでは悲観的な意見を聞かされ、今またロンドンでは反対にめっぽう景気のいい気焔を聞かされ、悲喜こもごもの感慨を抱いて帰国の船中にあったが、インド洋上で、「満洲国というものは断じて軍人の手に任せてはならない。自分たちは進んで満洲に渡って、文化国家を建てなければならない。これこそ文官の使命感である」と決意したという。

椎名が帰国して商工省に行くと、工務局長の岸信介(のちの首相)が、省内の若手連中から連判状をとっている。
それは、「満洲国から来いという招請があったら、親兄弟にも相談せず、その場で即座に承諾すべし」という、面白い連判状で、もちろん岸信介がトップに署名している。
椎名もすぐ勧誘されたが、「自分はすでにインド洋で決心しているのだから」といって、すぐ署名した。

ところが、いよいよ関東軍から商工省官吏の満洲国招請の依頼があると、岸信介は椎名に、「自分は事情があっていけないから、代理として行ってくれ」と言った。
「ただし、僕の魂は君に影身に添いて、どこまでもついて行くよ」という殺し文句を言ったという。(岸はその後、渡満している)

(参考:岡田益吉 著 『危ない昭和史(下巻)〜事件臨場記者の遺言〜』 光人社 昭和56年4月 第1刷)

(令和元年5月7日 追記)


【椎名裁定】

1972年の就任時には「今太閤」人気に沸いた田中角栄内閣だったが、その政権は長く続かなかった。
1974年、立花隆が『文藝春秋』に掲載した「田中角栄研究―その金脈と人脈」がきっかけとなって、その金権体質が非難されるようになり、就任から2年後の1974年12月に退陣を余儀なくされたのだ。
福田赳夫と大平正芳が意欲を示した後継総裁選びだったが、副総裁・椎名悦三郎の裁定に委ねることになり、最終的に「青天の霹靂」で三木武夫に政権は移譲された。
巷間いわれる「クリーン三木」で金権政治のイメージを払拭する狙いがあっただろうが、実は椎名の真の思惑は違ったという。
椎名は自分自身が総理大臣になるか、この三木をはさんだ後に、再び田中角栄を総理の座に戻そうと考えていたという。
この構想は実現こそしなかったが、田中は最大派閥田中派の数の力を保持して、「闇将軍」として院政をしいた。

(参考:有馬哲夫 著 『児玉誉士夫 巨魁の昭和史』 文春新書 2013年2月 第1刷発行)

(令和2年5月2日 追記)




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