平成24年3月10日

孫文 そんぶん Sun Wen

中華民国(台湾)台北市・逸仙公園でお会いしました。


中国の清朝末期~民国初期の革命家・政治家。
中国国民党の創設者。
号は逸仙いっせん、中山。
広東省出身。
ハワイの教会学校で学び、香港の西医書院を卒業。
澳門マカオなどで開業する一方、革命活動を開始する。
1894年、ハワイで興中会を組織し、翌年に広州で挙兵したが失敗したため日本に亡命。
宮崎滔天とうてん犬養毅らの援助を受け、1900年に恵州で再度蜂起を試みたが失敗する。
明治38年(1905年)、東京で中国革命同盟会を結成し、三民主義を綱領とした。
辛亥しんがい革命により中華民国臨時大統領に選ばれたが、南北妥協で袁世凱えんせいがいに政権を譲った。
1913年、第二次革命に失敗後、再び日本に亡命。
国民党の前身である中華革命党を創立(1919年に中国国民党に改名)。
1924年、国民党を改組し、連ソ・容共・農工扶助の方針を打ち出した。






孫文像
(台北市・逸仙公園)




(平成24年3月10日)



國父史蹟館
(台北市・逸仙公園)

日本統治時代の日本旅館「梅屋敷」を復元したもの。
1913年、孫文が宿泊したという。


(平成24年3月10日)

【初めて知り合った日本人】

孫文が初めて知り合った日本人は、ホノルルで会った菅原伝であった。
のちに菅原は、宮城県選出の政友会代議士となった。
当時、孫文は16歳、セントルイス・スクールに入学したとき菅原を知った。

そののち、30歳の孫文は、広東における第1回革命に敗れ、ハワイに亡命する時、陳少白を横浜に残し、陳を菅原に紹介した。
その菅原から曾根俊虎、曾根から宮崎弥蔵、弥蔵から宮崎滔天へと、日本の志士との連絡ができていった。(『菅原伝の生涯』)

(参考:岡田益吉 著 『危ない昭和史(下巻)~事件臨場記者の遺言~』 光人社 昭和56年4月 第1刷)

(令和元年5月8日 追記)


【孫文のインチキ革命】

孫文という職業革命家は日本やハワイを拠点に10回も革命を起こしますが、すべて失敗します。
孫文という人自体が若くして地元の広東を離れてしまったので、中国大陸の事情がわからなかったのです。
この孫文をはずして起きたのが1911年の辛亥革命です。
孫文抜きだと革命は成功します。
これに呼応した孫文は急遽帰国、翌12年元旦に中華民国建国を宣言し、自ら大統領に就任します。
大総統もしくは現在の中華民国で使われる総統というのは、Presidentの訳語で、大統領の事です。
アメリカかぶれの孫文は、自分は古い皇帝ではなく、新しいイメージのあるPresidentになりたかったのです。
2月、溥儀は退位させられます。
満洲人の溥儀を、漢民族の孫文が倒したのです。
これが動乱の幕開けでした。

孫文に関しては「アジアの大義」を信じ、孫文に殉じた日本人も多いことから、純粋な革命家だと思っている日本人もいますが、それは甚だしい勘違いです。
日米ソといった大国を天秤にかけながら、カネをせびり嘘をつき裏切り・・・・ということの連続です。
最晩年の孫文はコミンテルンと手を結びながら、神戸の女子学生の前で「アジア主義演説」をしているくらいですから、褒めるならばマキャベリスト、はっきり言えばインチキ革命家と言ったところでしょう。

(参考:倉山満 著 『嘘だらけの日中近現代史』 芙蓉社新書 2013年 第5刷発行)

(平成29年9月9日 追記)


【大亜細亜主義の演説】

明治40年、孫文が神戸において有名な「大亜細亜主義」の演説をしたとき、有名な「日本人は西方覇道の鷹犬となるか、東方王道の干城となるか、日本人自ら詳審慎択せよ」との明言を吐き、聴衆をして泣かしめたといわれている。
しかし、そういう孫文は、一方、連ソ容共政策を捨ててはいなかったので、孫文自身が西方覇道に片足を踏み込んでいたのも事実である。

(参考:岡田益吉 著 『危ない昭和史(下巻)~事件臨場記者の遺言~』 光人社 昭和56年4月 第1刷)

(令和元年5月8日 追記)


【日本に嫉妬を剥き出した孫文】

客家の出の孫文は親類を頼ってハワイで子供時代を過ごした。
学校を出てもあちらでは芽が出ない。
戻ってマカオで医者をやっていたが、それも飽きた。
で、ある日、思い立って満州族王朝、清を打倒する蜂起を企てた。
蜂起するにあたって出資を呼び掛けた一人が密告した。
彼は命からがら日本に逃げてきた。
日本という、犯罪者でも革命家でも自由に受け入れる空間が身近にあったことを孫文は感謝しなければならない。
宮崎滔天などは漢民族が偉大だと錯覚し、満洲民族の奴隷にされている彼らを本気で可哀相だと信じたと『三十三年之夢』にある。
梅屋庄吉も滔天に倣い、今のカネにして1兆円も貢いだ。
犬養毅も同じ。
孫文に早稲田鶴巻町の大豪邸をただで提供して孫文は、ここに日本人妻と住んだ。
日本はその間に日露戦争を戦って勝つ。
白人どころか満洲人の奴隷になっていた漢族の一人として孫文は「日本の勝利は白人に敵わないと思い込んでいたアジア民族を勇気づけた」「でも、日本人ができることは我が漢民族も当然できる」と嫉妬を剥き出しにしたものだ。

そして梅屋庄吉からカネをたかっては欧米で遊んでいる間に武漢蜂起が起きた。
辛亥革命の幕開けだ。
ただ孫文は米国で遊んでいる。
革命の親玉がいない。
それで、昨日まで革命派を捕まえて首を刎ねていた清朝側の司令官・黎元洪れい・げんこうを親玉に据えた。
辛亥革命が「心外革命」といわれる所以だ。
孫文はデンバーでそれを知るとニューヨーク、ロンドンを回って出資者を募った。
まずは懐を肥やせだ。
しかし、漢民族では上に立つ者は科挙の試験を通った文官が必要条件だった。
ハワイの高校出では通用しない。
孫文は退陣させられ、清朝の重臣で文官の袁世凱が大統領に就き、彼はすぐ皇帝となって袁王朝を建てようとした。

そのころ米政府が出資した反日誌『チャイナ・ウィークリー・レビュー』の記者ジョン・パウエルが、孫文夫婦に上海で会っている。
妻は世話になった日本人妻ではなく、この会見の少し前に娶った宋慶齢で、結婚式は東京の梅屋庄吉の邸宅で挙げていた。
このとき「孫文にはピストルを持った米人の護衛がついていた」とパウエル著『米国人記者が見た戦前の日本と支那』に書いてある。
護衛は米国人出資者がつけたボディガードだ。
言い換えれば孫文は梅屋の資産をほぼ蕩尽したので、この時期、米国人スポンサーに乗り換えつつあったということだ。
だから会見で日本の話が出ると「孫文はセオドア・ルーズベルトの対日政策の誤りを厳しく指摘した」。
孫文は「米国がもっと踏ん張って朝鮮に日本を入れなければ、日本は大陸への足掛かりができなかったはずだ」と、どこでボタンを掛け違えたかを指摘する。
米国がちゃんと日本を抑え込んでいれば問題はなかったのにと。
繰り返すが、孫文はその少し前に恩のある日本人に囲まれて結婚を祝福されたばかりだった。
それでこのいいざまだ。
宮崎滔天も後年、孫文ら漢民族の本性を知り、浪花節語りになった。

(参考:高山正之 著 『高山正之が米国・支那・韓国・朝日を斬る』 テーミス 2015年 第4刷発行)

(平成29年9月9日 追記)


【辛亥革命】

辛亥革命が起こったのは武昌の地。
義和団事件、日清戦争などの結果から清朝では李鴻章などの首唱で「富国強兵」策がとられ、軍装備の近代化がすすめられた。
外国の武器と外国式の軍兵教育が行なわれた軍隊を当時「新軍」と呼んだ。
武漢地方にある新軍は漢民族の子弟によって構成されていたので清朝には忠誠心を持たなかった。
各地の新軍の下級士官は、かねてから革命同盟会の影響を受けていた。
1911年5月、清朝政府は鉄道国有令を公布したが、これは民族資本の鉄道建設(四川、広東、湖北など13省)を餌にして外国の借款を得るために民間の企業を買収する法令だった。
これに対して「保路ほろ」と呼ばれる大衆運動が起こり、革命同盟会が中心となって、売国政策反対の運動が広がった。
四川省ではこの運動の幹部が逮捕され、ついで武漢地方の新軍の中の革命派(「滅満興漢」に共鳴していたもの)に弾圧が始まろうとしたので、革命同盟会の影響下にあった約3千の将兵が1911年10月10日に武昌で蜂起。
総督は逃亡し、まもなく湖北軍政府が樹立した。
10月10日が中国の「国慶節」になっているのはこのためである。
この報が各地に伝えられ、11月末までに湖南、広東、四川、江蘇、浙江など11省が独立を宣言した。
12月末に、南京17省の代表が集まり、外国から帰国した孫文を臨時大統領に推し、1912年1月1日で「中華民国」の成立が宣言された。
こうした革命の中心になったのが武昌にあった新軍の中堅将校、いわゆる青年将校であった。

ついでに辛亥革命の行方を見ると、連合した11省の革命勢力の間には、清朝を倒すことだけは一致していたが、他はほとんど一致点がなく、これを清朝が土壇場で任命した総理大臣・袁世凱によって利用され、清朝を否定することだけで封建的官僚や封建的地主制を残す「共和」によって巧妙に妥協させられる原因となった。
革命派は「排満」の目的を達した後の見通しがなく、もともと思想的に不統一な革命同盟会も革命を徹底的に推し進めるだけの指導力を持っていなかった。
こうして辛亥革命は、清朝が廃止されたというだけで、実質的な革命にはほど遠いものに終わった。

(参考:松本清張 著 『北一輝論』 講談社 昭和51年2月第1刷発行)

(平成29年10月18日 追記)


【辛亥革命】

辛亥革命は、明治44年10月10日の武昌占領であった。
孫文は英国にいたが、日本の同志・頭山満、犬養毅らは、海外より帰る孫文よりも早く上海に渡った。
孫文は二人の手をとって、その信義に感激して泣いたという。
しかるに、革命途上、早くも孫文が袁世凱と妥協したので、二人は南京の総統府に乗り込み、平生寡黙な頭山が、一世一代の大雄弁をふるってその非を説き、忠告をこころみた。
果たして1年もたたず、孫文は討袁の軍に敗れ、日本に亡命して頭山の家の近くに住むこと2年半、その間、東京は再び革命党の基地となった。
この時、蒋介石は、孫文の命を受けて東京と大陸の間を往来、奔走している。

(参考:岡田益吉 著 『危ない昭和史(下巻)~事件臨場記者の遺言~』 光人社 昭和56年4月 第1刷)

令和元年5月8日 追記)


【桂太郎首相との密談】

孫文は民国2年(大正2年)2月、日本に来遊し、桂太郎首相と向島の大倉喜八郎の前邸で、2回にわたり15~6時間、密談している。
両雄ここに肝胆相照らし、東亜の復興を図る世界政策において、両者の意見がまったく一致した。
この密談の際、孫文は、「支那本土のためには、満州は日本に譲ってもよい」と言ったと伝えられている。

(参考:岡田益吉 著 『危ない昭和史(下巻)~事件臨場記者の遺言~』 光人社 昭和56年4月 第1刷)

令和元年5月8日 追記)


【東亜同文会における講演】(大正2年2月頃)

孫文は、桂首相と会談したころ、東京の東亜同文会において、次のような講演をしている。

「中国がトルコの悲惨な轍を踏まないのは、隣りに日本という強国がいるからである。
この強国は、中国と同文同種の友邦である。
アジアはアジア人のアジアである。
中日両国人は隣人の言うことを信じて、互いに疑ったり、責め合ったりしてはならない。
アジアの和平はアジア人の義務であるが、中国には実力がない。
したがって、日本人の責任は非常に重大である。
日本が中国を保育し、中国と提携することは、予一人の希望のみではない。
おそらく全中国人の熱心に期待するところである。
アジアはわれらの一家、日本と中国は一家中の兄弟である。
この双生の兄弟が相せめぐときは、一家の平和は保てない。
日本はアジア最強の国であり、中国は東方最大の国である。
互いに補助して大局を維持せねばならぬ。」

(参考:岡田益吉 著 『危ない昭和史(下巻)~事件臨場記者の遺言~』 光人社 昭和56年4月 第1刷)

令和元年5月8日 追記)


【東京在留支那留学生への書簡】

孫文は、東京在留の支那留学生全体に対して告げた書簡の最後に、次のように書いている。

「日中両国間に小さな行き違いがあっても、大局を思えば問題ではない。
日本は従来、中国に対して侵略政策を行ったが、それは中国のなすなきを見て、中国が西洋に制せられたら、島国の日本は不安になるゆえ、やむを得ぬ策に出たのである。
今、中華民国が成立し、東亜の大局維持に責任を負うこととなれば、日本もその不安はない。
日本陸海軍の強盛なる、雄を世界に称し、わが中国なら数十年かからねばあれほどにはなれない。
もし日本がなかったなら、東亜の前途はどうなっていたか、東亜が無事で、われらに革命を成就させたのは、すべて日本の力である。
日本は真っ先にわが中華民国を承認したが、露国はわが国に対し承認を肯ぜず、しかも庫倫の独立には、ひとり真っ先に承認を与えている。
露国はわが国に関し利害相関せず、一種の侵略主義を持つだけである。
日本は違う。
わが国と利害相関し、侵略の野心はない。
彼は島国、われは陸国、絶対に侵さない。
たとえ近年侵略の挙動あるも、万やむを得ざるに出たので、その本心ではない。
我々は日本を諒としなければならない。
・・・・・・我らは日本人の中国人に対する心理に憤恨もあるが、これを祝愛に変えなければならない。
今日、中華民国を強国にしようとすれば、外交を重んぜねばならず、親日政策はわが外交上の最上の妙計である。
その責任は学生諸君がこれを負わねばならぬ。
日本人の中国に対する誤解を詳細に解明し、日本の政策方針は注意して研究し、風土人情も調査し、衝突をなくし、誤解をとき、共同して東亜大陸の幸福をはかり、ともに東亜の主人となるべきである」

(参考:岡田益吉 著 『危ない昭和史(下巻)~事件臨場記者の遺言~』 光人社 昭和56年4月 第1刷)

令和元年5月8日 追記)




 トップページに戻る   銅像のリストに戻る