輜重兵第5連隊

(通称号:鯉第5181部隊)

編成地 編成時期 終戦時の所在地
広島 明治21年:第5大隊創設
昭和11年:連隊に改称
セラム島

日清戦争では、大隊が所属する第5師団は第1軍に属して平壌を攻略。
先遣の木越旅団に、輸卒と軍夫により車輌を引く特別編成の臨時輜重隊を配属した。
終始輸送力の不足に苦労し、鴨緑江の戦闘後にようやく他の大隊並みに改編した。
明治33年の北清事変には、大隊は先遣の臨時派遣隊に駄馬編成の臨時輜重隊を編成して派遣した。
上陸当初は人馬の疲労のため多大の苦労を重ねるが、大隊の通州進出に伴って輸送力も軌道に乗る。
この間、臨時輸送隊も車輌編成に改編された。

日露戦争では、一時、第6師団の輜重隊が未着の為、第3〜第5輜重大隊から各1縦列を第6師団に配属した。
このため、各師団とも輸送力不足に苦しみ、第5大隊では300両の支那馬車輸送隊を編成して危急をしのいだ。
黒溝台会戦では、大隊は2縦列を投入して第8師団を救援。
患者約400名を後送した。
また、奉天会戦では患者の後送数は1300名に及んだ。

日中戦争では、第5師団は北支を始め、中・南支へ、さらにノモンハン戦の増援のため満洲に入るなど、その足跡は全支に及んだ。
昭和15年末、南方作戦準備のため編成を自動車化する。
輓馬主体の編制から自動車3個中隊(総数124輌)に改編。

マレー作戦では、第5師団は上陸後、ジョホールに向って突進。
連隊はその後方で兵員、弾薬、糧秣、鉄道復旧資材の輸送に活躍した。
シンガポール攻略の時には、師団に配属の小発動艇33隻を陸上輸送する。
シンガポール陥落後は、第5師団はしばらくの間、マレー半島の治安警備に任ずるが、その後間もなく、豪北方面の離島に転用され遊兵化してしまった。
大戦末期、マレー方面へ抽出中に、セラム島で終戦を迎えた。


馬碑


『馬碑』

(広島市中区基町・基町河川公園)


輜重兵第5連隊 隊跡・馬碑
昭和3年秋11月建之


(平成22年5月1日)

馬碑由来

昭和3年、馬碑は輜重兵第5聯隊の兵営西南太田川沿いに建立された。

昭和20年8月6日朝、米軍機の原爆投下により、輜重隊は壊滅、多くの兵士が犠牲になった。
その中で馬碑は熱風を受けながらも唯一残った。


昭和57年、廣輜会(原隊の戦友会)により、隊跡馬碑と表示、復元された。

自動車が発達していない昔、物の運搬は主として馬匹によりなされていた。
軍馬は日本各地より徴発(強制買い上げ)され、隊で調教、乗、輓、駄馬として、兵器、弾薬、糧秣の輸送に任じた。
戦場に於いて、四肢の蹄に鉄をつけて保護され、車を輓き、また鞍上に百キロ余りの荷を背負わされ、人に寄与した動物は馬だけであった。
蹄鉄は「馬の命」、行軍中落鉄した時は、兵の沓下を重ねて蹄を保護し、次の休止時に予備鉄を装着した。
戦場では晴雨昼夜の別なく行軍の為、鞍傷した馬背を兵は寝ずに水で冷やし看病し続けた。
兵にとって馬は正に戦友であった。
数次の作戦参加と米軍機の銃撃により、半数は戦死、終戦時は武装解除と共に、中国側に引き渡し、悲しくも馬は復員できなかった。

初年兵時代、「馬は三百円、お前等は一銭五厘で幟をたててやって来る!」と、古年兵に叱られ乍鍛えられ、然も、馬が先輩であり、初年兵の肩章にある星の数で見分けるのか、当初は思うように動いて貰えなかった。
尚、馬は「活兵器」として大事に扱われた。

戦後60年を経て、戦友は八十路を越え、健在者僅少となり、茲に輜重兵第5聯隊に唯一残された歴史的象徴たる、馬碑の由来を後世に伝えるべく、戦友の浄財と靖国神社の助成に依り、付帯施設を新設した。

平成18年
元中支派遣 第39師団輜重隊
        第132師団輜重隊
有冨部隊戦友会

(説明板より)

輜重兵第5連隊跡
広島市中区基町14・基町河川公園(空鞘そらざや橋東)


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