平成19年3月30日
文化6年3月14日(1809年4月28日)〜安政5年7月16日(1858年8月24日)
鹿児島県鹿児島市・照国神社でお会いしました。
父は島津斉興。
曽祖父・重豪しげひでの影響で蘭学に造詣が深く、世子時代から徳川斉昭・徳川慶勝・松平慶永・阿部正弘・伊達宗城むねなりらと諸大名と政治・国際情報を交換し、琉球問題の処理を幕府から委任されるほど評価が高かった。
また、ペリー来航予告情報を長崎でいち早く入手させ、藩としての対策も立てた。
嘉永4年(1851年)家督相続。
藩政を刷新し、殖産興業を推進。
城内に精錬所、磯御殿に反射炉や溶鉱炉などをもった近代的工場集成館を設置。
写真研究、洋式艦船の建造、日の丸の日本国総船印制定を建言。
将軍継嗣問題では一橋慶喜よしのぶを推したが実現せず、安政5年(1858年)急死。
贈正一位島津齋彬公之像 (鹿児島市・照国神社) 大正6年竣工 作者 朝倉文夫 (平成19年3月30日) |
御祭神 照國大明神 島津齋彬
島津斉彬公(1809〜1858)薩摩藩28代藩主
島津斉彬公は、文化6年(1809)薩摩藩主の27代島津斉興なりおき公の嫡男として誕生なさいました。
母は鳥取藩主池田治道はるみちの娘賢章院けんしょういんです。
海外の文化に強い関心を示された曽祖父島津重豪しげひで公に可愛がられ育てられたため、斉彬公も海外の情報・文化に精通されるようになりました。
そして、アヘン戦争(1840〜1842)で、アジアの大国・清国がイギリスに敗れたことから、西欧諸国の植民地化政策を恐れ、斉彬公は、日本がひとつにまとまり、強く豊かな国づくりを目指すべきだとお考えになりました。
そして、嘉永4年(1851)藩主になられると、鹿児島の磯に「集成館しゅうせいかん」と言う工場群を築き、ここを中心に、造船・製鉄・紡績・電信・ガラスなどの様々な事業に取り組まれました。
また、人材育成のため教育にも力を注がれ、西郷隆盛や大久保利通など有能な人材も育て上げました。
斉彬公は、安政5年(1858)、世を去られましたが、日本を強く豊かな国に生まれ変わらせるという夢は、弟の島津久光ひさみつ公やその長男忠義ただよし公、さらに西郷隆盛や大久保利通ら多くの家臣の手で実現されました。
この斉彬公の銅像と、隣接の探勝園内にある久光公・忠義公の銅像は、大正6年(1917)彫刻家の朝倉文夫(1883〜1964)によって作製されたものです。
(説明板より)
戊辰之役戦士顕彰碑 (鹿児島市・照国神社) (平成19年3月30日) |
碑文
戊辰之役とは慶応4年(1868)1月、京都鳥羽伏見で薩摩長州両藩が徳川幕府討伐の戦端を開き、翌年5月函館五稜郭の幕府軍を降した戦いです。
これによって明治新政府誕生の基が定まり、わが国は近代的な統一国家となり、植民地化を防ぎ、独立が守られました。
当時の日本は、黒船来航以来西欧列強の脅威にさらされ国内では封建制度が行きづまって内外ともに混乱していました。
第15代将軍徳川慶喜が大政を奉還し、新しい政治体制が求められる中で、公武合体派が斬進的改革を主張したのに対し、中途半端な妥協では封建体制は打破できないと薩長両藩は断固として倒幕を進めました。
その結果大局が動き、諸藩連合の新政府軍の中で、薩摩藩は常に先頭に立って奮戦し、この歴史的な大転換劇に最も重要な役割を演じました。
薩摩から8千余名の人々が参戦し、6百名をこえる戦没者と多くの戦傷者を出しました。
このたび我々有志が維新ゆかりのこの地に戊辰之役戦士顕彰碑の建立を発起しました。
戦没者の御霊を弔うとともに、参戦された方々が名君島津斉彬公の遺志をついで西郷隆盛、大久保利通ら優れたリーダーに率いられ、藩を挙げて勇躍新政維新の旗をかざして進まれた勇姿を思い出すよすがとし、併せて戊辰之役に戦没された敵味方慰霊の念をこめてこの碑を建てた次第です。
平成9年9月8日
明治維新
戊辰之役戦士顕彰碑建立期成会
島津斉彬公肖像 (平成19年3月30日) |
照国神社 (鹿児島県鹿児島市照国町19−35) (平成19年3月30日) |
御由緒
御祭神の島津齋彬公は、文化6年(1809)御出生、嘉永4年(1851)43歳で襲封され、安政5年(1858)薨去されるまで僅か7ヶ年間の治世であったが、その間の御事蹟は藩内のみならず日本国にとっても広く大きく数々のものを残された。
生前の御遺徳を慕い崇敬の念を寄せる万民の願いにより神社設立の運動が起り、文久2年(1862)鶴丸城の西域である南泉院の郭内に社地を選定し、仝3年(1863)5月11日勅命によって照國大明神の神号を授けられ一社を創建した。
翌元治元年社殿竣工、照國神社と称し、明治6年県社に、仝15年別格官幣社に列格し、仝34年正一位を賜り、今日では、鹿児島市の氏神様として、多くの人々に崇敬されております。
(リーフレットより)
照國文庫資料館 (鹿児島市・照国神社) (平成19年3月30日) |
【展示品テーマ】
●海を見ていた島津家と薩摩(映像)
●島津重豪の文教政策と博物学
●薩摩藩の財政改革
●国際視野の形成
●島津斉彬公の御事蹟
●島津斉彬公の人となり
●企画展
【ご利用のご案内】
開館時間:午前9時〜午後5時(入館は午後4時半まで)
休館日:12月31日
入館料:大人100円
西暦 | 年号 | 年齢 | 斉彬公と薩摩藩の動き |
1809年 | 文化 6年 | 1歳 | 斉興襲封 9月28日江戸芝藩邸で誕生 幼名邦丸 |
1810年 | 文化 7年 | 2歳 | 幕府へ出生届を出す |
1812年 | 文化 9年 | 4歳 | 世子となる |
1821年 | 文政 4年 | 13歳 | 元服、又三郎忠方と称す |
1824年 | 文政 7年 | 16歳 | 11代将軍家斉に謁す 従四位下、兵庫頭に叙任、斉彬と称す |
1826年 | 文政 9年 | 18歳 | 重豪らと江戸大森でシーボルトに会う 一橋斉敦の娘、英姫と結婚 |
1828年 | 文政11年 | 20歳 | 調所広郷の財政の改革始まる |
1831年 | 天保 2年 | 23歳 | 重豪従三位に昇進 斉彬が江戸城へ代参する |
1832年 | 天保 3年 | 24歳 | 豊後守と改称 |
1833年 | 天保 4年 | 25歳 | 重豪没す(89歳) |
1835年 | 天保 6年 | 27歳 | 初めて鹿児島に帰国する |
1841年 | 天保12年 | 33歳 | 祖父斉宣没す |
1842年 | 天保13年 | 34歳 | アヘン戦争顛末書を入手 |
1843年 | 天保14年 | 35歳 | 修理大夫と改称 |
1844年 | 弘化 1年 | 36歳 | フランス軍艦琉球へ来航し開国要求 |
1846年 | 弘化 3年 | 38歳 | 幕府の命により鹿児島に帰国し琉球問題処理にあたる |
1847年 | 弘化 4年 | 39歳 | 斉興、藩の軍制改革を達す |
1848年 | 嘉永 1年 | 40歳 | 調所広郷自殺 |
1849年 | 嘉永 2年 | 41歳 | 高崎崩れ発生 |
1851年 | 嘉永 4年 | 43歳 | 襲封、薩摩守と改称、虎寿丸を世子とする 天保山で城下・鉄砲隊の総合演習を観覧 中浜万次郎を鹿児島に留め、アメリカ船の雛形を造らせる 磯・竜洞院前に西洋式大型船の造船所を造る |
1852年 | 嘉永 5年 | 44歳 | 磯・別邸隣地に反射炉、溶鉱炉など各種の工場を開設 従四位上左近衛権中将となる |
1853年 | 嘉永 6年 | 45歳 | 日の丸船章を日本の総船印とするよう建議する 領内東目巡視 |
1857年 | 安政 4年 | 49歳 | 磯の反射炉他各工場群を集成館、城内の精錬所を開物館と命名する ガス灯、電信等の実験を行う 銀板写真の撮影に成功する 造士館、演武館への諭達 米使応対・将軍継嗣について幕府へ意見書提出 井伊直弼、大老に就任 |
1858年 | 安政 5年 | 50歳 | 日米修好通商条約に調印 天保山で調練を指揮する 7月16日、鶴丸城で没す |
(参考:『照国文庫資料館』リーフレットより)
天保山砲台跡 (鹿児島市・天保山公園) (平成19年3月29日) |
天保山砲台跡
『薩英開戦の号砲』
〜当時の日本の最強軍備でイギリスに挑む〜
「撃てエ〜」天保山砲台什長・鎌田市兵衛の合図で号砲が轟き、錦江湾を威圧していたイギリス艦隊との間に戦いが開始されました。
1863年(文久3年)7月2日(太陽暦8月15日)正午に始まった砲撃戦は、薩軍の必死の戦いで、イギリス側にも大きな損害を与えましたが、わずか3時間で城下は壊滅的な打撃をうけ、最新式アームストロング砲の威力を思い知らされたのです。
天保山砲台は、島津家27代藩主斉興なりおきが緊張感高まる対外情勢に備えて着手、1850年(嘉永3)に竣工しました。
さらに、後を継いだ斉彬も藩の沿岸各所に砲台を築造、大砲を集成館で作らせ、海防にあてたのです。
天保山で行われた城下士全体の連合調練を、斉彬自らが閲兵するほど、熱心に取り組んだと伝えられています。
薩英戦争で海外の先進技術に目覚めた薩摩藩は、その後イギリスへの留学生派遣を行うなど、西洋技術の吸収につとめました。
当時の砲台のうち、この天保山と祇園ぎおん之洲すに砲台跡があります。
(説明板より)
天保山公園 (鹿児島県鹿児島市) (平成19年3月29日) |
天保山(天保山公園)
天保年間にできた山
〜英艦隊の壮絶な洗礼を受けた湾岸砲台〜
天保山はかつて海でした。
甲突川の河口のあたりに御船手おふなて(藩の船を司つかさどる役所)があり、付近は港町として賑わっていたようです。
ところが度重なる洪水で土砂が川底を埋め、改修を繰り返すうちに、砂捨て場として利用していた場所がいつのまにか山のように盛り上りました。
天保年間(1830年〜1843年)であったためこの人工の山は天保山と名付けられたのです。
島津家第27代藩主斉興なりおきは、外国船の来襲に備えここに砲台を築きました。
そして1863年(文久3)、第29代藩主忠義ただよしの時、生麦事件をきっかけに薩英戦争が勃発。
海上から攻める英艦隊をこの砲台から迎撃したのです。
薩摩の砲撃は、英艦隊旗艦ユーリアラス号に命中、艦長他9名の戦死という大損害を与えましたが、戦列を整えた英艦隊の最新鋭アームストロング砲には歯がたたず、薩摩の砲台はたった一度の実戦で破壊されてしまいました。
また天保山公園に隣接する与次郎ヶ浜には1972年(昭和47)日本初の水搬送工法によって約109万uの埋立地が生まれました。
(説明板より)
反射炉跡 (鹿児島市・仙巌園) (平成19年3月30日) |
反射炉跡 (鹿児島市・仙巌園) (平成19年3月30日) |
反射炉の建造と集成館の設置
アヘン戦争で中国がイギリスに敗れたという情報は、島津斉彬に大きな衝撃を与えました。
嘉永かえい4年(1851)、薩摩藩主となった斉彬は、日本が西欧諸国の植民地にされるのではないかという危機感を抱き、海洋に多くの領地を有する薩摩藩こそ、「大砲と船」に象徴される軍備の近代化と産業育成に力を注ぐべきだと考えました。
反射炉は鉄製の大砲を鋳造するために築かれたもので、嘉永5年に着工し、安政あんせい3年(1856)ようやく鉄製砲の鋳造に成功しました。
また反射炉を中心に溶鉱炉やガラス工場など様々な工場が整備され、これらの工場群は「集成館しゅうせいかん」と命名されました。
生麦事件に端を発した文久ぶんきゅう3年(1863)薩英戦争では、イギリス艦隊7隻を相手に、ここで造られた大砲が大活躍しましたが、その後解体され、現在は基礎部分だけがのこされています。
(説明板より)
150ポンド鉄製砲(複製) (鹿児島市・仙巌園) (平成19年3月30日) |
薩摩藩百五十斤ポンド鉄製砲(復元)
百五十斤鉄製砲は後方に見える反射炉で鋳造ちゅうぞうされたと伝える最も大きな大砲です。
巨大な砲身を支える砲架ほうかは木製で、最前部を軸にして回転でき、大砲の向きを変える「砲架下部ほうかかぶ」と、発射時の衝撃を和らげるために砲架下部の上を滑る構造の「砲架上部ほうかじょうぶ」で構成されています。
反射炉や鉄製砲は、幕末薩摩を舞台に島津斉彬らが挑戦した、近代化への情熱を象徴しています。
(説明板より)
薩摩藩百五十斤ポンド鉄製砲復元
幕末、薩摩藩主島津斉彬が反射炉で鋳造しようとした鉄製150ポンド砲の模型です。
1840年代、薩摩藩は、日本の他地域よりも早く、通商を求める西欧列強の外圧にさらされました。
その軍事力、特に大砲を多数装備し海上を自由に動き回る蒸気軍艦の存在に脅威を抱いた薩摩藩は、海岸要衝に砲台(台場)を建設し、大型の台場砲を配備するようになりました。
当初、台場砲は、日本の在来技術で鋳造可能な青銅で造られていましたが、嘉永4年(1851)薩摩藩主に就任した斉彬は、西欧式の溶鉱炉・反射炉等を導入して鉄製砲を鋳造するようになりました。
斉彬の側近、市来四郎は安政4年(1857)、鉄製150ポンド砲の鋳造に成功したと書き残しています。
150ポンド砲は当時の最大砲で、重量150ポンド(約70キロ)の弾丸を約3,000メートル飛ばすことができました。
翌安政5年に鹿児島を訪れたオランダ海軍将校カッティンディーケは、「砲台で見た150ポンドのバイアン砲(青銅砲)はきれいに鋳上げられていたが、工場(集成館)で見た鉄製砲はあまりよい出来ではなかった」と書き残しています。
また、文久3年(1863)の薩英戦争では2門の150ポンド砲が使用され威力を発揮しました。
(説明板より)
鶴燈籠 (鹿児島市・仙巌園磯庭園) (平成19年3月30日) |
鶴燈籠つるどうろう
この石燈籠は、日本で初めてガス灯を点した燈籠です。
28代島津斉彬は、蘭学者らにガス灯の用法を書いた蘭書を翻訳させ、安政4年(1857)8月に磯別邸の浴室付近にガス室を設置し、園内の鶴燈籠をはじめとする石燈籠に点火しました。
横浜でガス灯が点火したのは明治5年(1872)のことですが、薩摩でガス灯が点火したのはそれより15年も前のことでした。
(説明板より)
仙巌園 (鹿児島市吉野町9700−1) (平成19年3月30日) |
国指定名勝
仙巌園
仙巌園せんがんえんは、万治まんじ元年(1658)19代島津光久みつひさが別邸として築いたもので、その景観が中国(江西省)竜虎山りゅうこざん山麓の仙巌に似ているところから名付けられました。
また寛文かんぶん12年(1672)、邸内に一亭を構えたところ、落成の日に鶴が舞い降りたので「喜鶴亭きかくてい」とも呼ばれるようになりました。
照葉樹林に覆われた磯山を背に、錦江湾や桜島を庭の景観に取り入れた借景の雄大さは、日本一であるといわれています。
また、自然の美しさを最大限に生かした日本庭園を基本としながらも、園内には、琉球国王から贈られた「望獄楼ぼうがくろう」をはじめ、「江南竹林こうなんちくりん」「曲水庭きょくすいのにわ」「千尋巌せんじんがん」など、中国・琉球文化の影響が至る所に見られることも特色の一つです。
特に、曲水の庭は、作庭当時の姿をほぼそのまま今日に伝え、また我が国最大級のものです。
(説明板より)
年中無休 | ||
開園時間 | 3月16日〜10月31日 | 午前8時30分〜午後5時30分 |
11月1日〜3月15日 | 午前8時30分〜午後5時20分 | |
入園料金 | 庭園コース | 大人 1,000円 |
御殿コース | 大人 1,500円 |
国指定重要文化財 集成館機械工場 (鹿児島市・尚古集成館) 慶応元年(1865)にに竣工した集成館機械工場です。 当時は「ストーンホーム」と呼ばれていました。 (平成19年3月30日) |
(説明板より)
(説明板より)
尚古集成館 (鹿児島市吉野町9700−1) (平成19年3月30日) |
〜日本初の工場群〜
国指定史跡 集成館跡
仙巌園せんがんえん入口から尚古集成館しょうこしゅうせいかん・駐車場にかけての一帯は、幕末、薩摩藩主島津斉彬が築いた工場群「集成館」の跡地で、国の史跡文化財に指定されています。
反射炉跡や機械工場(現尚古集成館本館・重要文化財)、工場の動力用水路跡が現存し、さらに地中には多くの遺構・遺物が眠っています。
斉彬は、植民地化政策を進める西欧列強のアジア進出に強い危機感を抱いていました。
日本が植民地にされないためには、日本を西欧諸国のような強く豊かな国に生まれ変わらせなければならないと考え、嘉永4年(1851)薩摩藩主に就任すると、「集成館事業」という富国強兵・殖産興業政策を推進しました。
「集成館」はその中核となった工場群の総称で、鉄製砲を鋳造する反射炉、反射炉に鉄を供給する溶鉱炉、砲身を穿うがつ鑽開台さんかんだい、蒸気機関の研究所、ガラス工場などがあり、最盛期には1,200名もの人が働いていました。
安政5年(1858)斉彬が急死すると、集成館は大幅に縮小され、文久3年(1863)の薩英戦争でイギリス艦隊の攻撃を受け焼失しました。
しかし、斉彬の弟久光と、久光の長男で家督を継承した忠義の手で集成館は復興され、薩摩藩は日本最高水準の技術力・工業力を持つにいたりました。
そして、明治維新の際はその威力が発揮されました。
明治4年(1871)、集成館は官営となりました。
明治10年、私学校徒がここを襲撃して西南戦争が勃発、政府軍がすぐに奪還し、再奪還を図る西郷軍と攻防戦を繰り広げたため、多くの工場が焼失し荒廃しました。
戦後、民間に払い下げられましたが振るわず、大正4年(1915)廃止されてしまいました。
(説明板より)
新しい時代を築いた斉彬の弟子たち
安政5年(1858)、斉彬は病死し、斉彬の夢は弟の久光や娘婿の忠義、西郷隆盛・大久保利通ら多くの家臣たちに受け継がれました。
彼らの手で明治維新が成し遂げられ、日本は近代国家に生まれ変わりました。
さらに、明治維新後、大久保利通は富国強兵・殖産興業を唱え、各地に官営工場を築いて産業の育成に務めました。
これはまさに斉彬が行おうとしていたことでした。
斉彬から紡績事業の大切さを教えられた石河確太郎は、部下とともに日本各地に紡績工場を建て、薩摩の紡績技術を全国に広め、電信事業を広めた寺島宗則、ライフル銃の研究を続け村田銃を完成させた村田経芳など、斉彬の考えを受け継いだ数多くの薩摩出身者が日本の近代化に貢献しています。
(リーフレットより)
溶鉱炉跡 (鹿児島市・鶴嶺神社境内) (平成19年3月30日) |
溶鉱炉ようこうろは、鉄鉱石・砂鉄を溶かして鉄を生産するための炉です。
嘉永5年(1852)、薩摩藩主島津斉彬は、オランダ陸軍のヒュゲニン少将が著した『ルイク王立鋳砲所における鋳造法』を参考に、我が国で初めての溶鉱炉をこの地に建設しはじめました。
溶鉱炉は安政元年(1854)に完成、吉田(宮崎県えびの市)産の鉄鉱石、志布志しぶし・頴娃えい産の海砂鉄を原料に鉄が生産されるようになりました。
安政4年、溶鉱炉を視察した佐賀藩士千住大之助らの記録には、溶鉱炉は高さ22尺(約6.7メートル)、横幅11尺(約3.3メートル)と記されています。
その位置は、この案内板附近、鶴嶺つるがね神社の境内と推定されています。
また、山手には送風用の水車鞴ふいごに水を供給するための水路跡が残っています。
(説明板より)
鶴嶺神社 (鹿児島市吉野町磯) (平成19年3月30日) |
鶴嶺神社
鶴嶺神社 鎮座地 鹿児島市吉野町磯
御祭神 初代島津忠久をはじめ歴代当主とその家族
玉里島津家歴代当主とその家族
従神 家老5名 殉死者45名
島津氏は、その初代忠久が源頼朝の長庶子といわれ、鎌倉時代の初め文治元(1185)年より幕末から明治維新(1868)年に至るまで、約7百年に渉って南九州を良く統治支配し、幾多の名将・名君を輩出した武将の一族であります。
鶴嶺つるがね神社は明治2(1869)年11月、島津家歴代の当主とその家族等をお祭りする神社として、市内坂元町山下鶴嶺(現在の照国町)に創建されました。
同6(1873)年、社格を県社に列せられ、大正6(1917)年、島津家歴代に由緒深い旧集成館工場跡の現在地に遷座されました。
昭和10(1935)年、天皇陛下の地方行幸の際には幣帛へいはく料を賜りました。
現在、境内地は、国指定史跡集成館の一部となっております。
(説明板より)
電信使用の地 (鹿児島市・探勝園) (平成19年3月30日) |
電信使用の地
島津第28代藩主斉彬は、安政4年(1857年)本丸からここ探勝園までの間に日本で初めて電信通信を始めました。
線の長さは、約3百余間(500〜600メートル)ありました。
(説明板より)
【父親に嫌われる】
江戸時代の大名の正室は家同士の話し合いで決められたが、側室は自由に選べた。
江戸時代、大名の正夫人と嫡男は江戸屋敷に在住せねばならなかった。
人質政策のためである。
一方、その父親である藩主は、これも大名の経済力を削ぐための参勤交代で、江戸と領国を往復しなければならなかった。
大名は2年ずつ江戸と領国に住むように定められており、正室は領国には連れて帰れないから、領国には最もお気に入りの側室を置き大奥の管理者とした。
これを「お国御前」と呼び、薩摩藩の「お国御前」はお由羅であった。
それゆえ、お由羅の産んだ久光は鹿児島育ちで、薩摩弁に堪能だった。
これに対して正室の子で兄である斉彬は江戸生まれの江戸育ちで、家臣とは薩摩弁で話すものの、細かいニュアンスまではよくわからない。
薩摩国の下級藩士や農民の中には一度も顔を見たことのない斉彬よりも、「話のわかる殿様」久光を支持する者もいた。
現藩主の斉興は、「押し付けられた正妻」の産んだ子である斉彬よりも「自分で選んだ女」の産んだ子である久光の方を露骨に贔屓する姿勢を示し、徹底的に斉彬を嫌った。
その証拠に嫡男が元服して家督を継ぐ目処がつけば、当時の大名はさっさと隠居するのが慣例であったのに、斉興は斉彬が40歳になっても家督を継がせようとはしなかった。
つまり藩主の座に20年以上居座ったということで、極めて異例のことである。
本音では斉興は斉彬を廃嫡に追い込み、久光を後継ぎにしたかったのだろうが、そこは重豪が手を打っていた。
斉彬の正室を徳川御三卿の一橋家から迎えていたのである。
こうなると正室が病死でもして一橋家と縁が切れないと斉彬を廃嫡できない。
案外、斉興はそれを待っていたのかもしれない。
(参考:井沢元彦 著 『英傑の日本史 西郷隆盛・維新編』 平成29年8月 初版発行 角川文庫)
(令和元年9月14日 追記)
【不思議な事件】
島津斉彬の男子が元服まで育たずに若死にするという不思議な事件が続いている。
それも一人や二人ではない。
斉彬派は当然これを久光派、その背後にいるお由羅の差し金とみた。
黒船来航の4年前の嘉永2年(1849年)に斉彬の四男が2歳で夭逝すると、両派の対立は頂点に達した。
これが偶然とは思えぬということである。
ところが、先手を取ったのは久光派だった。
同年12月、鹿児島で斉彬派の有力幹部数名が、久光、お由羅の暗殺を計画したと告発され、ろくな取調べもなく即日切腹させられた。
他にもこの共同謀議に加わったという罪状で斉彬派の面々が次々に捕らえられ、遠島などの厳しい処罰を受けた。
処分は江戸藩邸の斉彬派にも及び、斉彬派は壊滅状態となった。
この時、斉彬は41歳。
(参考:井沢元彦 著 『英傑の日本史 西郷隆盛・維新編』 平成29年8月 初版発行 角川文庫)
(令和元年9月14日 追記)
【ようやく藩主になる】
斉彬には頼もしい味方がいた。
老中の阿部正弘と福岡藩主の黒田長溥ながひろである。
阿部老中は幕閣の若手の中で最も開明的で、世界がわかっている人物であった。
だから斉彬の能力を高く買っていて、阿部自身が応援団となって何かと斉彬が早く藩主になれるようバックアップしてくれたのである。
黒田長溥は、実は島津重豪の晩年の子で、黒田家に養子に行ったのだ。
斉彬にとっては祖父・斉宣なりのぶの弟だから「大叔父」にあたる(年齢は斉彬の方が2歳上)。
しかも、斉宣とは違って西洋文明に深い理解があったので、斉彬とは兄弟のように仲が良かったという。
斉彬派が大弾圧された時、一部の幹部は鹿児島を脱出して福岡に逃げ込んだ。
長溥が温かく迎え入れてくれたので、斉彬派は壊滅を免れたのである。
阿部老中は将軍家に工作して、斉興が一刻も早く隠居するように圧力をかけた。
その努力が実って黒船来航の2年前の嘉永4年(1851年)、ついに斉興は隠居に追い込まれ、家督を斉彬に譲った。
(参考:井沢元彦 著 『英傑の日本史 西郷隆盛・維新編』 平成29年8月 初版発行 角川文庫)
(令和元年9月14日 追記)
【斉彬暗殺説】
大老・井伊直弼は天下無敵である。
その後押しで将軍になった「小学生」慶福(14代将軍になるにあたって家茂いえもちと改名)は、直弼の言いなりである。
つまり、これからは直弼の独裁となる。
それでは日本の未来はない。
斉彬は「徳川300年」の間、誰も考えなかった武力によって政権を倒すというクーデターを考えた。
自分の代になってから造設した近代工場群で、最新式のライフルを3000挺も製造し、外様大名の身でありながら、兵を率いて中央を目指し日本を変えようとしたのである。
島津家は鎌倉時代、関白を務める近衛家の家来であった。
江戸時代に入ってからも、近衛家は旧主ということで、島津家とは深い付き合いを続けており、朝廷の中で薩摩を最も支持してくれるのが近衛家であった。
いくら斉彬でも、いきなり兵を率いて上洛するわけにはいかない。
近衛家にも行程途中の大名に対しても、自分がなぜそんなことをするのかを詳しく説明して了解を取っておく必要がある。
いわゆる根回しで、その役目に西郷隆盛が選ばれ京都に派遣された。
ところが、準備万端整ったのに、いつまで経っても斉彬は上洛してこない。
さすがに西郷が何かおかしいと思ったとき、国許からとんでもない知らせが届いた。
なんと出陣を前に斉彬は急死してしまったというのである。
斉彬には大きな欠点が一つあった。
それは反対派(斉興派)を「粛清」しなかったということなのである。
藩内には明らかに斉彬を敵視する人間がいた。
斉彬のすべての男子が夭折したのは決して偶然ではない。
だからこそ「お庭方」(今でいう情報機関の長)の西郷隆盛も反対派の陰謀を徹底的に調査し、彼らを役職から遠ざけるべしと進言したのだが、斉彬はそれをやらなかった。
情け深い性格だから、過去は水に流そうとしたのである。
しかし、斉彬政権になっても斉興に従っていた連中は幹部の中にいたし、奥御殿の中にもいたということだ。
だからこそ毒殺が可能だったのである。
とにかく「朱子学中毒患者」である島津斉興なりおき・久光父子と、それを支持する家臣たちから見れば「斉彬という究極のバカ殿が、武家諸法度施行以来、誰も破ったことのない、幕府の許可を得ずして国外(領国外)に出陣するという暴挙に走り、800年も続いている御家(島津家)を潰そうとしている」という緊急事態だったのである。
斉彬は確かに藩主だが、島津家で最も偉いかというとそうではない。
斉彬の父である斉興のほうが偉い。
その斉興が「このバカ息子、斉彬を殺せ」と命令すれば、その命令が狂気によるものでない限り、家臣は従わなければならない。
それが家臣の道というものである。
斉彬は出兵のため3000挺のライフルを製造させた。
完成には数ヵ月はかかる。
藩内の各所にいる斉興派は当然この件を「ご注進」しただろう。
それに対して斉興は「もし万が一バカ息子が、とんでもないことをしでかす気配が見えたら必ず殺せ」という指示を藩内の斉興派に与えたに違いない。
これも武士の心得である。
斉興にしてみれば、事が起きてから「まさか、そこまでやるとは思いませんでした」などと言い訳するのは武士として不覚。
それで御家を潰してしまったらご先祖様に申し訳がたたない。
もちろん、このことに関しては全く史料は残されていない。
しかし、斉興ら「朱子学中毒患者」の「思想」と当時の武家社会の常識に照らして考えれば、やはり斉彬は毒殺されたと考えるのが最も妥当な結論だと思う。
(参考:井沢元彦 著 『英傑の日本史 西郷隆盛・維新編』 平成29年8月 初版発行 角川文庫)
(令和元年9月15日 追記)
【近代改革潰し】
斉彬の死によって、これまで斉彬が築き上げてきた近代改革はすべて、「朱子学中毒患者」によって潰された。
斉彬が苦心して製造させた3000挺のライフルは廃棄された。
優れた武器は手元に置いておくべきだろう。
手間暇かけて作ったもので、費用もかかっている。
しかし、「朱子学中毒患者」はそうは考えないのである。
これは「バテレンの邪法」によって造られたもので、存在自体が悪なのであり、ドブに捨てるのが正しいのである。
斉彬が琉球名義でフランスから買い上げようとしていた軍艦も、契約はキャンセルされ、どうしても引き取らざるを得なかったものは破壊された。
とにかく、外国の技術が絡んでいるものは全て廃棄され、集成館も閉鎖された。
外国の技術が絡んでいるものは「野蛮」として徹底的に排除されたのである。
(参考:井沢元彦 著 『英傑の日本史 西郷隆盛・維新編』 平成29年8月 初版発行 角川文庫)
(令和元年9月15日 追記)
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