享保18年9月13日(1733年10月20日)〜文化14年4月17日(1817年6月1日)
若狭国小浜藩医。
玄白は通称。
江戸生まれ。
漢学を宮瀬竜門りゅうもんに学び、蘭方外科を西玄哲げんてつに学ぶ。
山脇東洋の解剖観察に刺激され、オランダ通詞にオランダ流外科について質問、蘭書の入手につとめた。
明和8年(1771年)小塚原こづかっぱら刑場で屍体の解剖を観察。
携帯したオランダ語解剖書「ターヘル・アナトミア」の内景図が実景と符合していることに驚嘆し、同志と翻訳を決意する。
安永3年(1774年)『解体新書』5巻として公刊し、蘭方医書の本格的翻訳の先駆となった。
以後、診療と後進の育成に尽した。
多趣味で、社会批判の書などもある。
「慶応義塾発祥の地」碑・碑文
安政5年福沢諭吉この地に学塾を開く。
創立百年を記念して昭和33年慶応義塾これを建つ。
慶応義塾の起源は1858年福沢諭吉が中津藩奥平家の中屋敷に開いた蘭学の家塾に由来する。
その場所はこれより北東聖路加国際病院の構内に当る。
この地はまた1771年中津藩の医師前野良沢などがオランダ解剖書を初めて読んだ由緒あるところで、日本近代発祥の地として記念すべき場所である。
1958年4月23日除幕
「蘭学の泉はここに」碑・碑文
(前面)
1771年・明和8年3月5日に杉田玄白と中川淳庵とが前野良沢の宅にあつまった。
良沢の宅はこの近くの鉄砲州の豊前中津藩主奥平の屋敷内にあった。
3人はきのう千住骨が原で解体を見たとき、オランダ語の解剖書ターヘル・アナトミアの図とひきくらべてその正確なのにおどろき、発憤してさっそくきょうからこの本を訳しはじめようと決心したのである。
ところがそのつもりになってターヘル・アナトミアを見ると、オランダ語をすこしは知っている良沢にも、どう訳していいのかまったく見当がつかない。
それで身体の各部分についている名をてらしあわせて訳語を見つけることからはじめて、いろいろ苦心のすえ、ついに1774年・安永3年8月に解体新書5巻をつくりあげた。
これが西洋の学術書の本格的な翻訳のはじめて、これから蘭学がさかんになった。
このように蘭学の泉はここにわき出て、日本の近代文化の流れにかぎりない生気をそそぎつづけた。
(裏面)
1959年・昭和34年3月5日
第15回日本医学会総会の機会に
日本医史学会
日本医学会
日本医師会
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日本近代文化事始の地 「慶応義塾発祥の地」 「蘭学の泉はここに」 1982 2月3日 (東京都中央区明石町・聖路加国際病院斜め前) (平成18年2月22日) |
【解体新書】
医学書のページにビッシリ詰まった横文字を眺め、玄白たちは呆然としたが、やがてほんのわずかなオランダ語の知識を手がかりに、あとは想像力を働かして、必死に翻訳を進めていく。
たとえば、『蘭学事始』には、こんなエピソードが書かれている。
鼻の説明にある「フルヘッヘンド」という単語の意味が解らない。
が、別の文献に「木の枝を切ると、跡がフルヘッヘンドとなる」というようなことが書いてある。
枝の切り口は、成長すれば、やがてそこが盛り上がってくる。
となれば、鼻の形状から判断して「フルヘッヘンド」は「うずたかい」という意味だろう・・・・と、こんな苦労と推理の連続で、のろい歩みの翻訳を進めていったという。
こうして3年がかり、原稿の修正11回を数えた末に、ついに日本語版『ターヘル・アナトミア』は完成した。
日本語のタイトルは『解体新書』である。
玄白は『蘭学事始』の中で、こう述べている。
辞書もなしで作った『解体新書』は誤訳も多い。
それは当時から解っていた。
しかし「はじめて唱ふる時にあたりては、なかなか後のそしりを恐るゝやうなる碌々ろくろくたる了簡りょうけんにて企事くわだてごとは出来ぬものなり」
すなわち、どんなことであれ新しい事業とは、やる前から後世の批判を恐れるようなケチな了見では、一歩も踏み出せないのだ・・・・と。
(参考:『歴史街道 2002年7月号』
(平成23年9月30日追記)
【蘭学】
杉田玄白(1733〜1817)は、明和8年(1771)にヨハン・アダム・クルムス著『ターヘル=アナトミア』(解剖学書)を手に入れ、同じ年の3月4日、千住小塚原の刑場で死体の腑分ふわけを見て、それがオランダ本の図と同じであることに驚き、翻訳の決意をする。
会読は前野良沢を中心とし、中川淳庵、杉田玄白の3人で始められ、やがて桂川甫周その他も加わって、「社中」をつくるに至った。
社中で誰言うとなく「蘭学」という言葉が使われ、この呼び方が世間に広まった。
安永3年(1774)に『ターヘル=アナトミア』の日本語訳を『解体新書』と題して出版し、社中の桂川甫周の父・甫三ほさんを通して将軍家に献上、更に従弟・吉村辰碩を通して関白九条家および近衛准后内前・広橋家にそれぞれ1部を献上した。
『ターヘル・アナトミア』の会読は、官命によらざる、一種自発的な研究サークルだった。
その刊行後、恐らくは天明7年(1787)1月20日を始めとして玄白は、「病論会」という集まりに出かけて、流派を超えた医者たちの知識の交換に努めている。
会場にはしばしば杉田玄白自身の家があてられた。
「病論会」は、民間の学術研究会といって良いが、そういう研究を情緒的に支える、蘭学者の楽しみの会もあった。
【玄白の弟子】
杉田玄白の弟子は、文化2年(1805)筆の『玉味噌』と題する著作によると、104人を数え、38ヵ国にわたっている。
東海道(伊勢、尾張、三河、遠江、甲斐、相模、上総、常陸、武蔵、安房) 26人
東山道(美濃、信濃、上野、下野、陸奥、出羽) 25人
北陸道(若狭、越前、越後、加賀、佐渡) 18人
山陰道(丹波、丹後、石見) 6人
山陽道(美作、備前、備後) 6人
南海道(紀伊、阿波、讃岐、伊予) 10人
西海道(豊前、豊後、肥前、肥後、日向) 12人
畿内(山城) 1人
(参考:鶴見俊輔著 『評伝 高野長英 1804−50』 藤原書店 2007年発行)
(平成23年4月17日追記)
都史跡
杉田玄白墓
所在 港区西久保巴町98 栄閑院内
指定 昭和41年3月17日
杉田玄白(1733〜1817)は江戸中期の蘭方医、蘭学の祖である。
若狭小浜藩の藩医杉田甫仙の子、名は翼、字あざな子鳳、号は■斎、九幸翁など。
江戸に生まれ、西玄哲に外科、西幸作にオランダ外科を学んだ。
前野良沢、桂川甫周らとオランダ語解剖書を翻訳した『解体新書』は日本医学史上画期的な文献である。
文化12年(1815)に脱稿した『蘭学事始』は『解体新書』翻訳の苦心談を回想した点で有名である。
このほか「形影夜話」「野叟独話」などの著書がある。
昭和43年3月1日 建設
東京都教育委員会
(説明板より)
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猿寺 榮閑院 (東京都港区虎ノ門3−10−10) (平成18年7月25日) |
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