副島種臣 そえじま・たねおみ

文政11年9月9日(1828年10月17日〜明治38年(1905年)1月31日


実兄の枝吉経種(神陽)の義祭同盟に参加し尊王攘夷運動にたずさわる。
大隈重信と大政奉還の斡旋を試み藩から謹慎処分を受ける。
維新後、参与・参議・外務卿などを務め、樺太国境問題、マリア・ルス号事件、琉球帰属問題の処理などにあたり、全権大使として日清修好条規批准書の交換を行った。
明治6年(1873年)参議兼外務卿となったが征韓論で下野、翌年、民撰議院設立を建議して愛国公党の結成に加わる。
明治21年(1888年)枢密顧問官。
翌年、大隈の条約改正交渉を批判して天皇の戒諭を受けた。
枢密院副議長を経て明治25年(1892年)、第一次松方内閣の内相となるが、白根専一次官と対立して辞任。
詩文に優れ、東邦協会会頭を務めた。
伯爵。


誕生地碑



誕生地碑
(佐賀県佐賀市・佐賀県社会福祉会館)





(平成20年11月24日)
誕生地跡



誕生地跡

(佐賀県佐賀市鬼丸町7−18・佐賀県社会福祉会館)





(平成20年11月24日)

副島種臣誕生地
(生没年:1828〜1905)

副島種臣は、この地で生まれ幼名二郎、父は国学者枝吉南濠えだよしなんごう
父や兄・枝吉神陽しんようの感化で佐賀藩内の尊王論そんのうろんのリーダーとなりました。
安政6年(1859)副島家の養子になりました。
広い教養とともに長崎では、大隈重信と一緒に英学校致遠館ちえんかんの責任者となり、アメリカ人宣教師フルベッキに学んだことが、明治政府の下で外務卿として活躍するのに役立ちました。
明治5年の「マリア・ルーズ号事件」では、助けを求めた中国人を解放したことで「正義人道の人」と国際的に支持され、「日清修好条規」の批准など外交手腕を発揮しました。
のち、学識の深さで明治天皇の学問相手(侍講じこう)や内務大臣などを歴任しました。
なお蒼海そうかいなどの号で近代書家、さらに漢詩人としても有名です。
墓は高伝寺のほか、東京の青山墓地にもあります。

(説明板より)

 (説明板より)

副島種臣生誕地

副島種臣、1828(文政11年)〜1905(明治38年)は枝吉南濠の二男としてこの地に生まれた。
父や兄神陽の感化で尊皇運動に参加したが、明治維新後新政府に招かれ、参与、参議、外務卿、内務大臣等を歴任した。
その間樺太境界についてロシアと談判、ペルー船マリア・ルーズ号に奴隷として監禁された清国人苦力クーリーを解放し、副島外交の名を内外にうたわれた。
のち中国に行き「日清修好条約」を締結、さらに沖縄が日本領であることを認めさせた。
また和漢の学に通じ、その学殖と高潔な人格をもって明治天皇の一等侍講をつとめた。
特に「蒼海」と号し明治を代表する卓越した名筆家として知られている。

昭和48年10月
資料提供 佐賀県教育委員会
佐賀北ロータリークラブ

(説明板より)


弘道館記念碑



弘道館記念碑
(佐賀県佐賀市・徴古館の脇)





(平成20年11月24日)

藩校 弘道館

佐賀藩の藩校は「弘道館」(学館)といい、8代藩主鍋島治茂が1781(天明元)年に創設したもので、後に水戸・但馬と並んで天下三弘道館の一つと称されました。
松原小路1900坪の敷地に文武稽古場を建て、古賀精里(後の寛政の三博士の一人)を教授に朱子学を中心にした藩士教育を行い、人材の育成に努めました。
9代藩主鍋島斉直の時には、清里の子古賀穀堂が教授になり、「学制管見」を著し、10代藩主になる鍋島直正の侍講も勤めています。
10代鍋島直正は、1839(天保10)年に北堀端の現在地(ここは東端)5400坪に整備拡張し、弘道館・蒙養舎に七局六寮のほか大講堂・武芸場・厨房などを備え、学館予算も大幅に増額し、大規模な学校になりました。
また、藩士の子弟に限らず教育することにし、翌年6月の新築開講にあたり、「文武を励み、国家(藩)の御用に立つ様心掛くべし」と訓示されました。
学課は儒学・和学・漢学・兵学・筆道・習礼・算術・槍術・剣術・柔術・馬術・砲術・水練・蘭学(洋学を含む)、さらに洋式操練も加え、厳しく文武に研鑽を積ませています。
1855(安政2)年に始まる長崎海軍伝習には幕府の人数を上回る最多の48名を参加させ、海外の最新技術を学ばせています。
明治新政府で活躍した副島種臣、大木喬任、大隈重信、佐野常民、江藤新平、島義勇などは皆弘道館の出身でした。
弘道館を中心とした徹底した教育による優秀な人材の育成が、幕末の佐賀藩が全国に先駆けて近代化を成し遂げる原動力になったと考えられます。
この記念碑は1923(大正12)年3月の建立で、題字は12代侯爵鍋島直映の揮毫、碑文は文学博士久米邦武の撰、中島雅明の書になるものです。

(説明板より)

弘道館跡



弘道館跡

(佐賀県佐賀市松原2−5−22・徴古館)





(平成20年11月24日)

義祭同盟之碑



義祭同盟之碑
(佐賀県佐賀市・楠神社)





(平成20年11月24日)

明治維新佐賀勤王家会合の先駆をなした義祭同盟は、佐賀藩の学者枝吉神陽に薫陶を受けた志士等が嘉永3年(1850)本庄村梅林庵に祀る楠公父子尊像の御前において祭典を執行した。
これが佐賀勤王論の始まりである。
佐賀藩の重役執政安房あわは義祭同盟を支持、安政5年には八幡宮境内に楠社を創建し自ら盟主となって5月25日新装の社殿で盛大な義祭を執行した。
この同盟に参加したのは副島種臣・江藤新平・大隈重信等実に多くの志士たちであった。
この同盟は明治13年まで毎年5月25日に厳粛な義祭を行い、祭典終了後は無礼講として一切格式を問わず談論風発、悲憤慷慨して縦横の論議を闘わし最も意義ある会合となした。
これが維新鴻業の原動力となり後年この中より明治政府における大政治家をはじめ数多くの優れた人材を輩出し佐賀藩の面目を躍如として天下に知らしめた。
ここに同盟結成百五十周年を記念し当時の志士たちの計り知れない労苦を偲び、遺された偉大な功績を稱えてこの顕彰碑を建立するものである。

平成12年5月吉日
長沼冨士男謹識
宮司謹書

(碑文より)

楠神社



楠神社
(佐賀県佐賀市白山1−3−2・竜造寺八幡宮の脇)





(平成20年11月24日)

本邦創祀正一位 楠くすのき神社由緒沿革

楠神社は安政3年(1856年)佐賀藩の執政鍋島安房が造営した。
楠公なんこう父子櫻井の驛訣別の像が祀ってある。
この木像は寛文2年(1662年)佐賀藩士、深江平兵衛入道信渓、大木英鐵等が京都の仏師法橋宗而に製作を依頼して同3年佐賀郡大和町永明寺に小堂を建てて祀った。
それから180年後佐賀藩校、弘道館教■枝吉神陽等が古文書によって楠公父子像を発見、嘉永3年義祭同盟を組織し信渓の裔深江俊助種禄を盟主として高伝寺の末寺梅林庵において盛大なる祭典を行った。
これが義祭同盟の起りであり、佐賀勤王論の始まりである。
開明的な10代藩主直正(閑叟公)は義祭同盟を支持、執政安房は自ら盟主となり、安政5年5月25日新装の社殿で盛大な義祭を執行した。
同盟に参加したのは江藤新平(のち司法卿)大木喬任(のち文部卿)副島種臣(外務卿)島義勇(秋田県令)ら郷土が生んだ明治維新の元勲として國事に盡瘁した佐賀藩の功臣は悉く此の義祭同盟に参加した。
大隈重信(総理大臣)17才、久米邦武(東大名誉教授)16才はこの時最年少者として初めて参加、この境内で日本一君論いっくんろんを論じ合った。
大隈は「この同盟の中から後年政界に立って頭角を現わした人も多い、予がこれに加盟したのは、世に出て志を立てるきっかけになったと言ってもよい」と回顧している。
こうして楠公父子の神霊に育くまれて明治維新の志士たちが生まれた。
この楠公父子の像が佐賀に始めて祀られたのは、かの有名な水戸光圀が建てた湊川建碑「嗚呼忠臣楠子之墓」(神戸市湊川神社境内)に先立つこと29年実に我が國初の楠公を祀った神社である。

非理法権天ひりほうけんてん
楠正成がその旗に印せし文字
非は理に勝つこと能あたわず、理は法に勝つこと能わず、法は権に勝つこと能わず、権は天に勝つこと能わず、天は宏大にして私無しと云う語にもとずく

(説明板より)


「佐賀の七賢人」の碑



「佐賀の七賢人」の碑

(佐賀県佐賀市・佐嘉神社)





(平成20年11月24日)

佐賀の七賢人

鍋島直正公(1814〜1871)
肥前佐賀第10代藩主。
文化11年江戸藩邸に生まれ、幼名貞丸、のち斉正、直正という。
号は閑叟。
天保元年家督相続。
藩財政の改革、長崎警備に力をつくし、科学をとりいれ、鋳砲建艦に努力して海軍の基礎をつくった。
公武合体派であったが、幕末の政局では自重し、明治政府内では軍防事務局次官・北海道開拓使長官をつとめた。
明治4年没。
年58。
正二位をおくられ、のち従一位となる。

大隈重信(1838〜1922)
天保9年、佐賀藩士、大隈信保(鉄砲組頭)の子として生まれ、弘道館に学び義祭同盟に参加した。
長崎で英語を学び、明治政府の徴士となって外交・財政に活躍。
のち改進党を組織し、藩閥政府と抗争した。
また早稲田大学の前身、東京専門学校を創立。
のち、外務大臣、農商務大臣、総理大臣などを歴任、政治・文化に功績があった。
大正11年没。
年85。
従一位をおくられた。

江藤新平(1834〜1874)
天保5年生まれ。
名は胤雄、号は南白。
弘道館に学び義祭同盟に参加。
維新時、大木とともに東京遷都を建白。
また明治政府内で、立法・制度において偉大な功績があり、とくに司法卿として司法制度の基礎を作った。
明治6年参議となる。
征韓論争で破れ、佐賀県士族におされて憂国党と組み佐賀の役で戦ったが敗北、逃れて四国で捕われ明治7年非道にも処刑された。
年41。

大木喬任(1832〜1899)
天保3年佐賀藩士大木知喬の長子として生まれ、通称幡六、のち民平と改めた。
弘道館に学び義祭同盟に参加。
明治新政府以後、東京府知事・民部卿・文部卿・司法卿を歴任。
3回にわたる文部大臣として学制・学校令・教育勅語などの教育体制の整備に尽力した。
元老院・枢密院両議長を歴任し、明治国家の確立に努力した。
常に開明的な立場から圧迫をうけながらも終始儒教主義をおしとおした。
明治32年没。
年68。

佐野常民(1822〜1902)
文政5年佐賀藩士下村充武贇の五男に生まれ、11歳で藩医佐野常徴の養子となる。
弘道館で学び、医学を緒方洪庵のもとで研修、のち藩士に物理・化学を教えた。
幕末国産最初の蒸気機関車模型製作や佐賀藩初のアームストロング砲の試作に尽力した。
慶応3年パリ大博覧会に藩命をうけて渡仏、帰国後、海軍創設につくし、大蔵卿・元老院議長・農商務大臣などを歴任した。
明治10年西南戦争のとき博愛社(日本赤十字社)を創設して社長となる。
明治35年没。
年81。

島 義勇(1822〜1874)
文政5年生まれ。
通称団右衛門、字は国華、楽斎と号した。
枝吉神陽に学び、藤田東湖と交友があった。
安政年間から蝦夷・樺太を巡見、明治2年開拓使主席判官として札幌を中心に北海道開拓にのりだした。
のち侍従・秋田県令などをつとめ、征韓論分裂のころ、旧藩の憂国党に推されて領袖となり、征韓党とともに佐賀の役で戦った。
明治7年非道にも処刑された。
年53。

副島種臣(1828〜1905)
文政11年、佐賀藩士枝吉忠左衛門(南濠)の二男として生まれ、副島家の養子となる。
幼名龍種、号は蒼海または一々学人。
父および兄、枝吉神陽の感化をうけ尊攘論に傾く。
弘道館の国学教授をつとめ長崎で英学を学び、開国論に転じた。
参議・外務卿として対支那外交の第一人者。
マリアルーズ号事件を解決、征韓論争で下野し、清国に■■、のち侍講宮中顧問官・内務大臣などを歴任した。
明治38年没。
年78。

(碑文より)

 (石碑の写真より)

佐嘉神社



佐嘉神社
(佐賀県佐賀市松原2−10)





(平成20年11月24日)

【樺太国境問題交渉】

明治5年(1872年)6月、ロシアのビュツォフ駐日代理公使兼総領事が東京に赴任してきた。
外務卿副島種臣は、樺太国境問題について、ビュツォフと交渉に入った。
彼は、先年ロシアがアラスカをアメリカ合衆国に売却した例にならって、「樺太北緯50度以南の地を日本に売却してほしい」と提案したが、交渉は、ついにまとまらなかった。
やがて、副島は征韓論に敗れて下野してしまった。

(参考:中村新太郎 著 『日本人とロシア人』 1978年5月第1刷発行 大月書店)

(平成31年2月11日 追記)




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