鹽澤昌貞像 平成18年3月11日

鹽澤昌貞 しおざわ・まささだ

明治3年10月20日(1870年11月13日)〜昭和20年(1945年)7月7日

東京都新宿区西早稲田1丁目・早稲田大学構内でお会いしました。


鹽澤昌貞先生像



「鹽澤昌貞先生」像

(早稲田大学)





(平成18年3月11日)

鹽澤昌貞(しおざわまささだ)先生は 明治3年水戸に生まれ 幼にして漢学を学び その才を認められた
明治19年 笈を負って上京 本学部の前身東京専門学校英語政治科に入学
明治24年 主席をもって卒業
明治29年から明治35年まで アメリカ合衆国のウイスコンシン大学 ドイツ国のハレ大学 ベルリン大学に留学
同年早稲田大学と名称を改めた本学本学部生え抜きの教授第一号となった
以来 昭和18年に定年により退かれるまで 本学部の教授 学部長として尽力され また 学長 総長としても本学全体の発展のために献身された
本学の創設者大隈重信侯の知恵袋として 大隈侯の経綸に輝きをそえる役割を果たされたが 社会政策学会の主導者の一人として 自らも近代日本の発展のためよき道筋をつくるべく努力された
先生は明治42年 本学出身者最初の法学博士となり 昭和9年には これまた初の帝國学士院会員に選ばれた
先生は昭和20年7月7日 その生涯を閉じられたが ここに建つ胸像は 昭和15年 先生の古希の寿として 後輩後学の寄附金によりなるものである
製作者は彫刻界の名匠朝倉文夫である

平成3年3月
早稲田大学政治経済学部

(説明板より)


【塩沢昌貞〜第二代早稲田大学総長】

明治3年10月20日、茨城県水戸市荒神町(現・城東2丁目)に、水戸藩士・関昌恒、「ふゆ」の二男として生まれた。
のちに水戸藩士・塩沢元孝、「なか」の養子となり、塩沢を名乗る。

昌貞は身体が小柄で、性格は柔和、控え目で落ち着きがあり、人好きのするタイプで、聖人君子という風格の持ち主だったと評されている。
人を厳しくとがめたり、怒鳴りつたりすることはなく、常に自分の説を立てるにあたって公平中庸を尊んだため、学問上の敵はいなかったといわれている。

昌貞は6、7歳頃から吉弘元善の家塾で四書の素読を受け、長じて『大日本史』編纂に務めた歴史学者・栗田寛の家塾「輔仁ほじん学舎」に学び、漢学を修めた。
その勉強法は、もっぱら独学で、分からない箇所に赤紙を貼り、後で先生の教えを求めるという方法であった。
やがて、栗田より彰考館生員として推挙され、ここで『大日本史』編纂の基本となる尊王思想を学びとった。
明治19年、東京英語学校で主として英語と数学を学び、21年に卒業。
明治21年9月、東京専門学校(早稲田大学の前身)政治科に入学し、12月には新設の英語政治科に転じる。
明治24年7月、東京専門学校を卒業し、29年まで上野帝国図書館で研究を進めるかたわら著訳教授に従事し、正則予備校と早稲田中学で教えている。
明治29年9月、家永豊吉の恩師・イーリからの書簡をきっかけにウィスコンシン大学の「フェロー」に選ばれて留学。
明治33年6月、ウィスコンシン大学よりPh・Dの学位を与えられる。
彼の論文は、神武天皇即位から鎌倉幕府に至る我が国の社会経済制度の研究であった。
学位取得後、シカゴで研究に従事。
明治34年10月、ニューヨークからヨーロッパへ向かい、ハンブルク到着後、イーリ教授の紹介状でヨハーネス・コンラートに入学。
「国民経済学概説」「財政学」「現代社会問題」などを精力的に学ぶ。
さらにベルリン大学に転じて、経済及び済世学の研鑽を積んだ。

明治35年9月、フランスおよびイギリスの見学を終え帰朝。
早稲田大学の熱い歓迎を受け、特に大学の創立者で初代総長である大隈重信の昌貞に寄せる信頼は絶大であった。
帰朝後の早稲田大学の開校にあたり、昌貞は講師として大学部政治経済学科、法学科の「経済学」と、専門部政治経済科の「経済学」及び「財政学」を担当。
明治37年、大学部政治経済学科・専門部経済科の教務主任となり、明治40年には教授となった。
明治42年、早稲田大学出身者では最初に法学博士の学位を授与。
明治44年、大学部政治経済学科・専門部政治経済科長となる。
約1世紀余り続く「早稲田騒動」の中、大正10年10月、第4代学長に就任。
しかし、昌貞の最大の擁護者である大隈重信が、ついに大正11年1月10日に逝去。
大隈没後の新情勢に即応できるよう校規改正が計画され、大正12年5月、従来の総長・学長制から総長のみを置く新制度に切り替えられた。
よって、昌貞は第2代総長となり、在任1年半の間、大隈ならびに大隈夫人の逝去、大隈邸の受贈、記念事業の発足、創立40周年記念祝典などの多事の中に職責を全うした。
総長辞任後、半年間政治経済学部長を務める。
大正13年から14年にかけて、大学の命で学事視察のため欧米各国に出張。
その間に、国際労働会議(ジュネーブ)に嘱託として、また、国際連盟協会国際会議(リオン)、社会政策国際会議(プラハ)には日本代表として参加した。
昭和9年、帝国学士院会員に選定される。
昭和18年3月、早稲田大学最初の定年退職者の一人として教授を退任し、名誉教授に推され、理事および維持員としての地位を終身保持した。

戦争が激しくなり、東京を離れて息子・武雄の療養地である静岡県伊東市に疎開したが、病を患って昭和20年7月7日に没した。
享年74歳。

(参考:坂田暁風著 『城東歴史散歩』 茨城新聞社出版局制作 平成13年発行)

(平成23年7月29日追記)



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