菅実秀像 平成19年3月30日

菅実秀 すげ・さねひで

天保元年(1830年)〜明治36年(1903年)

鹿児島県鹿児島市・西郷南州顕彰館でお会いしました。


菅実秀像


臥牛がぎゅう 菅実秀翁像
(鹿児島市・西郷南州顕彰館)

庄内藩の代表的英傑・南州翁と道義の心交を結ぶ
明治23年「南州翁遺訓」を編集



(平成19年3月30日)
西郷南州顕彰館



西郷南州顕彰館

(鹿児島県鹿児島市上竜尾2−1・南州公園内)





(平成19年3月30日)

 平成26年11月22日 

山形県酒田市・南洲神社でお会いしました。







 「徳の交わり」像 
 (南洲神社)





(平成26年11月22日)

徳の交わり

西郷隆盛(南洲)と菅実秀(臥牛)が対話しているこの坐像は 鹿児島武西郷屋敷において両翁が親睦を深め「徳の交わり」を誓いあったことを記念して製作したものである
庄内藩は戊辰戦争で官軍に激しく抵抗したため厳しい処分を覚悟していたが南洲翁の公明正大な極めて寛大な処分となった
この南洲翁の大徳に感じ臥牛翁は明治8年自ら旧庄内藩士と共に訪鹿して南洲翁の教えを受け後にその教えを受けた人達の手記を集め「南洲翁遺訓」を発刊した
旧藩主酒井忠篤公は数名の人を各地に行脚させ全国に頒布した
南洲翁の偉大さに傾倒し生涯のすべてを尽くされた荘内南洲会の創始者である長谷川信夫先生の遺志を継ぎ今荘内の一角に両翁の遺徳を偲び不易の教訓である「敬天愛人」の精神を永く後世に伝えるため 有志相諮り浄財を募り対話の坐像を建立した

平成13年9月吉日
財団法人 荘内南洲会

(銘板より)


南洲神社 
(山形県酒田市飯盛山2−304−10)

(平成26年11月22日)

明治10年2月、西南の役前、荘内の二青年伴兼之と榊原政治は、当時私学校にて学問に調練に精励しておった。
西南の役がはじまり、決死の覚悟で従軍を願い許された二人は、西郷先生と共に2月17日鹿児島を出発した。
伴、榊原の両名の属した隊は、最初熊本城攻撃に参加した。
その後、田原坂、植木の戦斗に於ける戦い振りは見事であったと伝えられておる。
3月20日の植木での熾烈な戦斗の中で、伴兼之は政府軍の銃弾を受けて即死する。
此の時榊原政治は敢然として敵陣の真只中に突進し遂に政府軍を退却させることが出来、伴兼之の屍を引き取ることが出来た。
榊原青年は、其の後、人吉に赴き、連戦活躍したが、御船の戦で、敵弾を胸部に受け重傷となり、延岡の薩軍病院で手厚い看護を受けたのであったが、5月10日遂に戦死となる。
郷里庄内の人々は、この二人の死を伝え聞いて、若年乍らよくぞ荘内人の真面目を発揮して西郷先生に殉じて呉れたと、斉しく心から感謝したのであった。
鹿児島の南洲墓地の中に、しかも西郷先生のお墓のすぐ前に、我が荘内出身の二青年の墓がある。
御両人の行動を後々までも語り伝えるとともに、心より御冥福をお祈り申し上げます。

(財)荘内南洲会

(神社内の掲示板より)



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