平成16年10月2日
天文6年(1537年)〜天正10年6月4日(1582年6月23日)
岡山県岡山市・高松城址資料館でお会いしました。
初めは備中国沖郡の石川久孝に属したが、毛利氏の進出により小早川隆景の配下となる。
天正10年(1582年)、居城の高松城が中国攻め途上の豊臣秀吉の水攻めを受けた。
本能寺の変の急報を受けた秀吉は、安国寺恵瓊えけいを使者に送り、宗治の自刃で毛利氏と和議を結ぶことを提案。
宗治は同年6月4日、兄入道月清、隆景からの検使末近信賀とともに自刃した。
高松城址公園資料館 (高松城址公園内) 交通:JR吉備線・備中高松駅下車(徒歩10分) 休館日:毎週月曜日 開館時間:午前10時〜午後3時 入場料:無料 |
備中高松城主 清水長左衛門尉宗治公之像 平川忠 作 |
清水宗治公自刃の阯にある供養塔 (高松城近くの妙玄寺境内) 妙玄寺は高松城三の丸跡に位置しますが、廃寺になっているようでした。 供養塔に向かって右端にある小さな自然石の石碑が宗治公の墓石だといわれています。 (平成16年10月2日) |
供養塔(裏)碑文
辞世
浮世をば今こそ渡れ武士の名を高松の苔に残して
天正10年6月4日
高松城主清水長左衛門宗治公
此の地に於て自刃す 行年46才
昭和37年10月建之
高松山妙玄寺15世
牧田日詔
牧田光峰
大類順教
従四位 清水長左衛門尉宗治公 首塚 (高松城本丸跡) 宗治公の首塚は石井山の上に葬ってありましたが、明治42年多くの参拝者の便を計って本丸へ移し祀られました。 (平成16年10月2日) |
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