安永7年1月1日(1778年1月28日)〜天保11年6月13日(1840年7月11日)
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島田元旦の墓 (鳥取県鳥取市・景福寺) (平成16年11月18日) |
画家 島田元旦の墓 (1778〜1840)
安永7年正月元旦がんたんに生れる。
故に画号を元旦げんたんと言う。
通称季充、のち寛輔と改める。
江戸画壇の巨匠、谷文晁たに・ぶんちょうの実弟で、幼少より徳川幕府の御三卿の一人、田安家に仕えやがて普請奉行にまでなった。
父本修、兄文晁に就いて学問、絵画を学び、13歳の時、京都に赴いて円山応挙に師事し、応挙の死後は沈南蘋の画法を極めて、江戸に帰った。
寛政11年には幕府の蝦夷地えぞち調査に加わって「図取り」(測量)に従事する傍ら、山水、草木、禽獣、虫魚、原住民の風俗等、悉く絵筆に写し、又土語を採輯し、日本に於ける最初のアイヌ語辞典とも称すべき報告書を作成す。
帰国後、鳥取藩江戸留守居役、島田図書の養子となる。
元旦42歳の時養父没し、家督を継いで5百石を給わった。
天保11年6月13日63歳で没し当地に葬る。
同年12月14日、兄文晁も江戸下谷二長町の自宅で没した。
戒名を元旦院泉■浄流居士げんたんいんせんえいじょうりゅうこじと受く。
(説明板より)
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景福寺 (鳥取市新品治しんほんじ町) (平成16年11月18日) |
瑞松山景福寺(曹洞宗)
鳥取藩池田家家老「荒尾」家の菩提寺「景福寺」は、南北朝時代摂津国六ノ瀬村(兵庫県川辺郡)に通幻寂霊つうげんじゃくれい禅師を開山として創建されたのが始まりである。
慶長年間、姫路城主池田輝政の家老荒尾志摩守隆重は、景福寺11世大桂宗奕そうえき禅師に帰依し、同寺を姫路城下に移して再興し中興開基となり、以後、荒尾家代々の菩提寺として護持されてきたものである。
池田輝政の没後、備前岡山藩主となった忠雄に従い荒尾家と共に同寺も岡山へ移った。(元和2年)
寛永10年、景福寺14世角山宗虎禅師となり、忠雄の嫡男光仲の鳥取転封に伴って同寺も荒尾家と共に鳥取城下に移り、荒尾嵩就を開基とする鳥取景福寺が建立され今日に至っている。
このような経緯から摂津・姫路・岡山・鳥取と4箇所に景福寺がある。
鳥取景福寺には、鳥取藩関連の書画、墓跡等が残されている。
(※寺宝・境内墓に関する記述は略します=重兵衛)
平成6年2月
鳥取市教育委員会
景福寺
(説明板より)
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