輜重兵第10連隊

(通称号:鉄5454部隊)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
大阪のち姫路 明治30年:大隊創設
昭和11年:連隊に改称
第10師団 ルソン島


日露戦争時、大隊の第3糧食縦列(長・永吉充五郎中尉)は「常陸丸」に乗船し、近衛後備歩兵第1連隊と共に、玄界灘でロシア艦に撃沈されて悲運の最期を遂げた。
このため、大隊は3個縦列となり、その再編された縦列が遼陽会戦中に到着するまで、師団は輸送力の不足に苦労した。

昭和7年の師団主力の満州派遣時には、大隊から輸送監視隊を編成派遣した。(翌年、輜重兵中隊に改編)
支那事変時、武漢攻略戦の初期の連日の炎天で、日射病とコレラ患者が多発し、前野四郎連隊長がコレラで戦病死した。
北支に転進後、連隊本部を石家荘に置き、中隊を歩兵連隊の位置に分駐して粛正作戦に協力した。
昭和15年の満州移駐では、連隊は佳木斯に駐屯。
関特演では2個大隊に増強されて猛訓練に明け暮れた。

昭和19年夏、台湾へ移動、ついで比島へ転進途中、連隊主力の乗船「乾瑞丸」がリンガエン湾沖で海没し、鍋島英比古連隊長が戦死した。
師団(第10師団・鉄兵団)が勇戦敢闘したバレテ峠地区の戦闘では、連隊は猛烈な砲爆撃下、険難な地形を克服して第一線への補給輸送に挺進。
最後は歩兵部隊として第一線の戦列に加わって勇戦した。
バレテ峠失陥時には連隊は大部を消耗しており、カシブ盆地への転進時には飢餓線上をさまよった。
終戦後、ピナパガン終結地からエチアゲに向かった連隊の生存者はわずか100人程度だった。(台湾出発時は約1300人)






「鉄五四五四部隊 比島散華」碑

兵庫県姫路護国神社




(平成25年12月16日)




輜重車の残骸
(兵庫県姫路護国神社)




(平成25年12月16日)

副碑・碑文

鉄5454部隊(第10師団輜重兵第10聯隊)は昭和19年7月満洲国三江省佳木斯に於いて動員下令
同8月同所を出発台湾防衛の任に就く
同年12月比島作戦参加の為め高雄港を出発
主力を以てルソン島リンガエンに一部を以てマニラ及びアパリに上陸す
途中主力の乗船せる乾瑞丸は敵潜水艦の攻撃を受けて撃沈
部隊長鍋島少将以下多数の戦友を失ふ
昭和20年1月中部ルソン島バレテ峠附近に終結米軍迎撃の準備を整ふ
同年2月優勢なる米軍は空陸呼応して我が陣地正面に対し攻撃を開始す
此処に於て聯隊は第1大隊をして第一線部隊に対する補給を継続せしむると共に第2大隊をして其の補給任務を解除し之を歩兵部隊に改編し第一線陣地の守備に就かしむ
恰も我が第2大隊陣地正面は米軍の主攻撃方向に当りたる為其の戦斗は惨烈を極め全員勇戦奮斗せるも戦況我に利あらず大隊長以下多大の犠牲者を出すに至れり
かくの如くして此の方面に於て激戦を継続すること半年有余部隊は爾后の作戦準備の為ビノンカシブを経てピナパガンに向ひ転進を開始せり
此の間凡そ200粁人類未踏の山岳地帯にして進まんとすれど道無く食はんとすれど糧なく将兵の疲労困憊は極度に達し遂に力尽きて斃るゝもの数を知らず
かくして8月初めピナパガンに到着戦斗準備を完了す
此の時に於ける部隊の生存者は100有余名なり
昭和20年9月11日終戦を知る

昭和33年4月政府の手により我等念願の比島方面遺骨収集が行はれ幸にしてこれが分骨を受く
此処に生存者同志相寄り護国神社境内に石碑並に献木し亡き戦友の偉勲を讃へ其の霊を弔ふ


フィリピン・ルソン島




日本軍の慰霊碑

(バレテ峠)




(平成24年4月26日)
慰霊碑のある丘からみたバレテ峠頂上付近
(写真右がプンカンの方角、右から左に向かって北上する)
道路の向こう側の山に日本軍の防禦陣地が散在していた。

(平成24年4月26日)



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