平成17年4月9日
安政2年3月3日(1855年4月19日)〜大正13年(1924年)2月13日
滋賀県大津市杉浦町・杉浦重剛旧宅でお会いしました。
明治3年(1870年)膳所ぜぜ藩貢進生として大学南校に入学。
明治9年(1876年)イギリスへ留学。
明治13年(1880年)帰国。
その後、東京大学予備門長、文部省参事官兼専門学務局次長などを歴任。
在野で多彩な言論・教育活動を展開する。
明治21年(1888年)政教社の創設に加わり、雑誌『日本人』を発刊。
東京英語学校(のちに日本中学校と改称)の設立、称好塾の経営、国学院学監、東亜同文書院長などとなる。
杉浦重剛先生像 (滋賀県大津市杉浦町・杉浦重剛旧宅) (平成17年4月9日) |
杉浦重剛先生碑
杉浦重剛先生は安政2年(1855)3月3日大津市膳所に生まれ梅窓または天台道士と号した
明治3年(1870)16才膳所藩の貢進生として上京
21才選ばれてイギリスに留学
化学を修め帰国後大学予備門(旧制第一高等学校の前身)の校長をつとめ また自ら称好塾および東京英語学校(後の日本中学校)を創設して青少年の教育に盡瘁
その門から横山大観 佐佐木信綱 大町桂月 巌谷小波 小川琢治 吉田茂 岩波茂雄ら各界にわたる数多くの人材が輩出した
大正3年(1914)から大正12年(1923)まで10年間東宮御学問所良子女王殿下御学問所の御用掛として倫理を進講
大正13年(1924)2月13日70才で永眠した
先生は青年期に化学を専攻 合理精神を身につけた進歩的自由主義者で身心清潔 見義明決 勤勉力行 誠実な生涯を貫いた偉大な教育者であった
杉浦重剛先生讃歌 佐佐木信綱
明治の御代大正の御代
に残しましし
大き足跡は消えせじ
永久に
昭和45年2月13日
杉浦重剛先生遺徳顕彰会建之
(碑文より)
杉浦重剛旧宅 (滋賀県大津市杉浦町) 道路の反対側のお宅に一声かけて見学するようになっています。 見学料は無料。内部にいくつかの資料が展示してあるだけです。 リーフレットは無し。 略歴を記載したチラシだけが入手可能資料でした。 (平成17年4月9日) |
旧居に展示されていた肖像画 (御進講当時の肖像) |
杉浦重剛略歴
安政2年 | 1855年 | 3月3日 | 近江の国膳所に生れる。 幼名譲次郎。父重文。母八重。 |
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万延元年 | 1860年 | 正月 | 6才 | 藩校遵義堂に入学。 |
慶應元年 | 1895年 | 春 | 11才 | 高橋作也(担堂)の門に入り漢籍を学ぶ。 |
慶應2年 | 1866年 | 6月 | 12才 | 黒田行次郎(麹盧)の門に入り漢学及び蘭学を学ぶ。 |
明治元年 | 1868年 | 4月 | 14才 | 岩垣六蔵(月洲)の門に入り漢籍を学ぶ。 |
明治2年 | 1869年 | 正月 | 15才 | 二人扶持徒士組、遵義堂句読方を命ぜられる。 |
明治3年 | 1870年 | 10月 | 16才 | 膳所藩貢進生として大学南校に入り、英語普通科を修める。 |
明治9年 | 1876年 | 6月 | 22才 | 文部省留学生として化学修業のため英国に渡る。 |
明治13年 | 1880年 | 3月 | 26才 | 病気のため帰国を命ぜられ、5月18日帰国。 |
明治14年 | 1881年 | 9月 | 27才 | 文部省凖奏任御用掛兼植物園事務掛取締。 |
明治15年 | 1882年 | 2月 | 28才 | 東京大学予備門長に任ぜられる。 |
明治18年 | 1885年 | 7月 | 31才 | 東京英語学校を設立する。 (後の日本中学校 現日本学園高等学校 |
明治21年 | 1888年 | 4月 | 34才 | 雑誌「日本人」発刊。 |
明治23年 | 1890年 | 7月 | 36才 | 衆議院議員に当選。 小石川区会議員に当選。 |
明治24年 | 1891年 | 3月 | 37才 | 衆議院議員を辞す。 東京市学務委員 小石川区学務委員を嘱託される。 |
大正3年 | 1914年 | 5月 | 60才 | 東宮御学問御用掛を命ぜられ倫理を担当する。 |
大正5年 | 1916年 | 4月 | 62才 | 叙正五位。 |
大正7年 | 1918年 | 5月 | 64才 | 良子女王殿下の修身科担当を嘱託される。 称好塾舎落成式。 |
大正8年 | 1919年 | 5月 | 65才 | 勲三等に叙し旭日中授章を受ける。 |
大正9年 | 1920年 | 11月 | 66才 | 宮中某重大事件起こる。 |
大正13年 | 1924年 | 4月 | 70才 | 勲二等旭日重光章を賜る。 永眠。 2月13日 |
(旧居に置いてあったチラシより)
旧居の全景 白い屏のところが旧居。 周りは住宅で囲まれているので、門の前まで行かないと旧居だとは気がつきませんでした。 (平成17年4月9日) |
旧居へ向かう道 住宅の間の細い道を入っていきます。 途中で道に迷い、近所の人に尋ねながら行きました。 目立つ案内板が欲しいところです。 (平成17年4月9日) |
京阪電車石山坂本線「瓦ヶ浜かわらがはま」駅 この駅が最寄り駅となります。 (平成17年4月9日) |
『宮中某重大事件』(杉浦重剛 VS 山県有朋) |
皇太子(のちの昭和天皇)と久邇宮良子くにのみやながこ女王との婚約が決まったのは大正7年1月だった。
皇太子は17歳。良子女王は15歳であった。
良子女王は久邇宮邦彦くによし王の第一王女で、学習院女学部に在学していた。
婚約の発表は大正8年6月である。
久邇宮邦彦王は、第一王女良子を皇太子妃にと内示を受けた時に驚いたらしい。
すぐに波多野敬直宮内大臣のもとに行って「わが家系には色弱症の遺伝があるかもしれない」と申し出た。
報告を受けた宮内省側は驚き、宮内省の意を受けた眼科医に調査させたところ良子女王には色弱の傾向がないとわかり、とにかく婚約にこぎつけたのである。
これで終わっていれば、俗に「宮中某重大事件」といわれる歴史事件は起らなかった。
元老山県有朋は、長州閥の象徴のような人物だが、この結婚にあまり賛成ではなかった。
一説では薩摩関係者ではなく、長州関係者の子女を皇太子妃に据えたかったという。
(良子女王の母親である邦彦王の俔子ちかこ妃は薩摩の公爵島津忠義の娘)
その山県に、良子女王が色弱の傾向があるとの噂が耳に入った。
噂を信じた山県は、元老の西園寺公望や松方正義に相談を持ちかけ、もう一度検査をすることとし、久邇宮家には皇太子妃を辞退せよと迫る方針を決めた。
久邇宮家側に立つ眼科医は、良子女王は色盲や色弱ではないと根拠を示し、子孫にもそれはあらわれないと主張。
宮内省侍医の眼科担当医は必ずしもそうとはいいきれないとした。
こうなってからは、山県と久邇宮家を支援する政治勢力の対立となった。
山県の強い希望で第三者として東京帝国大学医学部の5人の教授が鑑定を行ない、子孫に現れるか否かは五分五分という結果になった。
山県はますます久邇宮家に圧力をかけた。
久邇宮が困惑している時に有力な支援者がついた。
かつて東宮御学問所で帝王学の要になる倫理や歴史を皇太子に教えた杉浦重剛である。
杉浦は、婚約が決まると東宮御学問所をはなれて良子女王にお妃教育を行なっていた。
もし久邇宮家に宮内省が婚約破棄を伝える事態になればそれは許されぬことだと、久邇宮家に辞職届を提出したあと反山県の活動を始めた。
〈婚約破棄というのは、人の道に反する。もしそのようなことが起こったら、自分が皇太子や良子女王に申し上げてきた「日本の皇室は智、仁、勇を以て立たなければならない」というご進講も根本から崩れてしまう〉と杉浦は考えたのである。
杉浦には、神がかりの性格もあった。
自決を覚悟しての戦いを挑むというのであった。
山県への憎悪と、山県に踊らされている首相の原敬にも敵意を燃やした。
杉浦の人脈は政界、経済界だけでなく、右翼陣営にも広がっている。
とくに国粋主義団体の玄洋社を主宰する頭山満とうやまみつるが、杉浦に助力を約束し、山県の権勢欲を叩かなければならないと申し出た。
右翼陣営は、山県に代表される藩閥打倒へと動いたのだ。
怪文書が撒かれた。
若い活動家の北一輝の筆になるといわれている。
原は山県の藩閥政治にも反対だったが、しかし婚約問題では久邇宮家が辞退した方がいいとの考えを持っていた。
だが徐々にその考えを変えざるを得なくなった。
宮内省側も初めは2派に分かれていたが、次第に杉浦の意見に促されて久邇宮家側を支援する勢力が強くなった。
山県は次第に孤立した。
大正10年12月8日に、宮内省は皇太子が渡欧して見聞を広めてくることを発表。
ところが今度は、反山県の右翼陣営が、山県が皇太子を英国に送って、良子女王との間を裂こうとしていると騒ぎだした。
加えて、大正天皇は皇太子の結婚問題に意見を吐こうにも、どうにもならないほど健康状態を悪化させていた。
山県は、最後の手段として、皇太子にこの色盲問題の経緯を率直に伝え、そのうえで皇太子自身の判断を仰ごうと考えるに至った。
それは政治的に誰の手を借りることも出来なくなった山県の、天皇家に直結しているという自負に由来していた。
皇太子自身は、久邇宮家の色盲問題をまったく知らされていなかった。
しかし、結局そこに行くまでに、意外な方向で事態は終熄を迎えた。
中村雄次郎宮内大臣のもとに、内務省警保局から、壮士の一団が山県や原を狙うだけでなく、この結婚を快く思っていない宮家をもテロの対象としている、という報告がはいってきた。
皇族に累が及ぶというのは、宮内大臣にとって最も恐れることだった。
山県の影響下にあった中村は、すぐに山県のもとに駆け付け、こうなったら皇太子の婚約は何の支障もなく挙行されると発表すべきだと説いた。
ここに至って山県はやっと決断。
こうして宮内大臣談話が発表されて事態は解決した。
ちなみに、この“宮中某重大事件”の全貌が明らかになったのは、太平洋戦争終結後のことである。
(参考:保阪正康 著『秩父宮〜昭和天皇弟宮の生涯』 中公文庫)
(平成22年8月26日追記)
【吉野作造の「民本主義」の名付け親】
吉野作造が『中央公論』にいろいろな論文を発表して、一世の耳目を震駭しんがいしていた頃のある夜のこと、自宅に遅く帰ると「杉浦重剛」という名刺が置いてあった。
杉浦重剛は雑誌『日本及日本人』nかつての同人であり、後年、「日本中学校長」として有名な教育者でもあり、天台道士と号する国士でもあり、どちらかといえば右翼思想家といわれた人格者であったが、当時は、大隈重信侯の推薦によって、東宮御学問所の御用掛になっていた。
現在の天皇(昭和天皇)が皇太子時代に帝王学をご進講していた。
吉野は早速、翌日に杉浦翁を訪問して6時間にわたり、杉浦翁の「我が国体と貴下の民主主義とがいかに調和するか」という質問に答えたという。
その時、杉浦翁が「貴下の民主主義とは民本主義と訳さるべきではないか」と言ったので、吉野はそれにヒントを得て「民本主義」という新語を使用することにしたといわれる(矢次一夫著『昭和の人物秘録』)
吉野は杉浦翁の真剣で公正な態度に感動したという。
「民本主義」という言葉が杉浦重剛翁から生まれたというのは実に面白い。
(参考:岡田益吉 著 『危ない昭和史(上巻)〜事件臨場記者の遺言〜』 光人社 昭和56年4月 第1刷)
(令和元年10月7日 追記)
杉浦重剛墓 (東京都文京区小石川・伝通院) (平成18年3月11日) |
杉浦重剛しげたけ墓
安政2年―大正13年(1855―1924)。
滋賀県の生まれ。
幼名を譲次郎。
号は梅窓または天台道士。
明治3年東京大学南校に入学、明治9年英国に留学する。
明治18年東京英語学校を創立した。
後年、国学院学監、皇典講究所幹事長、東亜同文書院長などをつとめ、大正3年(1914)東宮御学問所御用掛となった。
明治・大正時代の教育者、評論家としての活躍は有名である。
平成元年3月
東京都文京区教育委員会
(説明板より)
浄土宗 無量山伝通院むりょうざんでんつういん (東京都文京区小石川3−14−6) (平成18年3月11日) |
傅通院のあゆみ
当山は今から約600年程前の応永22年(1415)浄土宗第七祖誉聖冏上人が開山したお寺。
当時は小石川極楽水の小さな草庵で無量山寿経寺という名で開創された。
それから二百年後慶長7年(1602)8月29日、家康公の生母お大の方が逝去され、この寿経寺を菩提寺と定めた。
お大の方の法名「傅通院殿」から「傅通院」と呼ばれるようになり、徳川家の庇護のもと、大伽藍が整えられた。
また、当山は関東十八檀林の一つとして学僧の修業勉学の場となり僧侶養成の重責を担っていた。
更に明治以後には淑徳女学校を設立。
広く社会に向けて女子教育にも力を注いでいる。
しかし、このような歴史の中にも、享保6年(1721)・同10年(1725)・明治43年(1910)の三度の大火にあい、更には第二次世界大戦では境内建物、宝物等全て灰燼に帰してしまった。
戦後は復興にはげみ、昭和63年(1988)新世紀の宗教活動に対応できる新本堂を建立。
平成9年(1997)繊月会館を建立。
平成11年(1999)には観音堂(休憩所)を建立し現在に至っている。
(説明板より)
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