巣鴨プリズン

東京都豊島区東池袋・東池袋中央公園


慰霊碑 平成16年12月22日

『永久平和を願って』の碑

碑文

第二次世界大戦後、東京市谷において極東国際軍事裁判所が課した刑及び他の連合国戦争犯罪法廷が課した一部の刑が、この地で執行された。
戦争による悲劇を再びくりかえさないため、この地を前述の遺跡とし、この碑を建立する。

昭和55年6月

東池袋中央公園



東池袋中央公園
(東京都豊島区東池袋・サンシャイン60の隣り)




(平成16年12月22日)

この碑が建っている場所は、かつて巣鴨プリズンの処刑台跡地です。
ここでA級戦犯7名、BC級戦犯53名が絞首刑になり、他にBC級戦犯1名が銃殺刑に処せられました。
昭和39年、処刑台跡地を保存することが閣議で決定され、昭和54年、この記念碑建立の案件が豊島区議会で最終段階を迎えたとき、賛否両論が新聞紙上を賑わしました。
また、「戦犯記念碑建設に反対する連絡会」という組織が、各方面で反対運動を展開しました。
このためか、当初、石碑の文字は『戦争裁判の遺跡』としていたものが、『永久平和を願って』という抽象的な表現に変えられたといわれています。
しかし、この碑の建立後、11名の区民が碑の設置が違法であることの確認と、維持・監理費の支出差し止めを求めて、区長を相手取って訴訟を起こしています。

参考文献:上坂冬子著『巣鴨プリズン13号鉄扉〜BC級戦犯とその遺族〜』


【巣鴨拘置所収容者氏名一覧】

(昭和20年12月末日・3階独房)
房番号  職務  氏名  房番号  職務  氏名 
 1  総理大臣  東條英機  32  大倉研究所長  大倉邦彦
 2  赤誠会総裁  橋本欣五郎  33  玄洋社主幹  進藤一馬
 3  陸軍大将  土肥原賢二  34  鐘紡社長  津田信吾
 4  外務大臣  松岡洋右  35  同盟通信社社長  古野伊之助
 5  陸軍少将  蕪木武男  36  貴族院議員  井田磐楠
 6  陸軍中将  本間雅晴  37  陸軍大佐  小林順一郎
 7  陸軍中将  菊池武夫  38  三菱重工社長  郷古 潔
 8  陸軍中将  沢田 茂  39  読売社長  正力松太郎
 9  陸軍大佐  鈴木 某  40  陸軍中将  木下栄市
 10  農林大臣  酒井忠正  41  海軍大将  高橋三吉
 11  法務大尉  和光 某  42  文部大臣  太田耕造
 12  海軍中将  上田良武  43  海軍大将  小林躋造
 13  内務大臣  安倍源基  44  元帥  畑 俊六
 14  農林大臣  井野碩哉  45  司法大臣  松坂弘政
 15  海軍大将  豊田副武  46  陸軍大将  河辺正三
 16  司法大臣  岩村通世  47  法学博士  大川周明
 17  皇族  梨本宮殿下  48  代議士  太田正孝
 18  商工大臣  岸 信介  49  陸軍中将  牟田口廉也
 19  陸軍中将  黒田重徳  50  国務大臣  星野直樹
 20  逓信大臣  村田省蔵  51  大東亜大臣  青木一男
 21  満州重工総裁  鮎川義介  52  内務大臣  後藤文夫
 22  企画院総裁  鈴木貞一  53  陸軍中将  四王天延孝
 23  逓信大臣  寺島 健  54  情報局総裁  天羽英二
 24  大蔵大臣  賀屋興宣  55  陸軍大将  西尾寿造
 25  海軍大臣  嶋田繁太郎  56  農林大臣  有馬頼寧
 26  陸軍大将  真崎甚三郎  57  陸軍中将  大野広一
 27  石原産業社長  石原廣一郎  58  陸軍少将  高地 某
 28  文部大臣  岡部長景  59  陸軍中将  石田乙五郎
 29  内務大臣  安藤紀三郎  60  陸軍少将  長支次夫
 30  代議士  池崎忠孝  61  陸軍大将  南 次郎
 31  国粋大衆党総裁  笹川良一  62  陸軍大尉  酒場 要

(参考:塩田道夫 著 『天皇と東条英機の苦悩』 日本文芸社 1988年10月 第10刷発行)

(令和2年9月5日 追記)


【正月】

巣鴨プリズンでの正月は、朝は、焼いた餅が3個、小さな「かぶ漬け」、小鯛の煮つけ、にんじん・ゴボウの煮しめ、白菜漬け、コーヒー、ミカン小5個がついた。
昼は、ご飯、牛肉、にんじんの煮込み、茹でたキャベツの酢かけ、紅茶、ミカン小5個であった。
夕は、ご飯、小さいイカの煮つけ2匹、にんじん・ゴボウの煮しめ、白菜漬け、紅茶、りんご2個という、国民も得られない贅沢なご馳走が並んだのである。

元旦が過ぎると、これまでより食事の内容は少し良くなり、ご飯が主食になってきた。
その分量も増えてきて、バターや肉、魚の副食も多くなった。
一時的なことにせよ、食事の内容が良くなったことは収容者にとって楽しみなことであった。

(参考:塩田道夫 著 『天皇と東条英機の苦悩』 日本文芸社 1988年10月 第10刷発行)

(令和2年9月5日 追記)


【食糧の横流し】

一般国民の食卓が飢えていたことから、巣鴨においても戦犯の食事は窮乏していた。
一時は良かった食事は、いつの間にか悪化してしまった。
生野菜が食事に出なくなり、米飯もなくなり、大豆の煮たのが出たり、塩気のない食物が多くなって、家畜の餌を食べているような待遇だった。

巣鴨の食事があまりにひどすぎたのは、単なる食糧の欠乏だけではないことがわかった。
それは給食を担当していた二世の栗崎という米軍将校が、横流しをしていたからだった。
拘置所の食糧の大部分を軍の大型トラックで運び出し、ヤミで売っていたのである。
不正で得た金で女を囲っていたというのだから、言語道断なことであった。
この将校は処罰されることになったが、一人のいい加減な管理者のために、戦犯たちが連日にわたり、ひもじい思いをしたのであった。

(参考:塩田道夫 著 『天皇と東条英機の苦悩』 日本文芸社 1988年10月 第10刷発行)

(令和2年9月6日 追記)


【刑場】

刑場の間取りは、清掃に囚人を使ったので詳しくわかっている。
方30メートルぐらいのコンクリートの塀に囲まれた一廓が、スガモ・プリズンのほぼ西北隅にある。
中に入ると殺風景な庭になっていて、その北側の隅に白木作り瓦葺きの古い日本の刑場があって、B・C級の戦犯ははじめそこで処刑された。

昭和22年末、A級戦犯処刑のために、その南側にアメリカ式の5人一度に執行できる処刑場が作られた。
灰色の波状ブリキ張り、ブリキ葺きの10×5メートルの建物である。
ドアを開けて入ると3メートル弱の高さの、粗削りのラワン材(一説に杉材)の処刑台がある。
囚人はそこまで13階段(アメリカはあくまでもこの数にこだわる)を上るので「巣鴨の十三階段」という言葉は象徴的な響きを持つことになる。

台上から2メートルぐらい高く、1本の梁が横に通っていて、5本のロープが下っている。
その下の1メートル角ほどの床に、日本の揚げ戸式のつっかえがあって、横手のハンドルの操作ではずれる。
死刑囚の体は、半地階まで落ち、くるくる廻る。
医師が心拍音を聴音して、死亡を確認する。

最終の処刑は昭和25年4月であるから、それまでA級戦犯処刑用にアメリカが建てた処刑台を使っていたと思われる。

(参考:大岡昇平 著 『ながい旅』 角川文庫 平成19年12月初版発行)

(令和2年10月11日 追記)


【処刑の手順】

処刑の手順は最初、巣鴨の処刑第1号、由利敬中尉が1946年4月26日に処刑された直後に、第8軍憲兵司令部のボブ・ゲーツ中佐が決めた。
第8軍の「公式」処刑人、チャールズ・レックスロード中尉が、ゲーツの行なった仕事を拡大し、プリズンにおける処刑のための標準作業手続きを文書にまとめた。
この秘密文書は一人だけの処刑手順を書いたものであり、やがて複数人数処刑でも大丈夫なように、変更が加えられた。
さらに何回か修正され、1948年4月にA級戦犯処刑用の特別作業手続きが出来たのだった。

多人数処刑の手続きによれば、まず23時30分、第8軍命令で任命された公式立会人全員が、巣鴨プリズンの指揮官室に集合する。
その後、第8軍憲兵司令官または第8軍の指揮官から死刑執行官に指名された将校の命令によって、絞首台へ移動する準備をする。
8番ゲートを通って絞首台へと向かう。
そしてXデーの零時1分、作戦将校がブルー・プリズン(A級戦犯の監房)に行き、仏教僧侶のためにブルー・プリズン内の仏間の戸を開けて、すべてが動き出す。
零時25分、最後の宗教儀式を終えた後、死刑囚の腕と足首に革紐がかけられ、絞首台まで歩きだしてから、すべての遺体が確認され、公式立会人が必要な証明書類にサインする、までの6つの作業手順に分けられていた。

(参考:ジョン・C・ルース著、山田寛 訳 『スガモ 尋問調書』 読売新聞社 1995年8月 第1刷)

(平成30年12月30日 追記)


【A級戦犯の処刑】

A級戦犯処刑の際、標準作業手続きに二つの変更が加えられた。
処刑官たちは、午後11時に東京駅に集合し、そこで説明を受けた後、大型トラックの荷台に乗り込んだ。
エリス・コッカー中尉の指揮の下、トラックは東京駅を出発、およそ11時30分ごろ巣鴨の、門をくぐった。
二つ目の変更は、処刑実施時刻である。
零時25分ではなく、午前零時過ぎで、できる限り早く、ということになった。

1948年12月23日午前零時をわずかに過ぎた時、処刑場の扉が開かれた。
土肥原賢二、松井石根、東条英機、武藤章の順に入ってきた。
鷹さ2.4メートルの絞首台の上に、ビル・マドックス曹長と7人の米兵が立ち、囚人たちを見下ろしていた。
デービス大佐が死刑囚に向かい刑執行命令書を改めて読み上げ、最後に何か言うことはないかと尋ねた。
4人とも何もないと断った。
監視の憲兵は、囚人が絞首台に設けられた二つの階段を上るまで付き添った。
列の初めの二人、土肥原と松井が処刑場の扉から遠い方の階段、東条と武藤は近い方の階段を上った。
階段を上がり切った所で、憲兵は処刑官4人、助手4人に囚人たちを引き渡した。
東条は右の方、第二番の踏み板の所へ行き、武藤はマドックスのいる方、第一番の踏み板に向かった。

マドックスは、動作で武藤に踏み板の中央に描かれた黒い足型の上に立つよう指示した。
武藤がその位置に来ると同時に、マドックスは目隠しの黒いフードを頭から被せ、それから囚人の足首の回りの紐を締めた。
助手は武藤の首にロープの輪をかけた。
囚人の両手は、身体の前で拘束され、手錠は腰のピストル・ベルトに革紐でつながれていた。
マドックスは助手が囚人の頭上15センチのところにあるロープの小さな握り手をつかんでいるか、確認した。
踏み板がはねた時、必要なら囚人の身体が開口部の中央に落ちるように調節するのが助手の仕事だった。
武藤の体が前方に落下して頭や肩を開口部の前側に打ち付けないように注意しなければならない。
そうなったら首の骨が折れて直ぐに死ぬのではなく、首を絞められてゆっくり死ぬことになってしまうのである。

マドックスは体を回転し、立会人やデービス大佐と向き合った。
デービス大佐の命令で、主任処刑官レックスロードが合図すると、大音響が轟き、4つの踏み板がはね開いた。

10分後、4人の医師が進み出た。
処刑官と看守兵が絞首台から降りてきて、ぶら下がっている肉体のそれぞれの脇に脚立を置いた。
肉体の一つ一つについて、医者たちは「この人間が死んだことを宣する」と宣言した。
それを聞くと、助手たちはロープを緩め、処刑官と二人一組の看守兵たちが、遺体を棺まで運んだ。
ロープ、フード、靴は遺体からはずされ、その後で各遺体の手から指紋が採取された。
遺体には白布がかけられ、出口を通って建物の反対側に運ばれ、引き続き監視された。
マドックスと助手は、次の囚人のため別のロープを用意した。
もう次の3人のグループ(板垣征四郎、木村兵太郎、広田弘毅)が絞首台へと向かってきていた。

(参考:ジョン・C・ルース著、山田寛 訳 『スガモ 尋問調書』 読売新聞社 1995年8月 第1刷)

(平成30年12月30日 追記)


戦犯の遺骨

戦犯の遺体は横浜市郊外の久保山火葬場で秘密裡に焼かれた。
深夜から明け方にかけて巣鴨プリズンの裏門を通って運び出され、幌つきのトラックには「米兵遺体」の名目の柩のかたわらに、アメリカ兵が終始付き添っていたという。
火葬の後で遺骨は全てアメリカ兵が持ち帰った。
戦犯の遺骨はマッカーサー元帥の秘密文書(1948年8月13日付)によって、遺族に渡してはならぬとされていたからである。
日本側では処刑寸前に戦犯の爪と頭髪を切り取って保管し、遺族たちにこれを届けている。
やがて火葬場の職員たちは、アメリカ兵が遺骨を持ち帰ったあとの遺灰を1ヶ所に集め、その上に素朴な慰霊塔を建てた。
慰霊塔の下の遺灰は、講和条約発効とともに引揚援護庁復員局の指示によって取り出され、公平に60等分されて東條英機大将をはじめとする7人のA級戦犯と、53人のBC級戦犯の遺族のもとに届けられた。
全処刑者の遺灰が混合状態であるが他に方法がなかった。

(参考:上坂冬子著『貝になった男〜直江津捕虜収容所事件〜』)

(平成21年2月22日追記)


【日本人看守の採用】

1950年6月24日現在、米軍士官25人、下士官兵456人が巣鴨勤務に任じられていたが、巣鴨の看守の需要は、1950年1月にピークに達していた。
極東にある他の連合国の収容所から囚人が移送されて、巣鴨の収容者が2172人にまで達したからである。
そのちょうど1年後には、朝鮮半島での動乱に人員をとられて、巣鴨は士官12人、准尉1人、下士官兵166人に減少している。
1950年7月6日、第8軍司令部は極東軍司令部に書簡を送り、巣鴨プリズン内の兵員不足を補うため、日本人看守を使用するよう提案した。
この計画はすぐに承認され、9月までに、朝鮮に送られた米兵の代わりとして、243人の日本人が雇われた。

(参考:ジョン・C・ルース著、山田寛 訳 『スガモ 尋問調書』 読売新聞社 1995年8月 第1刷)

(平成30年12月30日 追記)


【日本の管理に移行】

1951年9月8日、サンフランシスコで対日講和条約が調印された。
この条約の「政治及び経済条項」により、巣鴨は日本の管理へと移行されることになった。

1952年3月13日、日米双方の当局者は、巣鴨返還のための現地特別査察を実施した。
在日兵站司令部副査察官のレイモンド・バンカー大佐、日本法務省当局者5人などが査察に参加した。
バンカーの書いた報告書によると、同日現在の囚人は1108人、米軍士官11人、下士官兵123人、日本人看守は243人だった。
バンカーと法務省高官がサインした最終査察報告書で、6年以上に及んだ「米軍の巣鴨プリズン」は終わった。

(参考:ジョン・C・ルース著、山田寛 訳 『スガモ 尋問調書』 読売新聞社 1995年8月 第1刷)

(平成30年12月30日 追記)


【「巣鴨刑務所」への改称と管理】

日本の主権回復とともに巣鴨プリズンが「巣鴨刑務所」と改称され、同刑務所の管理は日本政府の手に移る。
昭和27年(1952年)4月28日、日本政府は占領中の昭和25年(1950年)3月7日にマッカーサーが制定したSCAP回章第5号「戦争犯罪人に対する恩典付与」を廃止し、講和条約第11条実施に関する「法律第103号」を新たに公布施行した。
「法令第103号」に従って、巣鴨刑務所の戦犯の仮出所や赦免は、法務府の中央更生保護委員会(法務府が法務省に再編された8月以降、「中央更生保護審査会」と改称)の勧告に基づき、裁判当事国と日本国政府との二国間の折衝によって決定されることになった。

(参考:永井均 著 『フィリピンBC級戦犯裁判』 講談社 2013年第1刷発行)

(令和2年1月11日 追記)


巣鴨戦犯刑務所の閉鎖

最後の戦犯45名が出獄し、巣鴨の受刑者がゼロとなったのは、昭和33年5月30日。
法務年鑑によれば、その後の外地からの引き揚げ戦犯者を見越してのことか、そのまま4年間据え置かれ、戦犯刑務所として完全に閉鎖されたのは昭和37年3月29日になっている。

(参考:上坂冬子著『生体解剖〜九州大学医学部事件〜』)

(平成20年7月20日追記)




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