親鸞聖人像 平成20年9月20日

親鸞 しんらん

承安3年4月1日(1173年5月21日)〜弘長2年11月28日(1263年1月16日)

茨城県那珂市・上宮寺でお会いしました。


浄土真宗の開祖。
京都生まれ。
9歳で比叡山に出家し、常行三昧堂の堂僧を勤める。
建仁元年(1201年)、京都の六角堂に参籠し、聖徳太子の示現によって法然に従い専修念仏にき帰入する。
承元元年(1207年)2月、朝廷は法然以下の専修念仏を弾圧し、親鸞は越後に配流された。(承元の法難)
建暦元年(1211年)の赦免後、建保2年(1214年)に妻・恵信尼を伴い関東に移住し、以後約20年間東国教化きょうけに努めた。
この間に絶対他力・悪人正機の思想を深め、主著『教行きょうぎょう信証』の初稿を完成、下野国高田の真仏しんぶつ・顕智けんち、下総国横曾根の性信しょうしんらの有力門弟が初期教団を形成した。
貞永元年(1232年)頃帰洛し、弘長2年(1262年)に90歳で没するまで、述作・推敲などの活動を続けた。


親鸞聖人御像



親鸞聖人御像
(茨城県那珂市・上宮寺)





(平成20年9月20日)
上宮寺



上宮寺じょうぐうじ
(茨城県那珂市本米崎2270)

第二十四輩 19番 明法房



(平成20年9月20日)

南無阿弥陀佛

上宮寺の開基明法房は親鸞聖人御在世の当時弁円と名のり聖人の命を殺害せんと企てたことがご縁となり、聖人を通して如来の大悲に値遇することを得て、聞法道場を開きました。
まさに明法房は我々に機の真実を示して下さいました。
以来、七百五十年の永きにわたりその道場は脈々と受け継がれ、名も上宮寺と改め三十代を数えることと相成りました。
この継職を機に堂宇を修復し境内を整備して、念仏の興隆を願い後の世までその法燈を伝えんがため、門信徒各位のご協力のもと、その記念の事業を平成6年4月に起工いたしました。
そして本堂の屋根替え、お内陣の修復、参道並びに駐車場の整備と事業が順調に進み平成7年4月23日にその継職落慶の法要を厳修することが出来ました。
茲に多額の浄財を寄進され記念事業達成に寄与された門信徒各位に深甚なる感謝の意を表すため碑を建立し、芳名を刻んで永く後昆に残すところであります。
合掌

平成7年4月
楢原山正法院上宮寺第三十世住職 釈明俊

(碑文より)

親鸞像 平成20年6月17日

大阪市中央区・北御堂でお会いしました。

親鸞像
親鸞聖人像
(大阪市中央区・北御堂)

親鸞聖人御誕生八百年立教開宗七百五十年を記念して之を建立す
昭和47年5月
輪番 坂本至誠

進納者
御銅像 廣瀬精一氏

(平成20年6月17日)
北御堂



北御堂
(本願寺津村別院)
(大阪市中央区本町4−1−3)





(平成20年6月17日)

北御堂と御堂筋

大阪一、いや日本一の美しい道路。
シャンゼリゼ通りがパリの顔なら、いちょう並木の御堂筋は大阪の顔です。
その御堂筋は北御堂・南御堂を結ぶ道路であることから時の関市長が命名されました。
因に「北御堂」は浄土真宗本願寺派(お西さんとも呼ばれています)「本願寺津村別院」というのが正式名称です。
私たちの大阪は、豊臣秀吉大阪城(1583年)築城以来、城下町として栄えてきたと思われがちですが、本当は本願寺第八代「蓮如上人」がこの地を見出され、はじめて「大坂おおざか」という名をもちいられ、石山本願寺(1496年・現大阪城あたり)を建立されたことに始まるのです。
その後、本願寺は京都に移りましたが、本願寺ゆかりの大阪の地に津村別院(北御堂)が建立され、寺内町として発展してきました。
かつては「御堂さんの鐘が聞こえる処で暖簾のれんをはってまっせ」と、大阪商人の精神的バックボーンとしての役割を果たしてきたようにも思います。
このように、今日の北御堂の境内は、昼休みの時、OL・ビジネスマンのオアシスとして、又、御堂筋は、歌謡曲にも歌われる都会的ムードのある散歩道として、ともに国際商業都市大阪のみなさんに親しまれています。

(説明板より)

親鸞像 平成20年10月25日

長野県松本市・宝栄寺でお会いしました。

親鸞聖人御像



親鸞聖人御像

(松本市・宝栄寺)





(平成20年10月25日)

恩徳讃

如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報すべし
師主知識の恩徳も
骨をくだきても謝すべし

我なくも法は尽せじ和歌の浦
  あおくさ人のあらんかぎりは

一人居て喜ばば二人と思ふべし
二人寄りて喜ばば三人と思ふべし
その一人は親鸞なり

弘長2年11月 愚禿親鸞■90歳

(碑文より)

宝栄寺



宝栄寺
(長野県松本市旭1−5−13)





(平成20年10月25日)

真宗大谷派 智海山寶榮ほうえい

寶榮寺は寛永19年水野氏に従って、三河の国吉田より松本の堂町に来た。
次の城主戸田氏は、寶榮寺に書院畑八反五畝を寄進したので、そこに移転し松本城の鬼門を鎮護してきた。
明和7年の大火で本堂は類焼したが城主の信仰も篤く、再建された欅造りの本堂の豪壮さは実に見事である。
寺の宝物岡田東虎の猫も描かれた涅槃図は有名である。

平成19年3月吉日
城東地区史跡保存委員会

(説明板より)

親鸞像 平成20年10月28日

長野県長野市・善光寺でお会いしました。

親鸞聖人像



親鸞上人
(長野県長野市・善光寺)





(平成20年10月28日)

親鸞聖人獻松之御影ノ由来

聖人ハ承安三年山城日野ノ里ニ御誕生
比叡山ニテ十年間御修学後吉水ノ聖者法然上人ニ念佛ノ大道を聴カレ念佛行者トナラレタ
タマタマ念佛禁止ノ法難ニテ越後國分ノ草庵ヘ下向セラレ數年ノ後御恩免ニナリ國分ヨリ御歸洛ノ途中恩師法然上人ノ訃ヲ聞カレ嗚咽慟哭遊サレ此上ハ都ヘ歸ルモ詮ナシト衆生濟度ノ恩師ノ遺志ヲツカレ善光寺へ御参籠ニナッテ
  南無善光寺如来尊親鸞カ一生ヲカケテノ
  邊土弘法ノ念願ヲ御照覧アラセ給ヘ
ト松ヲ供ヘ一心不乱ニ御祈願セラレタ
カクテ浄土真宗ノ礎ハ定マレリ
此聖人ノ御一生ヲ通シテ最厳粛ナ壮年ノ御姿ヲ銅像ト致シマシタ

(碑文より)

善光寺



善光寺

(長野県長野市元善町)





(平成20年10月28日)

親鸞聖人御手植霊木



親鸞聖人御手植霊木
(栃木県芳賀郡二宮町・専修寺)





(平成20年7月19日)

親鸞聖人御手植霊木

この大欅の古木は750年前親鸞聖人御手植と傳えられ長屋門の前にありましたが昭和42年8月枯死倒壊したので記念樹として永く保存し参詣の皆様に聖人時代を偲んで頂くと共に国の指定史跡にふさわしい霊木として傳えます。

国指定史跡 本寺 専修寺

(説明板より)

専修寺境内


専修寺境内

(栃木県芳賀郡二宮町大字高田1482)

山門(国指定重要文化財)
如来堂(国指定重要文化財)



(平成20年7月19日)

史跡 専修せんじゅ寺境内
二宮町大字高田1482番地
境内面積464アール(1406坪)
昭和42年7月6日 国指定

親鸞は承元元年(西暦1207年)法難にあって越後国に配流されたが5年ののち罪を許されて関東に入り常陸国稲田に滞在布教の為この地に巡錫されたとき大内氏一族の懇請によって一宇が作られたのが専修寺の始まりと伝えられている
信州善光寺感得の一光三尊仏を本尊としのち真仏(2代)さらに顕智(3代)にうけつがれ東国における初期真宗教団の根本道場として隆盛をみるに至った
寛正6年(西暦1465年)真慧(10代)は伊勢一身田に専修寺をつくり本山としたので以来この土地は下野国旧本山と称されるようになった
御影堂如来堂等その大半は江戸時代の再建にかかるものである
後堀河天皇(第86代)勅願所としても世に知られている

(説明板より)

親鸞聖人御廟



親鸞聖人御廟
(栃木県芳賀郡二宮町・専修寺)





(平成20年7月19日)

史跡 専修寺境内 親鸞聖人御廟
昭和42年7月6日 国指定

親鸞は専修寺建立後貞永年間(西暦1232年頃)京都に帰り弘長2年(西暦1262年)90才をもって遷化された
葬儀は3代顕智によって営まれたがその際遺歯9粒を携行して専修寺に帰りここに埋葬されたもので鎌倉時代中期の面影を残す廟所である

(説明板より)




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