艦上爆撃機・彗星


彗星 平成18年11月22日再訪問

艦上爆撃機 彗星 艦上爆撃機・彗星[すいせい]
(東京都千代田区九段・靖国神社・遊就館)










(平成14年10月24日)
艦上爆撃機 彗星

艦上爆撃機「彗星」

昭和18(1943)年12月に正式採用された日本海軍最後の制式艦上爆撃機で、終戦までに2,157機が生産された。
戦局の進展から艦上機として用いられるより陸上爆撃機として多用され、終戦間際には特攻機として多くが失われた。
展示されてる「彗星」は昭和47(1972)年、中部太平洋西カロリン諸島ヤップ島の旧滑走路脇のジャングルで遠藤信彦氏によって発見され、日本テレビ放送網(株)の協力で日本への里帰りが実現した。
「彗星」ゆかりの陸上自衛隊木更津[きさらづ]基地で飛行機研究家田中祥一氏をリーダーとして復元され、昭和56(1981)年4月5日靖国神社に奉納された。

(説明板より)

発動機



熱田21型発動機

(東京・靖国神社遊就館)





(平成18年11月22日)

熱田あつた21型発動機

この発動機は当時、世界最高水準を誇ったドイツのダイムラーベンツ社の液冷えきれいエンジンDB601を、愛知時計電機が国産化したものである。
戦局の悪化にともない工作機械の加工精度の低下等の問題があり、技術陣は対処を重ねて、昭和18年12月高速艦上爆撃機「彗星すいせい」に搭載して世に送り出した。
戦争末期のことで、戦況においてはこの性能を充分に発揮できなかったが、彗星はこの発動機の勝すぐれた高速性を誇った。

(説明板より)


【新艦爆・十三試艦爆】

太平洋戦争の中盤まで主力艦爆として活躍した九九式艦上爆撃機の試作型・十一試艦爆が、ようやく飛行テストを開始した昭和13年、ドイツ帰りの山名正夫博士を中心に技術士官を配して、十三試艦爆の試作が空技廠で始まった。
試作機の発注は航空本部が民間会社に、使用目的や寸度、性能などを記した計画要求書を提示するところから始まるのが普通だが、十三試艦爆の場合は山名グループがさまざまな基本設計案を検討し、可能性のある最高性能を算出して、その数字を航空本部に見せて計画要求として掲げる、という変則的なものだった。
海軍の一部である空技廠だから許される“お手盛り”方式と言えよう。
しかし、自ら課した要求性能には、当時としては驚異的な数字が並んだ。
最高速度280ノット(519キロ/時)、巡航速度230ノット(426キロ/時)、250キロ爆弾搭載時の航続力800浬(約1480キロ)の性能は、空母決戦の際に敵艦上機の行動半径外から発進し、一気に敵艦隊に迫って投弾ののち、敵戦闘機の追撃を振り切って帰投、という理想的な作戦を可能にする図抜けた値だった。

十三試艦爆は空母に乗せて運用する機なので、生産数は限られることを大前提にしていた。
したがって、量産性すなわち作りやすさへの考慮は二の次とし、整備の難易度についても、ベテランの多い母艦整備員が扱うのだから、さほど気にかける必要はない。
すなわち、艦上機であるという制約以外、性能だけを追及すればいい。
高速を得るため、正面面積が小で空気抵抗の少ない液冷エンジンを採用し、機体全体にわたり徹底的に抵抗を減らす配慮がなされた。
こうした設計は、構造の複雑さと工作の困難化を招く。
それに輪をかけたのが、主車輪ブレーキとプロペラ・ピッチの変更機構のほかは、いっさい油圧を用いず、すべて電気モーター駆動式としたことだ。
当時の日本の工作技術の低さから多発した油圧の作動油漏れへの対策だったが、電動化によって歯車などの部品が激増した。

十三試艦爆の1号機は昭和15年11月に完成した。
空母のエレベーターに乗せるために全幅11.5メートルにまとめた主翼と、全長10.22メートルの胴体からなる小柄な機体だった。
空技廠では5号機まで作られ、設計技師の監督、指導と丁寧な工作により、最大速度298ノット(552キロ/時)、爆装時の航続距離850浬(約1570キロ)と要求性能をクリアーしたが、テスト飛行は冷却器を含む動力系統の不具合などにより遅延した。
さらにその速度と航続力を買われ、まず艦上偵察機として試用されることになり、ミッドウェー海戦で2機を失くし、さらに横須賀・追浜おっぱま基地での飛行テスト中に1機を失って、艦爆としての実用テストは停滞した。

当時ろくな偵察機を持たず、陸軍から百式司令部偵察機を融通してもらってしのいでいた海軍は、昭和17年7月に取りあえず「二式艦上偵察機11型」の名で制式採用を決定。
生産は愛知時計電機(昭和18年2月に愛知航空機と改称)が担当。
昭和17年末から18年初めにかけて完成し始めた量産機が4月からラバウルへ送られた。
艦上爆撃機「彗星」11型として制式採用に至ったのは昭和18年12月。
試作1号機の完成後、実にまる3年を経過していた。
「彗星」艦爆の活動は昭和19年に入ってから始まり、6月の「あ」号作戦には空母に積まれて参加した。

11型の性能は量産化によっていくらか低下したうえ、エンジンの故障も少なからず生じた。
続いて出力を高めた「彗星」12型/二式艦上偵察機12型では、さらに動力系統のトラブルが頻発。
これらを根本的に解決すべく、エンジンの空冷化がはかられ、昭和19年5月に空冷「彗星」の試作1号機(33型)が完成した。
この33型はエンジン換装によって「ほとんど表面摩擦抵抗だけ」といわれた流麗な胴体の形状がぶち壊しとなったが、離昇出力が100馬力アップされたため、性能の低下はさほどではなかった。
昭和19年後半からの生産は33型と、防弾装備などを増した単座の43型の、空冷「彗星」に重点が移っていく。

愛知航空機は、1812機もの「彗星」(うち832機は空冷型)を量産している。
ほかに第11航空廠で空冷型が約340機量産されている。

【名機か駄作か】

戦後に書かれた液冷「彗星」に対する論評は、「設計陣が高性能を追及するあまり、量産性、整備性を考慮せずに作られた、消耗品たる兵器にはほど遠い研究機」という辛らつなものと、「確かに複雑な構造ではあったが、有効な新機軸を随所に盛り込んで高性能を得た非凡な機」という同情的なものとに分かれる。

十三試艦爆、二式艦偵、「彗星」艦爆、「彗星」夜戦に乗った多くの搭乗員に会ってきて、彼らの口から「『彗星』は欠陥機」との酷評を聞いたことがない。
なかには「非常にいい飛行機」と評価する者もいるほどだ。
さらに、これらの搭乗員の経験は、飛行時間1000時間を超えるようなベテランよりも、昭和19年から20年初めにかけて実施部隊に着任した操縦歴の浅い者のほうが多いのである。
雑誌に載った2、3の手記を資料に判断を下すと、とんでもないミスを招きかねない。

「彗星」に対する評価は、むしろ整備員に聞かねばならない。
彼らが、搭乗員と異口同音に掲げる欠陥は、液冷エンジン「熱田あつた」と電気駆動システムの故障の多発である。
この2点については、空技廠設計陣の完全な選択ミスと言わざるを得ない。
問題は、その設計のまずさにある。
やたらに歯車類などを増やして量産性と整備性を低めたこと、駆動用モーターおよび蓄電池の選択が不適で、作動力と持続力が弱く、地上でも空中でも脚やフラップの出し入れがしばしば不能になったことは、設計グループの経験の少なさが物語る。
同じ電動式を採用しながら、三菱の「雷電」はこの点あまり問題が起きなかった。
「彗星」の最大の欠陥は、あらゆる意味でエンジンにあった。

【「熱田」エンジン】

空気抵抗減少の観点から選ばれた液冷エンジンは、機体の試作開始と同じ昭和13年に愛知がライセンス生産の契約を結んだドイツのダイムラー・ベンツDB601Aである。
離昇出力1175馬力のDB601Aの特徴は、流体接手つぎてによる過給機羽車の無段階変速と、気化器を不用にした気筒内への燃料直接噴射装置で、ともに機械の国ドイツならではの高度なメカニズムだった。
愛知製のDB601Aは「熱田」21型(離昇出力1200馬力)と呼ばれ、その精密な構造をなんとか国産化することができた。
燃料噴射装置だけはボッシュ社がライセンス生産を許さなかったので、日立航空機が無許可でコピー生産した。
冷却液はDB601と異なって、エチレン・グリーコールを排し、高温高圧水だけを用いるように変更。

「熱田」21型は「彗星」11型と二式艦偵11型に用いられ、「彗星」12型では離昇出力を1400馬力に向上させた「熱田」32型に変更。
その後、液冷に見切りをつけて空冷エンジン・三菱「金星きんせい」62型の装備に至る。
「熱田」32型は、21型の圧縮比を高め、回転数を上げて出力増大をはかっており、エンジンをわずかに大きくしただけで、高度5000メートルで300馬力もの向上を得た。
そのぶん構造面に負担が生じ、ニッケルの不使用など材料の低品質化と徴兵のための工員の技量低下、軍需省によるノルマ強化が重なって、量産品の完品(合格品)率は21型より落ちた。
これが実施部隊と航空本部の不評を買って、空冷化に至ったのである。

ついでながら、DB601Aは、海軍と陸軍が別個に生産権を買うという、日本以外ではまずありえない、信じがたいほどのセクショナリズムの好例になった。
その陸軍側の会社である川崎航空機は、自社設計の三式戦闘機「飛燕ひえん」に、このエンジン(ハ40、出力向上型はハ140)を付けたが、結局「金星」62型に換装して、陸軍最後の制式戦闘機・五式戦の誕生を見る。

(参考:渡辺洋二 著 『彗星夜襲隊』 2003年12月発行 光人社NF文庫)

(平成27年8月15日・追記)


【量産を阻んだ精緻な構造】

「彗星」は、空技廠が設計の極限を見極めようとして試作した、いわば研究機的な性格の強い飛行機だった。
それが、試作機を飛ばしてみると意外に高性能を発揮したことから、制式化することになったものだが、そのためには量産化に先駆けて、作りやすいよう再設計をする必要があった。
それを省いて量産に入った「彗星」は、いたるところで部品の作りにくさがネックとなり、思うように生産が進まなかった。
かといって、変更された設計の承認図を出させ、それを承認するというような手順を踏んでいると、1ヵ月や2ヵ月はすぐ経ってしまうので、設計変更は現地の監督官の裁量に任せるよう航空本部から指令が出た。
そのため、ある部品の生産性が上がって沢山出来るようになっても、他の部品との数のアンバランスが大きくなるだけで、飛行機の生産は依然として改善されなかった。

「彗星」は設計者の山名技術中佐が「艦上機である以上、その使用機数は母艦(航空母艦)の数と積載(搭載)機数によって制限される。したがって膨大な数の量産は考えられないから、構造的には少々難しくても、できるだけ重量を軽くして、性能向上を第一の目標とする」という基本方針から、軽量設計だけではなく、構造や機構にも“複雑巧緻”と評された名人芸的な手法を採用した。
それが、むしろ陸上機として使われることが多かったことから、大量の数が要求されるようになり、結果的に2,160機という、海軍機としては零戦、一式陸攻に次ぐ量産機となってしまったところに、山名の思いもかけない誤算があった。

(参考:碇義朗 著 『航空テクノロジーの戦い』 光人社NF文庫 1996年3月発行)

(令和2年5月5日 追記)


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