【震洋】
特攻艇「震洋」は、魚雷艇の6分の1の大きさで、1.3トン、乗組員も魚雷艇の7人に対し、1人ですむ。
その前部に300キロの高性能爆薬を収めて体当たりする。
当初は、爆発の効果について疑問視されたが、テストの結果、浅い海面で炸裂すれば商船の水線下に、3メートルの破口を生じることが判った。
軍令部要求の爆薬300キロは無理なので、爆薬は250キロに減らされた。
艇はなるべく手軽に安価にというので、外板はベニヤ板、骨組みも木製で、艇の底は波に強いV字形にされた。
艇の長さは6メートル、幅1.6メートルで、エンジンは中央、操縦席は最後部にあった。
速度は23ノット出た。
18ノットで125浬(人間魚雷「回天」の3倍の航続距離)の航続力があった。
後部座席の左右に、ひもを引いて発射するロケット式散弾(ロサ弾)が1発ずつ設けられた。
これは、突入前に敵の機銃員を倒すためである。
艦政本部は、1.5トン積みのトラックのエンジンに目を付け、これが成功の因となった。
海軍に割り当てのトラックの3割を「震洋」のエンジンにまわした。
「震洋」はテストの結果、欠陥のあった艇首を改良し量産に入った。
昭和17年7月には75隻が完成、以後、500隻が月産され、終戦までに6200隻に達した。
大村湾にその訓練所が設立され、予科練を中心に乗員が集合。
50隻で1個の隊を編成し、基地隊員を含め人員は180名である。
「震洋」は小笠原諸島や海南島へ送られた。
初出撃は昭和20年2月のフィリピン・コレヒドール島防衛戦である。
本土決戦には、「震洋」と「海龍」のコンビで突撃隊を編成し、四国の沿岸防備用にも配置された。
その数は、小笠原や中国地方のものを含め、3730隻に達した。
基地には、高さ2.5メートル、幅3メートルほどのトンネルが掘られ、4隻ずつ収容された。
海面に降ろすには、トロッコや、リヤカー方式がとられた。
また、機銃員と13ミリ機銃を付けた「震洋」5型も作られた。
エンジンを2基搭載したので、重量は2.1トンに達した。
5型は25隻で1個戦隊を編成し、終戦時には46隊があったが、実戦には出ていない。
更に、ロケットを動力とする高速「震洋」も試作されたが、実用化されなかった。
(参考:木俣滋郎 著 『幻の秘密兵器』 光人社NF文庫 1998年8月発行)
(平成31年4月21日 追記)
第45震洋隊 |
通称は、村山部隊、総員188名、震洋1型が50隻配備されたと言われている。
済州島には第45震洋隊、第119震洋隊、第120震洋隊が駐屯。
総指揮官は浜田少佐だったと言われている。
昭和20年4月6日、輸送船「城山丸」で佐世保を出港。
第45震洋隊は4月8日に城山浦に上陸。
士官は民家を宿舎として借り上げ、兵士は急造の兵舎5〜6棟を利用した。
終戦後、第45震洋隊(村山部隊)と第119震洋隊(田中部隊)は西帰浦に集結し、船で鎮海を経由して帰国した。
第45震洋隊基地跡(済州島・城山日出峰) (平成24年5月26日) |
第120震洋隊 |
通称は小野部隊、総員191名、震洋5型が26隻配備されていたといわれている。
済州島には第45震洋隊、第119震洋隊、第120震洋隊が駐屯。
総指揮官は浜田少佐だったと言われている。
昭和20年4月6日、輸送船「城山丸」で佐世保を出港。
第120震洋隊は、4月9日に翰林面に上陸。
4月29日から高山里小学校を宿舎として使用し、6月からは基地隊舎を使用する。
終戦後、地域住民の漁船と契約して昭和20年9月から3回に大部分が帰国した。
大韓民国(韓国)済州島・「高山里水月峰(コサンリ・スウォルボン)」
震洋の秘匿壕跡 済州島 「高山里水月峰(コサンリ・スウォルボン)」 (平成24年5月25日) |
謎の施設跡 済州島・「高山里水月峰」の近くの海岸 (平成24年5月25日) |
現地の説明板
Japanese Military Tunnel |
Here and there in jeju-do, there are scattered gigantic military facilities the Japanese army built. Suweolbong is a site where the japanese army stored boats for suicide attack and bullets to attack the US warship in the event of their entry into Gosan area. |
説明板(英文部分) |
第138震洋隊 |
特攻ボートの格納トンネル (茨城県北茨城市平潟町・平潟港) |
第138震洋隊錬成基地跡 (茨城県北茨城市平潟町・平潟港) (平成18年11月10日) |
昭和20年6月10日、本土決戦に備えて第138震洋隊を設営。
隊員は45名。
全員が予科練(土浦)第14期修了者だったという。
基地は福島県いわき市小名浜。
小名浜から訓練のため平潟に回航され、この地で訓練を行った。
実際に出撃したことはなく、昭和20年9月20日に解散。
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