平成22年5月26日
文政5年9月12日(1822年10月26日)〜明治7年(1874年)4月13日
北海道札幌市・北海道神宮でお会いしました。
佐賀藩士出身。
江戸の佐藤一斎に学ぶ。
安政3年(1856年)、蝦夷地を調査。
戊辰戦争に従軍。
明治2年(1869年)、開拓使判官となり、札幌市街建設計画に尽力した。
明治4年(1871年)、秋田県権令となるが、政府と対立し、翌年に辞職。
佐賀憂国党の首領となり、明治7年(1874年)、江藤新平と佐賀の乱を起こしたが敗れ処刑された。
島義勇判官銅像 |
島義勇判官銅像建立の記
明治2年9月20日 明治天皇は 東久世通禧長官以下の開拓使を北海道に御差遣になりました
これより先 宮中に於て開拓の守護神として 大国魂神 大那牟遅神 少彦名神の三神を御奉斎になり この神々を開拓使に御託しになりました
開拓史は函館に仮の役所を設けましたが 札幌本府建設の命をうけた島判官は 三神の御霊代を自ら背負って険難の陸路を踏破し 同年10月札幌に入り 先づ三神を鎮斎する社地をこの円山に定めて 新大社創営の大計を樹立し この地を基点として 昔の平安の都に倣って雄大な札幌市街を計画したのであります
この銅像は往時の勇姿を再現したものであります
当神宮は 昭和39年に御造営を竣工し 明治天皇の御御霊を併せて御奉斎申し上げ社号を北海道神宮と改めました
その満10年の記念事業の一つとして 広く篤信者の浄財を得てこの銅像を建立したのであります
昭和49年9月
宮司 前田勝也 識
(碑文より)
北海道大神宮 (北海道札幌市中央区宮ヶ丘474) (平成22年5月26日) |
北海道大神宮・本殿 (平成22年5月26日) |
開拓神社 (北海道大神宮) (平成22年5月26日) |
北海道神宮末社開拓神社
由緒
開拓神社は開道70周年に当り北海道開拓に偉大な功績のあった物故開拓功労者の御霊をお祀りし、永久に尊崇申し上げたいという、時の北海道長官石黒英彦の提唱によって昭和13年8月15日に現在の地に御鎮座になりました。
その後昭和63年御鎮座50年を祈念して拝殿が御造営されました。
御祭神 北海道開拓の功労者 37柱
武田 信廣 命 | 鈴鹿甚右衛門命 | 吾妻 謙 命 |
松前 慶廣 命 | 井上 長秋 命 | 佐野孫右衛門命 |
佐藤 信景 命 | 松前 徳廣 命 | 伊達 邦直 命 |
村山伝兵衛命 | 田崎 東 命 | 黒田 清隆 命 |
松田傳十郎命 | 鍋島 直正 命 | 小林 重吉 命 |
本多 利明 命 | 島 義勇 命 | 永山 武四郎命 |
伊能 忠敬 命 | 松川 弁之助命 | 岡本 監輔 命 |
高田屋嘉兵衛命 | 続 豊治 命 | 伊達 邦成 命 |
栖原 角兵衛命 | 下國 安藝 命 | 東久世 通禧命 |
最上 徳内 命 | 清水谷 公考命 | 田村 顕允 命 |
近藤 重蔵 命 | 早川弥五左衛門命 | 岩村 通俊 命 |
間宮 林蔵 命 | 松浦 武四郎 命 | 依田 勉三 命 |
中川 五郎治命 |
例祭 8月15日 エゾ地を北海道と改称した日
北海道の厳しい自然条件を克服しての開拓は、先人の艱難辛苦の足跡ぬきには考えられません。
近年とみに経済の発展により、開拓に心血を注がれた御功績がともすると忘れがちになった今日、この偉大な御事跡をしっかりと見直し開拓の精神を受継ぐ使命があります。
(説明板より)
島判官紀功碑 (札幌市・円山公園) (平成22年5月26日) |
正三位公爵鍋島直映篆額
明治中興朝廷議蝦夷地開拓二年七月置開拓使擧島君義勇為判官八月改蝦夷稱北海道九月咫尺天顔伏事宜奉鎮道神霊賃英舩提婁斯號發品川達函館陸行至銭函十月設假廳先卜圓山陵上為神霊鎮座之處今官弊大社札幌神社是也當時札幌之地彌望曠原民家僅ニ戸熊狼出没於黄茅白葦之間至嚴冬則積雪丈餘沍寒裂石加之運輸未便衣食匱乏人皆苦凍餒君排萬難日夜拮据分畫街衢建廨署七宇十二月第一廨署先成乃定為道政之廳規模廣大觀者無不驚異君乃賦詩曰河水遠流山控隅平原千里地膏腴四通八達宜開府他日五洲第一都亦可以概見其抱屓矣未幾四方移民陸續来集忽為一大都會焉先是安政四年堀織部正以幕命巡按蝦夷君請従之跋渉山河者一年有餘?察地理竊謂松前函館偏隅耳不可控制全島不如移府於札幌也及為判官竟置廳於此世以為卓見焉今也人口十有七萬街衢端正嵩楼大廈鱗次櫛比此皆君沍寒積雪所計畫創基也其功可謂偉且大矣君稱團右衛門蹄國華佐賀藩士少?儻不覊好讀經史居恒以國家休戚為念不以毀譽喪渝其節有古豪傑之風故克立萬世大計遺澤所迄實如此誰不仰慕哉君歿後贈従四位顧建府以来既六十餘年父老凋落無復知其勤知劬者今茲同志胥謀欲勒其遺功於貞a傳之千秋乃叙梗概繁以銘銘曰
濟世志壮 不辭艱劬 能闢草野 竟作大都 既■既冨 永仰雄圖
昭和四年十一月 正四位勲三等中村純九郎撰竝書
(碑文より)
円山公園 (札幌市中央区宮ヶ丘) (平成22年5月26日) |
札幌市創建120年記念
さっぽろ・ふるさと文化百選
島義勇とコタンベツの丘
島義勇は、明治新政府の方針にのっとり開拓史の判官として明治2年(1869年)11月(旧暦)札幌に入り、コタンベツの丘(今の円山公園のあたり)より原野をながめ、本府建設を構想した。
彼は計画の半ばで去ったが、その雄大な構想は後に岩村通俊いわむらみちとし判官らによって引き継がれ、今日の札幌の街づくりの基礎となった。
平成4年 札幌市
(説明板より)
「佐賀の七賢人」の碑 (佐賀県佐賀市・佐嘉神社) (平成20年11月24日) |
佐賀の七賢人
鍋島直正公(1814〜1871)
肥前佐賀第10代藩主。
文化11年江戸藩邸に生まれ、幼名貞丸、のち斉正、直正という。
号は閑叟。
天保元年家督相続。
藩財政の改革、長崎警備に力をつくし、科学をとりいれ、鋳砲建艦に努力して海軍の基礎をつくった。
公武合体派であったが、幕末の政局では自重し、明治政府内では軍防事務局次官・北海道開拓使長官をつとめた。
明治4年没。
年58。
正二位をおくられ、のち従一位となる。
大隈重信(1838〜1922)
天保9年、佐賀藩士、大隈信保(鉄砲組頭)の子として生まれ、弘道館に学び義祭同盟に参加した。
長崎で英語を学び、明治政府の徴士となって外交・財政に活躍。
のち改進党を組織し、藩閥政府と抗争した。
また早稲田大学の前身、東京専門学校を創立。
のち、外務大臣、農商務大臣、総理大臣などを歴任、政治・文化に功績があった。
大正11年没。
年85。
従一位をおくられた。
江藤新平(1834〜1874)
天保5年生まれ。
名は胤雄、号は南白。
弘道館に学び義祭同盟に参加。
維新時、大木とともに東京遷都を建白。
また明治政府内で、立法・制度において偉大な功績があり、とくに司法卿として司法制度の基礎を作った。
明治6年参議となる。
征韓論争で破れ、佐賀県士族におされて憂国党と組み佐賀の役で戦ったが敗北、逃れて四国で捕われ明治7年非道にも処刑された。
年41。
大木喬任(1832〜1899)
天保3年佐賀藩士大木知喬の長子として生まれ、通称幡六、のち民平と改めた。
弘道館に学び義祭同盟に参加。
明治新政府以後、東京府知事・民部卿・文部卿・司法卿を歴任。
3回にわたる文部大臣として学制・学校令・教育勅語などの教育体制の整備に尽力した。
元老院・枢密院両議長を歴任し、明治国家の確立に努力した。
常に開明的な立場から圧迫をうけながらも終始儒教主義をおしとおした。
明治32年没。
年68。
佐野常民(1822〜1902)
文政5年佐賀藩士下村充武贇の五男に生まれ、11歳で藩医佐野常徴の養子となる。
弘道館で学び、医学を緒方洪庵のもとで研修、のち藩士に物理・化学を教えた。
幕末国産最初の蒸気機関車模型製作や佐賀藩初のアームストロング砲の試作に尽力した。
慶応3年パリ大博覧会に藩命をうけて渡仏、帰国後、海軍創設につくし、大蔵卿・元老院議長・農商務大臣などを歴任した。
明治10年西南戦争のとき博愛社(日本赤十字社)を創設して社長となる。
明治35年没。
年81。
島 義勇(1822〜1874)
文政5年生まれ。
通称団右衛門、字は国華、楽斎と号した。
枝吉神陽に学び、藤田東湖と交友があった。
安政年間から蝦夷・樺太を巡見、明治2年開拓使主席判官として札幌を中心に北海道開拓にのりだした。
のち侍従・秋田県令などをつとめ、征韓論分裂のころ、旧藩の憂国党に推されて領袖となり、征韓党とともに佐賀の役で戦った。
明治7年非道にも処刑された。
年53。
副島種臣(1828〜1905)
文政11年、佐賀藩士枝吉忠左衛門(南濠)の二男として生まれ、副島家の養子となる。
幼名龍種、号は蒼海または一々学人。
父および兄、枝吉神陽の感化をうけ尊攘論に傾く。
弘道館の国学教授をつとめ長崎で英学を学び、開国論に転じた。
参議・外務卿として対支那外交の第一人者。
マリアルーズ号事件を解決、征韓論争で下野し、清国に■■、のち侍講宮中顧問官・内務大臣などを歴任した。
明治38年没。
年78。
(碑文より)
(石碑の写真より)
佐嘉神社 (佐賀県佐賀市松原2−10) (平成20年11月24日) |
弘道館記念碑 (佐賀県佐賀市・徴古館の脇) (平成20年11月24日) |
藩校 弘道館
佐賀藩の藩校は「弘道館」(学館)といい、8代藩主鍋島治茂が1781(天明元)年に創設したもので、後に水戸・但馬と並んで天下三弘道館の一つと称されました。
松原小路1900坪の敷地に文武稽古場を建て、古賀精里(後の寛政の三博士の一人)を教授に朱子学を中心にした藩士教育を行い、人材の育成に努めました。
9代藩主鍋島斉直の時には、清里の子古賀穀堂が教授になり、「学制管見」を著し、10代藩主になる鍋島直正の侍講も勤めています。
10代鍋島直正は、1839(天保10)年に北堀端の現在地(ここは東端)5400坪に整備拡張し、弘道館・蒙養舎に七局六寮のほか大講堂・武芸場・厨房などを備え、学館予算も大幅に増額し、大規模な学校になりました。
また、藩士の子弟に限らず教育することにし、翌年6月の新築開講にあたり、「文武を励み、国家(藩)の御用に立つ様心掛くべし」と訓示されました。
学課は儒学・和学・漢学・兵学・筆道・習礼・算術・槍術・剣術・柔術・馬術・砲術・水練・蘭学(洋学を含む)、さらに洋式操練も加え、厳しく文武に研鑽を積ませています。
1855(安政2)年に始まる長崎海軍伝習には幕府の人数を上回る最多の48名を参加させ、海外の最新技術を学ばせています。
明治新政府で活躍した副島種臣、大木喬任、大隈重信、佐野常民、江藤新平、島義勇などは皆弘道館の出身でした。
弘道館を中心とした徹底した教育による優秀な人材の育成が、幕末の佐賀藩が全国に先駆けて近代化を成し遂げる原動力になったと考えられます。
この記念碑は1923(大正12)年3月の建立で、題字は12代侯爵鍋島直映の揮毫、碑文は文学博士久米邦武の撰、中島雅明の書になるものです。
(説明板より)
弘道館跡 (佐賀県佐賀市松原2−5−22・徴古館) (平成20年11月24日) |
義祭同盟之碑 (佐賀県佐賀市・楠神社) (平成20年11月24日) |
明治維新佐賀勤王家会合の先駆をなした義祭同盟は、佐賀藩の学者枝吉神陽に薫陶を受けた志士等が嘉永3年(1850)本庄村梅林庵に祀る楠公父子尊像の御前において祭典を執行した。
これが佐賀勤王論の始まりである。
佐賀藩の重役執政安房あわは義祭同盟を支持、安政5年には八幡宮境内に楠社を創建し自ら盟主となって5月25日新装の社殿で盛大な義祭を執行した。
この同盟に参加したのは副島種臣・江藤新平・大隈重信等実に多くの志士たちであった。
この同盟は明治13年まで毎年5月25日に厳粛な義祭を行い、祭典終了後は無礼講として一切格式を問わず談論風発、悲憤慷慨して縦横の論議を闘わし最も意義ある会合となした。
これが維新鴻業の原動力となり後年この中より明治政府における大政治家をはじめ数多くの優れた人材を輩出し佐賀藩の面目を躍如として天下に知らしめた。
ここに同盟結成百五十周年を記念し当時の志士たちの計り知れない労苦を偲び、遺された偉大な功績を稱えてこの顕彰碑を建立するものである。
平成12年5月吉日
長沼冨士男謹識
宮司謹書
(碑文より)
楠神社 (佐賀県佐賀市白山1−3−2・竜造寺八幡宮の脇) (平成20年11月24日) |
本邦創祀正一位 楠くすのき神社由緒沿革
楠神社は安政3年(1856年)佐賀藩の執政鍋島安房が造営した。
楠公なんこう父子櫻井の驛訣別の像が祀ってある。
この木像は寛文2年(1662年)佐賀藩士、深江平兵衛入道信渓、大木英鐵等が京都の仏師法橋宗而に製作を依頼して同3年佐賀郡大和町永明寺に小堂を建てて祀った。
それから180年後佐賀藩校、弘道館教■枝吉神陽等が古文書によって楠公父子像を発見、嘉永3年義祭同盟を組織し信渓の裔深江俊助種禄を盟主として高伝寺の末寺梅林庵において盛大なる祭典を行った。
これが義祭同盟の起りであり、佐賀勤王論の始まりである。
開明的な10代藩主直正(閑叟公)は義祭同盟を支持、執政安房は自ら盟主となり、安政5年5月25日新装の社殿で盛大な義祭を執行した。
同盟に参加したのは江藤新平(のち司法卿)大木喬任(のち文部卿)副島種臣(外務卿)島義勇(秋田県令)ら郷土が生んだ明治維新の元勲として國事に盡瘁した佐賀藩の功臣は悉く此の義祭同盟に参加した。
大隈重信(総理大臣)17才、久米邦武(東大名誉教授)16才はこの時最年少者として初めて参加、この境内で日本一君論いっくんろんを論じ合った。
大隈は「この同盟の中から後年政界に立って頭角を現わした人も多い、予がこれに加盟したのは、世に出て志を立てるきっかけになったと言ってもよい」と回顧している。
こうして楠公父子の神霊に育くまれて明治維新の志士たちが生まれた。
この楠公父子の像が佐賀に始めて祀られたのは、かの有名な水戸光圀が建てた湊川建碑「嗚呼忠臣楠子之墓」(神戸市湊川神社境内)に先立つこと29年実に我が國初の楠公を祀った神社である。
非理法権天ひりほうけんてん
楠正成がその旗に印せし文字
非は理に勝つこと能あたわず、理は法に勝つこと能わず、法は権に勝つこと能わず、権は天に勝つこと能わず、天は宏大にして私無しと云う語にもとずく
(説明板より)
佐賀の役 殉国十三烈士の碑 (佐賀県佐賀市・佐賀県立博物館前) (平成20年11月24日) |
佐賀の役 殉国十三烈士の碑 (佐賀県佐賀市・佐賀県立博物館前) 処刑地跡 (平成20年11月24日) |
十三烈士
江藤新平 島義勇 重松基吉 中川義純 副島義高 福地常彰 山田平蔵 村山長栄 西義質 朝倉尚武 山中一郎 香月経五郎 中島鼎蔵
殉国十三烈士について
明治の新体制は、幾多の尊い血を流して出来上がった。
佐賀の役もその一つであった。
江藤新平、島義勇先生らは、藩閥独裁を排し民権政治を提唱した先達の士であったが、明治7年戦に敗れ、十三烈士がこの地で処刑された。
後年、明治天皇の御聖断によって賊徒の汚名が消され、大正5年には江藤島両先生の生前の功績に対し、特別に贈位の恩命があった。
ここに我らの先人がみせた千載不滅の愛国心とその盛んな情熱を追慕してやまない。
記念碑の建設について
明治7年の「佐賀の役」後に、その首謀者と目されて佐賀城内の露と消えられた江藤新平、島義勇先生ら13人の殉国の烈士をしのぶことにより、ふるさと佐賀の見直しと青少年の健全育成に役立てようとの気運が高まり、昨年11月から募金を始めましたところ、県内外の幅広い同志から多額の浄財をいただきましたので、佐賀県政百年記念のときに当たり、この記念碑を建設することができました。
昭和58年10月吉日
佐賀の役殉国十三烈士の碑
建設委員会
(碑文より)
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