新海竹太郎像 平成17年6月18日

新海竹太郎 しんかい・たけたろう

慶応4年2月10日(1868年3月3日)〜昭和2年(1927年)3月12日

山形県山形市十日町・歌懸稲荷神社でお会いしました。


仏師・新海宗松の長男として生まれる。
19歳で上京し、陸軍士官学校を目指して苦学したが入試に失敗し、近衛騎兵大隊に入営。
満期除隊後、後藤貞行に彫刻を学ぶ。
明治23年(1890年)東京美術学校で楠木正成の騎馬像を製作する時は、後藤貞行の助手として馬体原型を作った。
明治27年(1894年)、日清戦争のため召集され台湾に出征。
明治31年(1898年)、岡倉天心らと日本美術院を創立。
明治32年(1899年)、政府の命により北白川宮能久親王の騎馬銅像を作る。
明治33年(1900年)ドイツに渡りベルリンでヘルテルに師事、官学派の古典主義の彫塑を学ぶ。
2年後に帰国し、太平洋画会彫刻部を主宰。
明治40年(1907年)の第1回文展で『あゆみ』が好評を得る。
大正6年(1917年)帝室技芸員、大正8年(1919年)帝国美術院会員となる。
晩年は東洋芸術に傾倒し、『老子』などを制作した。
昭和元年(1926年)伊藤博文の胸像を作ったのが最後で、病に倒れ、翌年東京帝国大学付属病院で死去。


新海竹太郎銅像

新海竹太郎銅像
(山形市十日町生まれ)
甥 新海竹蔵 造像
(山形市十日町・歌懸神社境内)

昭和5年、有志により銅像が建てられたが、戦時中に供出。
昭和30年に再建されました。


(平成17年6月18日)

碑文

新海君造像記

君諱竹太郎姓新海氏山形人父曰宗松彫刻為業君幼目■耳染而悲其志也遂投身軍籍一旦感事専意家学攻苦黽勉自成一家奉小松北白川両親王之命各造其騎馬像英姿颯爽神采如生名聲隆起播■遠邇君未以為足更游徳計亰目之所觸心手相應其技大進既帰擢帝室枝藝員帝國美術員推會員東京帝國大學工學部属講師同人仰君如山斗其所彫塑大小白數十論者謂■以垂白世而不朽君名也惜昊天不弔昭和二年三月十二日以疾終于東京向岡之第春秋六十郷人追思不己属姪竹蔵君造像建之山形市歌懸稲荷神社境内嗚呼鳥師巳逝白雲千載後之逍遥像下者亦将有
■観感而興於藝為

昭和5年11月穀旦友人高島木峯
撰 田中慶書丹

※ ■は判読できなかった文字です。

歌懸稲荷神社



歌懸稲荷神社

(山形市十日町1−1−26)




(平成17年6月18日)

歌懸神社の由来 十日町鎮座

当神社は、山形城主斯波兼頼が山形城の守り神として城内に建立したのが、その始めと伝えられています。
それより10代目最上義定が山形城の部内に社殿を建て、12代目義光のとき、天童城主との開戦に際して勝利を祈願するなど、最上家代々の信仰が厚いものがありました。
城主や城下の人々が、短冊に歌を書いて神社に奉納する風習があり、歌を詠まないものは渡らせない橋も付近にあったところから歌懸の名が残ったと伝えられています。
元和8(1622)年、最上家が改易されて新城主となった鳥居忠政は、人心一新をはかり、部内稲荷口(現山形駅付近)にあったこの社を、三の丸の外の現在地に移しました。
それ以降、このご縁日である10日ごとに定期市が門前で開かれ、十日町の名の起こりとなり、その年の最初の十日市(1月10日)を初市と呼ぶなど、城下町の人々と深く結びつき信仰をあつめ、現在に至っております。

(歌懸稲荷神社のリーフレットより)


楠木正成騎馬像 楠木正成騎馬像
(東京都・皇居外苑)
北白川能久宮親王騎馬像 北白川宮能久親王騎馬像
(東京都千代田区・国立近代美術館付近)



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