島津忠義像 平成19年3月30日

島津忠義 しまづ・ただよし

天保11年4月21日(1840年5月22日)〜明治30年(1897年)12月26日

鹿児島県鹿児島市・探勝園でお会いしました。


はじめ茂久もちひさ
父は島津久光
安政5年(1858年)伯父の島津斉彬の急死により祖父斉興を後見として相続。
同年の安政大獄の余波で動揺する藩内を鎮めるため、直筆の諭書を「精忠士面々」に下す。
斉興死後、久光が国父として実質的に藩政をみた。
慶応3年(1867年)王政復古の大号令後、議定となり、明治2年(1869年)萩・高知・佐賀三藩とともに版籍奉還を奉請。
藩知事となり、のち公爵、貴族院議員も務めた。


島津忠義公像


従一位島津忠義公之像

(鹿児島市・探勝園)

大正6年竣工
作者 朝倉文夫



(平成19年3月30日)

探勝園

この探勝園は昭和23年12月28日島津忠重氏が市に寄付されたもので、その面積は7,742平方メートル
園内には大正6年に建てられた島津久光、忠義の銅像をはじめ探勝園記その他の碑があります。

(碑文より)

探勝園内の碑類
鹿児島県原爆犠牲者慰霊祈念碑



鹿児島県原爆犠牲者慰霊平和祈念碑
(鹿児島市・探勝園)





(平成19年3月30日)

碑文

1945(昭和20)年8月6日広島に、9日には長崎に原子爆弾が投下され、二つの都市は一瞬のうちに壊滅しました。
熱線や放射能などで死亡した人は年末までに21万人を超えました。
唯一の被爆国である日本の国民は、あの恐ろしい戦争を再び起こさないよう、また残虐極まりない核兵器の廃絶を叫び続けてきました。
しかし、いまだに実現されていません。
あの時から53年経った今も鹿児島県内の1700余名の被爆者は、原爆後遺症と闘いながら懸命な運動を続けています。
ここに原爆犠牲者のご冥福を心から祈り、核兵器廃絶と世界の恒久平和を願って、平和都市宣言のまち・鹿児島市の絶大なご厚意により、この地にこの碑を建てました。
建立にご援助いただいた国・県・市ご当局をはじめ、建立募金にご協力の皆様に深く感謝申し上げます。

1998(平成10)年10月30日
鹿児島県原爆被爆者福祉協議会

太平洋戦争戦士の墓

太平洋戦争戦士の墓
(鹿児島市・探勝園)

戦士 この下に 眠る

昭和27年4月建之
鹿児島県知事 重成 格


(平成19年3月30日)
太平洋戦争戦士の墓



太平洋戦争戦士の墓

(鹿児島市・探勝園)





(平成19年3月30日)

この墓には今次太平洋戦争において、戦没された本県出身の軍人軍属で身元のわからない御遺骨が納めてあります。
皆様殉国の御英霊に心から敬仰の誠を捧げましょう。

鹿児島県

(説明板より)

第二次世界大戦敵味方戦亡者慰霊碑


第二次世界大戦敵味方戦亡者慰霊碑

(鹿児島市・探勝園)

昭和28年12月25日建設
鹿児島市長 勝目 清



(平成19年3月30日)

第二次世界大戦では 世界中で二千数百万人の生命が失われたようであります
その霊を慰めると共に再びかゝる惨事が起こらないようにと思ってこの碑を建てました
旧薩摩藩主島津義弘は 朝鮮での戦争で亡くなった敵味方の人々のため 慶長4年 高野山に供養碑を造りました
これは日本における赤十字精神の立派な見本として世界各國に有名であります
此処に造った碑は前記の供養碑と同じ形同じ大きさであります

昭和28年12月25日
鹿児島市長 勝目 清

(副碑・碑文より)


磯御殿



磯御殿
(鹿児島市・仙巌園)





(平成19年3月30日)

御殿

磯の御殿は、万治まんじ元年(1658)、19代島津光久みつひさが御仮屋を建てたのは始まりとされています。
その後、屋敷の南側に一亭を構え、落成の日に鶴が亭前に舞い降りたことから、喜鶴亭きかくていと名付けられました。
以後、この御殿は島津家の別邸として使用されていきました。
明治4年には、廃藩置県はいはんちけんがおこなわれ、島津家の居城であった鶴丸城つるまるじょうが島津家の手を離れたため、島津家の鹿児島での生活の場は磯に移りました。
そして、明治17年には、磯の御殿は大規模な改築を行い、その改築の費用は当時のお金で、3535円21銭6厘だったといいます。
明治21年には、29代島津忠義が、この御殿に住み、一時本邸として使用されていました。
現存する建物は明治17年の約2分の1で、25部屋余りとなっています。
庭園に面した部分は、当時当主であった忠義が使用していた部屋で、寝室、居間、謁見えっけんの間など8部屋余りからなっています。

(説明板より)

獅子乗大石燈籠



獅子乗大石燈籠

(鹿児島市・仙巌園)





(平成19年3月30日)

獅子乗大石燈籠ししのりおおいしどうろう

29代島津忠義が明治17年(1884)御庭方おにわかた小田喜三次おだきさんじに造らせた燈籠で、大きく口を開けた獅子は飛び獅子といいます。
この石燈籠は火袋ひぶくろだけに加工した石を使い笠石かさいしと台石は自然石で組んだ山燈籠と呼ばれるもので、獅子と火袋石は花倉御仮屋跡けくらおかりやあとにあったものを使い、笠石は磯海岸の防波堤に使われていたもので畳八帖分もある大きな石です。

(説明板より)

正門



正門
(鹿児島市・仙巌園)





(平成19年3月30日)

正門

明治4年(1871)に廃藩置県が行われ、翌年、薩摩藩最後の藩主29代島津忠義夫人達は、鶴丸城から磯に居住を移しました。
明治21年には、忠義本人も鹿児島に移り、その後、明治28年(1895)に鹿児島の大工、大重伊三次おおしげいさじに命じて建てさせたのがこの門です。
用材は裏山の樟を使い、島津家の家紋である丸十と五七桐が彫りこまれています。
現存する、本門は昭和58年〜59年(1983〜1984)に解体修理を行ったものです。

(説明板より)

仙巌園



仙巌園

(鹿児島市吉野町9700−1)





(平成19年3月30日)

国指定名勝
仙巌園


仙巌園せんがんえんは、万治まんじ元年(1658)19代島津光久みつひさが別邸として築いたもので、その景観が中国(江西省)竜虎山りゅうこざん山麓の仙巌に似ているところから名付けられました。
また寛文かんぶん12年(1672)、邸内に一亭を構えたところ、落成の日に鶴が舞い降りたので「喜鶴亭きかくてい」とも呼ばれるようになりました。
照葉樹林に覆われた磯山を背に、錦江湾や桜島を庭の景観に取り入れた借景の雄大さは、日本一であるといわれています。
また、自然の美しさを最大限に生かした日本庭園を基本としながらも、園内には、琉球国王から贈られた「望獄楼ぼうがくろう」をはじめ、「江南竹林こうなんちくりん」「曲水庭きょくすいのにわ」「千尋巌せんじんがん」など、中国・琉球文化の影響が至る所に見られることも特色の一つです。
特に、曲水の庭は、作庭当時の姿をほぼそのまま今日に伝え、また我が国最大級のものです。

(説明板より)

ご利用案内
年中無休  
開園時間 3月16日〜10月31日 午前8時30分〜午後5時30分
11月1日〜3月15日 午前8時30分〜午後5時20分
入園料金 庭園コース 大人 1,000円
御殿コース 大人 1,500円

【無類のカメラ好き】

激動の幕末から維新にかけての薩摩藩最後の藩主・島津忠義は、無類のカメラ好きで知られた。
維新の時、27歳の男盛りだったが、後見と称してすべてを取り仕切る父・久光の陰にあって悶々とした日々を送った彼には、写真機を持っての各地探訪が最大の憂さ晴らしだったのかも知れない。

忠義は、他藩に先駆けて木製の大きな湿板写真機や、ステレオ・カメラ、のぞき鏡一式をイギリスからいち早く輸入した。
そのカメラで、故郷の鹿児島・磯邸から見える桜島の勇姿、磯庭園の大石燈籠、雪の江戸城などを写している。
忠義が愛用したカメラは、イギリス製の箱型湿板写真機。
慶応3年(1867年)、王政復古の前年、薩摩藩が買い入れた紡績機械とともに海を渡ってきた代物である。

忠義の息子で30代当主の忠重は、その著『炉辺南国記』に、忠義の写真好きを証明するように、忠義自身が凝りに凝って作った移動用の「暗室かご」のことを記している。
「私の幼時にも写真機も二、三残っていたが、珍しいものは現像用の暗室であった。それは軽量の移動できる携帯用暗室とでもいい得るものであった。その構造は骨格だけが木材で、壁は竹を薄く削って編んで紙を張り、黒いウルシを塗り、一畳ぐらいの広さのもので、一端に開閉できる入口があり、他端と横の一面に赤色ガラスを張ってあって、その下には仕事を容易にするための板が付けてあり、その台の上には薬品なども置くようにしてあり、床上には水の容器もあり、現像用の流しもあり、不用の水を外へ出す管も付けてあり、まことに便利にできていた」

忠義は、一説によると、病気にかかっても頑として西洋医学を拒絶して漢方で通したとか、廃刀令が出てからも刀を作らせたとか。
絵は山水画を好み、死ぬまで丁髷ちょんまげを通すなど全体的には相当、保守的な人間だったようであるが、何故か、西欧文化である写真に対してだけは、別だったようだ。

(参考:松本逸也 著 『幕末漂流』 1993年4月初版発行 (株)人間と歴史社)

(令和元年10月18日 追記)


【海軍の誕生】

慶応3年(1867)10月14日、徳川慶喜による大政奉還で明治維新の幕が上がり、同年12月9日の王政復古の大号令によって新政府が成立した。
慶応4年1月、新政府初の官制である七科、すなわち神祇じんぎ事務科、内国事務科、外国事務科、海陸軍務科、会計事務科、刑法事務科、制度寮が設けられた。(当時の公用語は「陸海軍」ではなく「海陸軍であった)
このうち、海陸軍務科の長(三人制)は海陸軍務総督と呼ばれ、議定兼副総裁の岩倉具視、議定の仁和寺宮にんなじのみや嘉彰よしあきら親王(のちの小松宮彰仁親王)、同じく議定の島津忠義が就任した。

(参考:『歴史群像』 2012年8月号)

(平成25年10月19日 追記)



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